Part5
長い説明であった。
錬司の知らない言葉が、幾つも飛び出して来た。しかし、錬司は、人に説明をする事は出来なくとも、自分の中では驚く程簡単に、摩耶の話を理解する事が出来た。
「貴方には、悪い事をしたわ。私の所為で、貴方を、普通の人間の身体ではなくしてしまった……」
「それは……」
錬司は、ベンチの隣に座って俯く摩耶に、言葉を掛けた。
「花果さんの所為じゃ、ありませんよ。悪いのはホイル製薬……いや、彼らに生体兵器なんかを造らせようとした人たち……ううん、戦争をしたがっている人たちじゃないですか」
α、アルフォース、Ψ、サイサリス、Σ、Ω……それらを開発したのはホイル製薬である。だが、彼らは彼ら自身の研究をしていただけだ。それに、生体兵器による戦争を求める者たちが眼を付け、依頼した。倫理的には許される事ではないが、銃やミサイル、戦車、戦闘機、軍艦を作るのを生業としている人間が、犯罪者であると言い切る事は難しい。それと同じだ。
ましてや摩耶は、そうした兵器開発に異を唱えて、告発を試みたのだ。正義の心と強い勇気を持つ摩耶を、どうして責める事が出来るだろう。しかも、彼女に命を救われたこの自分が――
「それに、僕は、感謝してるんです、花果さんに」
「え……」
「だって、僕……」
錬司がそう言い掛けた時だった。
ざわり……
錬司の肌が粟立った。
こわい気配が叩き付けられて来たのだ。
嗅覚や聴覚が、それを後から感じ取った。その気配を察知したのは、何よりも勘と言うべきものであり、それまで愚鈍であった自分には想像も出来ない速度で、全身を緊張させた。
「どうしたの?」
「何かが、いる……」
錬司の耳は、低い呼吸音を捉えていた。出来るだけ、自らの存在を隠そうとする吐息である。又、その鼻は、野生の匂いを嗅ぎ取っている。動物園で檻の向こうに感じるあの匂いを、生命溢れる雑木林が孕んだ香りに寄せて、更に血や肉のような生臭さを混ぜたものだ。
錬司の脳裏に、鋭い牙が浮かんだ。唾液にまみれた赤い舌が映った。それを秘めた毛むくじゃらの口が思い描かれる。獣の顎が、自らの背なの肉を骨ごとほじくり出そうという意思を以て、強くイメージされた。
風が吹いた。
獣の体臭が、益々濃く吹き付けて来た。
「何かが⁉」
摩耶もベンチから腰を上げた。錬司と背中を合わせるようにして立つ。
錬司は、入口の方を見た。次に、その入り口から右手にある生垣と木々の列を眺めてゆく。ぐるりと、視線が公園を一蹴した所で、気配が笑ったのを感じた。こちらを嘲っている。
「――っ」
錬司は、摩耶の肩を抱いて、前方に跳んだ。錬司に抱かれる形の摩耶は、倒れ込みながら、自分たちの頭上、樹の上から降って来た黒い塊を見た。
ずん、と、重い衝撃が響く。直前まで錬司たちのいたベンチが、中頃から押し潰されていた。その上に、黒々とした巨大な塊が鎮座していた。
「これは……!」
錬司が、摩耶を庇うように前に出る。心臓がばくばくと脈打っていた。全身が燃えるように熱くなっており、呼吸が荒い。
黒い塊が、ぬるり……と、動く。前に出したのは、腕に似た部分であった。だが、その太さはまるで土管のようだった。中身がみっちりと詰まった土管の表面に、ワイヤーのような獣毛が生え揃っている。その腕の先を、公園の中心に向かって伸ばし、手前の地面に落とした。
次いで、異様な長さの脚を進めて来る。腕の太さに反し、脚は引き締まっていた。付け根の方がゴムタイヤのように膨らんでいるのに、関節から下までが鉄パイプのように細身である。砂利を踏む爪先は、蹄のような形をしているのに、その数は四つ。それとは別に、身体の内側に突き出した棒のような器官が確認された。足の五指の内、人差し指から小指までが蹄を生じ、親指のみが大きな変化をしていないのだ。
太く、長い腕の付け根は、大樹の幹を横にしたようである。その丁度中間に当たる部位に、一対の小さな切れ込みと、一つの巨大な楕円の孔が開いていた。小さな切れ込みの中には、光を反射する水晶体が埋め込まれていて、それが眼である事が分かる。楕円の切れ込みの間から、黄色く濁った鋭利な骨が見えるが、それは歯――牙なのだろう。それらの間には、体毛で隠されてしまっているのだが、僅かな突起と、その左右に開いた孔がある。それが鼻だ。
胴体は、真っ直ぐに立ったならば、逆三角形のシルエットを造り出すだろう。頸と呼べるものがないその身体には、獣毛がまだらに生えている。極端に濃い部分もあれば、薄い個所もあって、その濃淡が奇妙なコントラストになっていた。
――何だ、これは。
奇怪なシルエットの動物であった。どんなマニアも唸らせる動物園でもお眼に掛かれないような、地上に存在する事を疑いたくなる生物だ。それなのに、その部位を既存の動物のものに当て嵌めてみる事が出来てしまう。
「Ψよ……」
摩耶が囁いた。
「Ψ⁉」
「蛹の状態で混入させた遺伝子が、肉体の再構築の段階でエラーを起こし、こんな姿にしてしまったの……」
では、これは、人間なのか。
人間が、こんな不気味なモンスターに、作り替えられてしまうのか⁉
背中に、寒気が通り抜ける。かつて、蝶の羽化を見た時と同じような感覚であった。あんなに美しい虫が、ああも醜い芋虫から生まれた事――生理的に嫌悪感を抱くクリーチャーが、見慣れた人間から変貌したものであるという事……。
「私を追って来たのね、ナックルボール……」
摩耶が、錬司の前に出ようとする。
「Σを取り戻す為に……」
ぽつりと摩耶が言った時、ナックルボールと呼ばれたΨが動いた。四つん這いになっていたナックルボールは、両の膝を人間とは逆の向きに折り曲げながら、太腿に力を漲らせる。たわめられた膝が放たれて、その分厚い肉体が、錬司と摩耶に向かって飛び出して来た。バッタのようなジャンプだった。
摩耶が、錬司を横に突き飛ばしつつ、自分は反対方向に逃げた。二人の間の虚空を、ナックルボールの身体が貫通してゆく。巨躯が巻き起こした風が、砂利や木の葉を舞い上げて、地面に転がった錬司の顔にぶつかって来た。
「逃げて、竜胆錬司くん」
摩耶は、地面を陥没させつつ振り返ったナックルボールに顔を向け、鞄から棒状のものを取り出した。それを上から振るうと、棒の先端が重い音を立てて伸長した。特殊警棒だ。
ナックルボールが公園の入り口を背にし、錬司はその右手、摩耶が左斜め前に位置している。距離はほぼ等しく、どちらに飛び掛かっても仕留める事が出来、又、その間に片方が逃げ出そうとしても逃さないだけの運動能力を、ナックルボールは持っている。
だが、逃走を計ったのが錬司であるのならば、逃げ切る事は出来るかもしれない。錬司の身体はΣの影響で運動能力を強化されている。テンプレートを装着し、Ωの状態を発動させれば、その能力が更に倍増される。膂力では劣るものの、Ωの力を逃走にのみ集中させれば、不可能ではない。
「で、でも……」
「勘違いしないで! あいつが狙っているのは、私よ。貴方にこの事を話したのは、貴方の肉体が持ってしまった力について、きちんと知っていて欲しかったというだけ。それだけの話……他の事は、貴方には関係ない」
そう言う摩耶に、ナックルボールが迫る。巨腕で地面を掻き、細い脚をかさかさと動かす不気味な挙動。
摩耶は特殊警棒のグリップにあるトリガーを押し込んだ。すると、警棒にばりばりと電流の迸る光が発生した。スタンガンの役割を持っているらしい。
ナックルボールは、摩耶の身体を横から腕で薙ぐ心算だ。土管のような腕が、摩耶のボディ目掛けて打ち付けられる。摩耶はバックステップで躱しつつ、片脚を軸に回転し、空間を過ぎ去った敵の肘に、スタン警棒を叩き付けた。
が、ナックルボールに効果があった様子はない。もう片方の腕を、下からアッパーブロウのように打ち上げる。スウェーで避けた摩耶は、そのままの勢いでバック転をして距離を取り、公園の中央に敵を引き寄せた。
「早く逃げなさい! 何をぼーっとしているの!?」
その場を動かないでいた錬司に、摩耶が叫んだ。錬司が立ち上がろうとすると、ナックルボールの眼がぎらりと光り、錬司の方向に身体を向けた。頸がない為、少なくとも腰から上を回さなければ、背後の光景を見る事が出来ない。
「早く――うっ⁉」
摩耶の声が掻き消えた。その身体が、横に吹っ飛び、生け垣の中に突っ込まされた。
「花果さん!」
錬司が悲壮な声を上げる。錬司の眼は、摩耶の身体に、ナックルボールの尻尾が横から打ち込まれるのを見ていた。尾骶骨ではない。尖って張り出した尾骶骨の先に、柔らかい筋繊維が纏わり付いて長く伸びた、鞭状の器官である。
「にげ……な、さ……」
息も絶え絶えになりながら、摩耶が言う。
錬司は、ナックルボールに正面から睨み付けられていた。Ψの眼は人の眼だった。人の眼なのに、人間らしい感情や思考は浮かんでいない。田上たちと同じだった。他人をいたぶるのを愉しむ、残虐な光で満ち満ちている。
――逃げなくては。
いつもして来たように。
いつだって逃げて来た。辛い事や苦しい事、哀しい事、痛い事、怖い事……
摩耶がそう望んでいる。自分もそう望んでいる。ならば、どうして躊躇う事があるのだろう。公園の入り口に近いのは自分だ。自分にはΩの身体能力がある。ならば、この化け物から逃げる事は容易い筈だ……。
じり……と、後退る。それに合わせて、ナックルボールも一歩、前に出た。
膝をたわめる。あのモンスターがそうしたように、一気にジャンプを決めて逃げれば良い。公園の外まで出て、後は家まで駆け込めば良い。
そのタイミングを計っていた。
と、ふとナックルボールの眼と口の間……鼻があるらしい部分が、ひくひくと動いた。そして、巨大な口の左右を、にぃ~、と、吊り上げる怪物。
「お……」
Ψの口が、小さく漏らした。
「お、ま……え、も、お……れ――おな、じ……」
人の言葉だった。
どのような発声器官をしているのか、恐らく人間とは構造が異なってしまっているのかもしれない。だが、それは紛れもない人の言葉であった。人間的な容姿ではないものが、人間の言葉を扱うアンバランスさは、錬司の生理的嫌悪感を余計に煽った。
しかもその内容は――
“お前も、俺と、同じ”
同じ⁉
何が、同じだと言うのか。
「違う、僕は……」
錬司がそう返そうとした時、ナックルボールが跳んだ。一息に距離を縮め、巨大な拳で、錬司の身体を横殴りにしたのである。
摩耶と同じように、だが、その倍の威力と勢いで飛ばされて、錬司は公園の地面を転がされた。硬い地面の上で、ボールのようにバウンドし、それが終わってもごろごろと転がって、樹の幹にぶつかって漸く止まる事が出来た。
「莫迦……!」
摩耶の声がした。痛みを堪えて立ち上がろうとしている。声が掠れて、血が混じっていた。口の中を切ったのと、横隔膜がせり上がっているのとで、酷く弱々しい声である。
「Ψの、言葉に、惑わされ、ないで……」
「――」
「あいつらの、脳は、殆ど、溶けてなくなって……しまっているわ。だから、研究者たちは、彼らの脳の、僅かに残った部分……脳幹と、中脳の一部に、機械を埋め込んで……それに、指令をインプット、しているだけ……彼らに人間の、思考は、ない……!」
だから、どんな言葉を発しても、それは出まかせである。辞書をぺらぺらと捲り、指を挟んで止めた行に書いてあった言葉を、意味も分からずに口に出すのと同じだ。まともではない思考の中で浮かんだ言葉を、ランダムに拾い上げて、再生しているだけだ。
「貴方は人間よ……だから、人間として、正しい選択をして……生きて!」
声を嗄らすようにして叫んだ摩耶に、ナックルボールが襲い掛かる。巨大な指が、霞網のように開くと、摩耶の身体をがっちりと掴んで締め上げる。摩耶の白い咽喉が上を向き、開いた唇から塊のような空気とピンク色に泡立った唾液が吐き出された。
「人間として……」
錬司は、転びそうになる膝に力を込めて、両手を地面について、立ち上がる。身体を真っ直ぐにするのが困難であった。前傾してしまっている。低い世界に、Ψの異形の脚だけが映っていた。
摩耶は言った。人間として正しい選択をしろと。それは、生きるという事だと。その生きる為には、ここから逃げ、ナックルボールから逃げ切らねばならない。
ナックルボールは今、摩耶を捕らえる事に夢中になっている。それが彼に与えられた命令だからだ。Σを奪還せよという指令はあっても、それが錬司の中にあるとは知らない可能性もある。
だから、今の内に、こうして姿勢を低くして、怪物の眼に止まらぬように逃げれば……
公園の入り口を、這うようにして目指し始めた錬司。
その背に、痛みが走った。埋め込まれたΣが、姿勢を正すように指令を発しているのか?
実際の所は、錬司には分からない。だが、その痛みによって、蘇って来た記憶がある。事故に遭う直前、自分の背中を叩いた未散の手、そして未散の声――
“背中、曲げてばっかりいると、根性まで曲がっちゃうよ”
続いて摩耶の言葉。
“貴方は人間よ……だから、人間として、正しい選択をして”
ここで逃げる事が、人間として正しい選択なのか。
こうやって背中を曲げて逃げ延びようとするのが、人間的な選択なのか。
“事故のどさくさで、私はトラックから脱出した。でも、重傷を負った貴方を、見過ごす事も出来なかった”
摩耶は言った。
それが――それが、人間として正しい在り方ではないのか!
だとすれば……
錬司が立ち上がった。
その背中は、真っ直ぐに伸びている。
大人の手が、鼠の身体を両手で握り、ぎりぎりと押し潰そうとするように、摩耶はナックルボールの掌の中で、身体を軋ませていた。
筋肉が悲鳴を上げ、骨格が亀裂を入れられ、内臓を締め上げられている。身体を破壊される痛みと、呼吸困難の苦しさとに襲われ、意識を飛ばしてしまいたくなった。だが、痛みで失われそうになった意識は、同じ痛みによって引き戻される。精神が黒く染まった所で、白い闇に引き込まれる。
だが、こうやって自分を逃がさないよう弱らせようとしている間、ナックルボールは動かない筈だ。ナックルボール自身は、錬司の中のΣに気付いているかもしれない。Σが分泌するホルモンは、Ψたちの羊水であるサイサリスと同じものだ。
だが、錬司という肉体を介したΣを奪還する事を、果たしてプログラムされているかどうか。
そうであれば、錬司を逃げ延びさせる事は出来る。自分が捕らえられても、Σの在り処を吐かなければ、錬司に手が伸びる事もないだろう。
そろそろ、彼は逃げただろうか。
最後にそれだけを確認して置きたい……
薄く眼を開けて、ぼやけた視界の中、錬司がいない事を確かめようとする摩耶。
だが、その眼に映ったのは、地面に転がった特殊警棒を拾って、ナックルボールの身体を殴り付ける錬司であった。
錬司は、特殊警棒をナックルボールの身体に叩き付け、摩耶を解放させようとした。
その名前の由来ともなった尻尾が、腰の動きに連動して跳ね、錬司の胴体を狙う。それを、身体を沈めて躱すと、特殊警棒を膝の関節に打ち付け、その状態でトリガーを押した。
ばりばりばり……! と、電流が奔り、流石のΨも崩れ落ちる。それで摩耶への締め付けが緩み、地面に落下しそうになった彼女を抱き止めて、錬司が脱出した。
「どうして……」
逃げなかったのか。
「テンプレートを」
錬司が言った。
「テンプレートを使わせて下さい!」
摩耶は、唇を噛みながら、ポケットに入れていたケースから、テンプレートを取り出した。テンプレートを錬司の口に含ませてやる。
奥歯を咬み合わせた錬司は、頭蓋骨と頸骨の間で、歯車の噛み合う音を聞いた。小さな電流が背骨を駆け巡り、ムーラダーラに到達する。ムーラダーラから分泌されたホルモンが、常在戦場の肉体を更に活性化させる。
全身を血が巡っているのを、錬司は感じた。筋肉が膨張し、動き出せば破裂しそうだ。皮膚が筋肉の爆発を防ぐ、鉄の鎧になったようだ。骨も鋼に変わり、内側を押し潰そうとする筋肉に敗けない。
ムーラダーラから頭頂に掛けて、凄まじいパワーが昇ってゆく。それはまるで黄河を遡る鯉の夫婦であった。絡み合い、もつれ合い、波に揉まれながらも繋がり合う力の奔流は、脳の皺の中を駆け上がり、龍門と化した頭蓋骨から昇天する。
龍のパワーが、錬司に宿っていた。
テンプレートを噛んだ錬司は、最強の兵士であるΩの肉体に転生したのだ。
「おぉぉぉぉ~~~~~~~っ!」
錬司は叫んだ。天に届く叫びだ。
錬司Ωは、ナックルボールに対して構えた。錬司に格闘経験はない。だから素人同然の構えだ。しかし本能的に採ったファイティングポーズこそが、怪物の肉体を持ち、人間の心を失ったモンスターを討伐する、最後の兵士の切り札だ。
Ψナックルボールに対し、錬司が躍り掛かった。
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