Part4
「α計画、アルフォース計画に続いて、Ψ計画も思った通りの結果は出せなかった……そして、Ω計画が始まったの」
「オメガ計画……」
「Ψ計画が目指したβ作用は切り捨て、アルフォース計画に近い新しい計画に移行したわ。つまり、今度こそ、アルフォースを造り出そうとしたの。その完成系を、Ωと呼ぶ予定でね」
「アルフォースというと……」
純粋な身体能力強化人間が、アルフォースであった。特殊なホルモンを投与して身体能力を向上させるというのがアルフォースであるが、その副作用としてβ作用と呼ばれる獣化現象が起こってしまう。この副作用を如何に抑制するのかという問題を、Ω計画では解決せねばならない。
「Ω計画では、複数のスイッチを設ける事にしたの」
「スイッチ?」
「身体能力を強化する、スイッチよ。常にαやアルフォースのように、高い身体能力を維持するのではなく、スイッチを入れる事によって一時的に身体機能を高めるの。α・アルフォースは、ホルモンの暴走によって副作用としてのβ作用が起こるから、そのホルモンを確実に調整する機能を開発したんだわ」
「――」
「私が彼らから奪ったのは、その研究よ」
「Ω計画の……」
「計画の要であるスイッチ――Σよ」
「――」
「そしてそのΣは、今、貴方の身体の中にあるわ」
「僕の⁉」
摩耶は錬司を指差した。錬司は思わず立ち上がってしまう。
「僕の身体の中にあるって、それは……」
「――私は、長い間、彼らと一緒に研究を続けて来たわ」
摩耶が語り始めた。
「最初は、人類の役に立つ研究と思っていた。でも、実際に私たちがしていたのは、戦争の為の研究で、人の生命を奪う事を前提としたものだったの。私は、あの研究施設を告発する為に、彼らの隙を突いて研究データ、そして研究成果であるΣを奪ったわ。でも逃げ切れず、この町の近くで捕まってしまった。そして、あのトラックに捕らえられ、本部に連行されそうになった」
「あのトラック⁉ それは、僕が……」
「ええ。貴方を轢いたトラックよ。私があの時、トラックの荷台で抵抗して、運転手が意識を反らしてしまったの。それが原因で、信号を無視して、横断歩道を渡ろうとしていた羽生さんに衝突する所だったわ」
それを、錬司が庇ったのである。
「事故のどさくさで、私はトラックから脱出した。でも、重傷を負った貴方を、見過ごす事も出来なかった。あのままだったら、貴方は、もう二度と、立ち上がる事は出来なくなっていたわ」
「え⁉」
「あの事故で貴方の背骨は、手の施しようがない程、破壊されてしまったの」
「背骨――!」
錬司は、自分の背中に手をやった。今までは酷く曲がっていたものが、事故以来、真っ直ぐになっている。その背骨が、破壊されたとはどういう事か。三週間程度で治るものなのか。そうではない事は、摩耶が“手の施しようがない程”と言っている事から分かる。
「私は貴方が運び込まれた病院に忍び込んで、貴方に手術を施したわ。Σを貴方の身体に埋め込んだの」
「埋め込んだ……?」
だから、Σが錬司の身体の中にあると言ったのだ。では、シグマとは?
「Σは、身体能力を向上するスイッチ――全身に指令を出す事が出来る部位。人工的な背骨の事なの。貴方の身体から、壊れた背骨を摘出して、代わりにΣを移植したのよ」
「――」
成程、と、錬司は思った。Σが背骨を模したものであり、それが自分の中にあるというのならば、姿勢が良くなったのも分かる。普通の背骨は、緩いS字を描く程度に曲線になっているが、錬司の場合は、その上部分が酷く前傾している。Σは人工物で再現した背骨である為、標準的・理想的な背骨の形状をしているであろうから、錬司の猫背を、文字通り骨格から矯正した事になる。
「若しかして、あれは……」
「貴方の感覚器官が、以前と比べて鋭敏になった事?」
「それはΣの影響なんですか。それと、食欲も……」
「ええ。Σは、スイッチを入れずとも、アドレナリンやエンドルフィン、ドーパミンなどの神経伝達物質などの分泌を促進する効果があるわ。Ωとしての能力を抑えていても、いきなりスイッチを入れたのでは身体が付いて来ない。だから、スイッチを入れた時に身体が反応するよう、日常的に軽い興奮状態を保たせるのよ」
アドレナリンは副腎髄質より分泌され、全身に血液を巡らせて筋肉を温め、瞳孔を散大するなどして感覚器官の感度を上げ、痛覚を麻痺させる。殴り合いの喧嘩などの際には、怪我の痛みを減らし、出血を抑える効能もあった。
βエンドルフィンは脳内で働く物質で、鎮痛作用を持ち、多幸感を与える。ランナーズハイ……走る事によって蓄積した疲労を回復させると同時に、気分を高揚させ、普段以上の力を発揮させる現象にも、このエンドルフィンが関わっているとされる。エンドルフィンは食欲が満たされた時にも分泌されるので、錬司が感じた食欲は、エンドルフィンを分泌させる為に、Σが促したものであると考えられる。
つまり、Σを埋め込まれた人間は、常時、軽い闘争状態にあると言っても良い。
「常在戦場って所ね」
武士の言葉であり、いつ命を狙われるとも分からないので、常に敵が襲い来るものを考えて警戒する、そのような意味だ。
「じゃあ、Σの――Ω計画の、スイッチっていうのは」
「そうよ、このテンプレート――」
摩耶は、テンプレートの入ったケースを、錬司の前に差し出した。
テンプレートとは、そもそも、治療機器の一つである。
装着する事によって、頭部の位置が後ろに下がり、脊椎の並びが正常化する。
「背骨は人体の中でも重要な役割を担っているわ。テンプレートは、背骨の並びがずれたり曲がったりする事による身体の不調を、矯正する為に作られたものなの」
「でも、どうしてテンプレートが、Σのスイッチになるんです?」
「Σの下端――尾骶骨に当たる部分に、α計画で開発されたホルモンの分泌腺が設けられているわ。テンプレートを噛む事によって、頭蓋骨と脊椎が直線になり、奥歯とテンプレートとの間に発生した微弱な電流が、Σを刺激する。そうすると、Σは尾骶骨――ムーラダーラからホルモンを分泌して、肉体の機能を活性化するの」
「ムーラダーラ?」
「ヨーガの用語よ」
ヨーガとは、古代インドで行なわれていた瞑想法である。その経典によれば、人体には、身体を上から貫く一直線の管があり、スシュムナー管と呼ばれる管の線上に七つのエネルギーを発生させる器官があるとされている。この七つの器官はチャクラと呼ばれ、瞑想によって意識が落ち着いてゆくと、その部分に眠っているエネルギー・クンダリニーが発動するのだ。
そのクンダリニーが眠る最下層である尾骶骨のチャクラの名前が、ムーラダーラという。
チャクラを回すと、人体は超常のパワーを発揮する事が出来ると考えられていた。チャクラは日本語に直せば車輪、法輪の意味であり、覚者が真理を解く事を転法輪という。この事から、Σの下層に秘められた分泌腺を、ムーラダーラと名付けたのである。
この名称を敢えてΣの分泌腺に冠したのは、Ωの記号はオームによって発見された電気抵抗などの単位に使われ、こうなると言葉遊びの域に達するが、サンスクリット語に於けるオーム――全てを内包する真理。唵とも表記――と読み方が同様である事から連想されたものだ。又、唵も造語であるアルフォースと同じく、阿吽、即ち物事の始まりと終わりを意味する言葉である。
「そのΩ計画が、貴方の身体の中には秘められているのよ」
「やれやれ……」
オアシスを中心とする町の見張りは、塀の傍に高く建てられた鐘楼堂の最上階から行なわれる。外を見れば広大な砂漠が、内を見ればさして広い訳でもない町並みが、良く見下ろせた。
戦闘区域から、砂埃を上げて帰還するジープの群れ。それを眼に砂が入らないようにゴーグルを付けた男は、腕を組みながら溜め息を吐いた。
「いつまでも下らない事をやっていなさるな、この国の連中は……」
男が2Aと呼ばれた部隊と通信していた時に使っていたのは、この国の言葉だ。しかし愚痴を言う言葉は、日本語だった。顔立ちを見れば分かるが、この国の人間は皮膚が浅黒く、瞳の色は蒼で、顔の彫りが深い。一方男は、鼻こそ高いが肌は黄色い。
身長は一八五、六センチから、一九〇センチくらいはある。迷彩柄のズボンに、砂漠仕様のブーツを履いているが、上に羽織っているのは白いジャケットだ。高級そうではあるが、銃弾から身を守る事は出来ないだろう。
「そうは思わないか、お前も」
男の傍には、彼の身の丈を越える重圧を放つものがいた。大きな体を丸めるようにしている。その全身には鱗が浮かび、頸の周りや前肢、背中にはサメの背びれにも似た器官が生じている。
襟巻から突き出した頭部は毛髪がなく綺麗な球形だ。その正面の左側に、楕円形の膜が張られている。近付いて見れば分かるが、キチン質の角膜で、内側には無数の個眼が蜂の巣のように密集していた。複眼と呼ばれる器官だ。
対して顔の右半分は、犬か猫に近い構造だった。一つの眼の下に突き出した鼻があり、発達した下顎の存在が確認出来る。
「宗教の聖地だ、祖先の土地だと、実につまらない事に拘るもんだよ。人間、大抵の場所なら生きていけるように出来てるってのにな」
男は、傭兵部隊の隊長を務めていた。部隊と言っても、隊員はキューカンバーとホーンレプリティアン、そしてキメライブと呼ばれるこの巨大な怪物に、隊長であるAコマンダーと呼ばれる男の四人だ。彼らは或る企業によって中東の国に貸し出されている。そこで反政府勢力の制圧部隊のリーダーを任せられているのであった。
「尤も、そいつが出来ないからこそ、人間なんだろうがね……」
Aコマンダーの言葉に、キメライブは応えなかったが、話を聞いてはいるようだった。又、コマンダーの方もキメライブに対して話しているという意識はなさそうだった。
ふと、沈黙を続けていたキメライブが頭部を持ち上げた。コマンダーは窓の外から内側に視線を戻しつつ、右手を懐に入れるなり、素早く引き抜いた。コマンダーの指先から、鈍色の物体が高速で飛来し、壁面に反射すると、階段の方に方向転換した。
「ぎゃ――」
短い悲鳴の後、階段を転がる音がした。
「盗み聞きとは感心しないねぇ……。いや、それ自体は構わないんだが、そんなに殺気を向けられても困るぜ」
コマンダーが投擲したのは両刃の小型ナイフだ。同じものが懐には潜められている。しかしそれよりも注目すべきは、コマンダーの右手……ボクシングのグローブを填めたようにぼこぼこと盛り上がった手の甲から、獣毛を絡ませた太い指が伸びていた。指の先端からは黄色く濁った爪が生えており、とても精密な動作を得意とするとは思えない。
しかしコマンダーは、居合の達人の如くスピードで懐からナイフを抜き、壁に反射させて視界の外にいた人物の急所に投擲した。
のっそりと、キメライブが動き出した。キメライブは鐘楼堂の階段の下に半身を潜り込ませると、下から何かを引っ張り上げた。政府軍の兵士だったが、眉間にはコマンダーのナイフが根元まで突き刺さって絶命している。その手には拳銃が握られていた。
コマンダーの愚痴を聞いてしまい、憤慨して暗殺を目論んだものらしい。この土地の人間にとって、宗教や祖国といった概念は何よりも重要視される。ましてや傭兵である。一歩間違えれば敵対する関係の相手に対し、慈悲の心はない。
「さて、どうするかな……」
コマンダーは、頭をぽりぽりと掻いた。自分たちの雇い主は、或る企業だ。その企業が、自分たちの身柄をこの国の政府に貸している。そこで自軍の兵士を殺したとなると、些か問題になる。この事実を隠蔽するには――
「良し、喰っちまえ」
コマンダーの逡巡は一瞬だった。そしてこの指令にキメライブが頷き、兵士の死体の服を剥ぎ取ると、轟然と上半身をそびやかした。
すると、胴体を包んでいた鱗が左右に開き、数本の管が突き出して来た。管は兵士の死体に突き刺さり、じゅるじゅると音を立てて体液を啜り始めた。蜘蛛の捕食風景と似ている。兵士の死体はあっと言う間に干からびてしまった。
干物になった兵士を、今度は上の口で貪り始める。骨まで砕く咬筋力で、兵士の痕跡は軍服と拳銃だけになってしまった。
「臭ぇな」
コマンダーはそう呟くと、やおら、服を脱ぎ始めた。何日風呂に入っていないかは忘れたが、何れにしてもそろそろ匂って来る頃合いだった。コマンダーの裸体は、ホーンレプリティアン程でなかったが、身体の様々な部分が角質化したり、獣毛を生やしたりしていた。
その異形を隠すべく、殺した兵士の軍服を代わりに身に着けた。サイズが丁度良かった。小型ナイフを移し替え、拳銃を仕舞い込み、最後に自前のジャケットを羽織ると、人のものではあるが、少しだけ気分が切り替わった。
無線に通信があった。2A部隊が帰還したので、塀の門を開けろとの事だった。それを確認したコマンダーは、門番に通信を入れ、部隊を受け入れさせた。
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