Part3
空に、星が煌めいている。この辺りは街灯や、高い建物が少なく、夜になれば空の明かりが良く見える。蒼白い月が冴え、公園のベンチに座る二人を見下ろしていた。
「話が長くなってご免なさい。でも、貴方にはしっかりと聞いていて欲しいの」
摩耶が、申し訳なさそうに言う。
「構いません」
少しの空腹を覚えながら、錬司が言った。
「α計画……アルフォース計画は頓挫した、という事でしたね」
「ええ」
「それは何故ですか」
「……それは、私がホイル製薬を裏切った理由でもあるわ。そして、貴方が事故に遭ってしまった理由……」
「――」
「アルフォース計画は、α計画の段階で失敗したの。或る副作用からね」
「副作用?」
「α計画は、ホルモンバランスの調整が大きな要だったわ。貴方も、人間の身体の変化に、ホルモンが大きく関係している事は知っているでしょう? 男性ホルモン、女性ホルモン、成長ホルモン……」
「はい」
「α計画は、ホルモンに人為的な改良を加え、肉体にフィードバックさせる事によって、強化人間を誕生させる計画だったわ。改良されたホルモンは、身体の成長を促し、アスリートが何年も掛けて手に入れる身体能力を、忽ち被験者に与えた」
「――」
「最初の数人の被験者は、良い成果を出せた訳ではなかった。普通よりは健康になったけれど、その程度……町のチンピラに喧嘩で勝てはするけど、軍人や格闘家など、戦いのプロフェッショナルとは、好ましい結果を得られなかった。この段階のものを、例えば手足が麻痺している人や痴呆症の老人などに使えば、その症状が改善されるという結果は出たかもしれないわね」
「――」
「或る被験者に、副作用が起こったわ」
「副作用……改良されたホルモンの?」
「ええ」
摩耶はそこで言葉を切り、唾を呑み込んでから、言った。
「遺伝子に異変が起こったのよ」
「遺伝子の異変?」
「ホルモンによって為される身体強化は、細胞消滅と細胞分裂よ。弱い細胞が消されて、強い細胞を生成するのを促すのがホルモン。その際に、分裂する遺伝子に異常が生じて、別の形態に変化してしまったんだわ」
「別の形態? 変化――それって?」
「最初は、皮膚の角質化。表皮の細胞が段々と硬くなって、石のように変わって来たの。放って置いたら、皮膚の細胞は分裂をやめずに肥大化し、角質化も止まらず、倍以上に膨れ上がった、石のような皮膚を張り付けた腕が出来てしまった」
ぞくりと、錬司は背中を震わせた。その光景を想像してみる。こちらの意思に拘らず角質化してゆく腕――そして、段々と膨らんでゆく異形の皮膚。
「それが頭部でも発症して、角のように皮膚が盛り上がったりもした。脚がやたらに太くなってゆき、代わりに身体が細長く作り替えられてしまった者もいる。まるで、他の動物のような姿に変わってしまう例が、幾つも起こったのよ」
「他の動物――⁉」
「犀や、牛や、蛇のような、ね。象のような巨体にまで、身体が肥大化した例もあったわ」
「そんな事が、あり得るんですか?」
「全くないとは言えないでしょう。だって、人間はそのDNAに、地球の進化を持っているのだから……」
「進化⁉」
「そうよ。人間が、母胎内で受精卵から細胞分裂を繰り返して出産を待つのは分かるわよね。その段階で、人間は魚に似た形態になる。それはつまり、精子と卵子という単細胞生物が、自らの持つ遺伝子に則って、それまでに経て来た進化をしようとしているという事なのよ」
進化とは、突然変異の事である。その進化の記録は、生命のDNAに記録されている。人間の爪も、猫の爪も変わらない。尾骶骨は尻尾の名残である。生物学的に、人間と他の動物とは異なるものではなく、ヒトという生命の形の一つでしかない。
その為、遺伝子に異変が生じ、身体が他の動物を連想させる特徴を持ったとしても、人間としての構成要素には何の欠損も過剰もないのである。
「兎も角、α計画は、その副作用の存在によって終わった……」
「――」
「という訳では、なかったわ」
「え――」
「寧ろ、その副作用を利用して、新しい計画が始まった」
「新しい計画?」
「プロジェクト名はΨ――」
「プサイ? ……それは、どんな?」
「α計画に於ける副作用を、或る研究者は、β作用と呼んだわ」
「ベータ?」
「α計画から続いたものとしてβ、そしてbeast……日本語にすれば、獣化作用って所かしら」
人間は、ヒトとその他の動物とを、獣と呼んで区別している。ヒト的ではない特徴を生じてしまったαたちに起こった現象をそう称するのも、錬司には納得出来た。
「そのβ作用を、意図的に起こそうというのが、Ψ計画よ」
「意図的に……わざと、その、人間を、獣化させるっていう事ですか」
「α計画は、飽くまでも人間の機能を人間として強化する事しか考えていなかった。でも、それではαは、人間としての限界を超える事は出来ないわ」
「人間の限界……」
「どれだけ肺活量を強化したって、そう何時間も海に潜っている事は出来ない。空を飛ぶ事も、単身では不可能よ。でもβ作用は、その実現の可能性を見せてくれた。……動物による人的被害は、今でも何件も報告されている。クマやイノシシが畑を荒らしたとか、サルに骨を折られたとか……」
「――」
「人間が銃を持っていても、動物たちの力には敵わない事がある。それは、動物たちが純粋な身体能力で人間を凌駕しているから。ならば、人間同士の戦争に於いて、獣のパワーを持ちながら人間の思考能力を持つ兵士がいれば――」
それに、摩耶が言うように、人間が他の動物にしかない能力を身に着ければ、それは局地戦に特化した肉体の兵士という事になる。
「その、動物の力を、人間に持たせるのが……Ψ計画」
どうやって――と、錬司は訊いた。β作用は、身体強化の副作用でしかない。身体の一部が他の動物に似た器官を生み出しても、それがその通りに機能するとは限らないし、全てに発現するかも分からない。
「Ψ計画では、新しいホルモンが作られたわ。サイサリスと名付けられたもの」
「さいさりす?」
「蛹という意味よ。本当なら――」
摩耶は、ベンチから腰を持ち上げると、手頃な枝を拾い上げて、砂利の地面に文字を書き始めた。
chrysalis
「こう書くわ。でもΨ計画では――」
Ψsalis
「と、書いたわ」
chrysalisのサイの発音を、Ψのサイと掛けたネーミングだ。Ψは、英語ではpsiと書き、これは心理学(psychology)や超能力(psychic)を表す単語として使われる単語である。又、動物の持つとされる特殊な能力については、アンプサイ(animal psi)と呼ばれている。
「蛹って、昆虫の?」
「その蛹よ」
「何故、蛹なんです?」
「α計画では、人間をベースに、より強い人間を造る事を目的としていた。Ψ計画では、人間を、より強い生命体に作り替える事を目的としたの。その為に、完全変態の技術が研究されたわ」
「完全変態⁉」
変態とは、生物はその状態を変化させる事である。Aという状態からBという状態に変貌する事だ。昆虫が幼虫から成虫に変わる事である。このシステムは昆虫などの生物にしか存在せず、哺乳類、ましてや人間が行なおうという事は、考えようのない事であった。
「完全変態は、最も効率的に姿を変える事の出来る方法なの」
摩耶は蛹化のメカニズムを錬司に尋ねた。錬司は過去の記憶から、その概要を話した。
昆虫は蛹化した際、身体を一部の神経と呼吸器を除いて酵素によって溶かし、蓄えた養分を使用して猛スピードで細胞分裂を行ない、全く異なる姿へ変身する。
「サイサリスを投与した人間は、酵素の働きによって細胞を分解させ始める。だから、その前に被験者を特殊なカプセルに入れ、サイサリスを与えるわ。カプセルの中には常に栄養を送り込んで、被験者の細胞が分裂して増殖するのを促す。この時に、外から情報を信号として発信する」
「情報?」
「設計図とでも言えば良いのかしら。Ψ――Ψ計画によって生まれる兵士――の完成図を、信号として送り込む事で、その形状に身体を再構成するの」
強力な爪が欲しいと思えば、爪の設計図を。翼を与えたいと思ったならば、翼の設計図を。水中での活動用にエラが必要と考えたなら、エラの設計図を。
その信号に従って、カプセル内では細胞分裂が行なわれ、Ψは完成する。
「理論上、人間からキマイラを造る事も可能という訳……」
キマイラとは、ギリシア神話に登場する怪物である。テュポーンとエキドナの子供であり、獅子の頭、山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つとされる。複数の動物の特徴を備えた怪物は他にも、同じギリシア神話ではペガサス、インカ・マヤ文明の神話ではククルカン、日本では鵺などがいる。そうした複数の特徴を持った動物を生物学的にはキメラと呼ぶのだが、その語源となった怪物である。
「但し、これも失敗に終わったわ」
「どうして?」
「脳よ」
「脳?」
摩耶は、自分の頭を指でつついた。
「サイサリスを投与し、蛹化する際、一部の神経組織と呼吸器系を残して、ケロイド状に溶解する。でも、この時に、脳が完全に保護される事がなかったのよ。個体差はあっても、酵素によって大脳が溶かされてしまうのが殆どだったわ。つまり、人間的思考や記憶が失われてしまったの」
「じゃあ……」
「生まれたのは、ただの怪物って事ね」
物悲しい表情で、摩耶は言った。
角のある兵士は片腕を失いながらも炎の中から躍り出て、自分を狙ったロケットランチャーを持つ兵士のジープに飛び掛かった。慌ててバックして、怪物に肉薄されるのを回避したジープだったが、そこに政府軍の車がやって来た。運転席と助手席に一人ずつ、後ろには大きな荷物を積んでいるだけだ。
だが、その荷物と見えたものが、不意に動きを見せた。分厚い日除けのカバーを取り払うと、無数の銃口が顔を出す――反政府勢力の兵士はそう思ったが、違っていた。
「ごぉぉぉぉぉぉ――っ」
現れたのは、ぬめるような白い皮膚を持った、巨大な何かであった。ジープの席を二人分占領するそれは、車上から反政府軍のジープ目掛けて腕のようなものを突き出した。
ぶぉん、という風鳴りが、ジープの周りに小さな砂嵐を起こした。それから逃れながら、もう一発、ロケットランチャーをぶちかました。
白いものに、人頭の如き砲弾が直撃する。しかし、その白いものの身体は着弾の衝撃を全て吸収し、弾き返してしまった。
跳ね返された砲弾が、ジープの傍に戻って来て、爆散した。車の正面の形が、熱と衝撃で歪んでしまう。走行は難しいだろう。
そこに再び接近する、白いものを乗せた政府軍のジープ。次の腕の一撃が振るわれた。
ぬるぬるとした体液を常に分泌しているような腕は、しかし叩き付けられる寸前にばきばきと硬化し、ロケットランチャーを持った男の上半身を吹き飛ばした。
最大火力を失って浮足立つ兵士たち。そこに、角のある兵士が接近し、走れなくなったジープの下に潜り込んだ。そうして、車両が持ち上がったかと思うと、ぐるりと世界を半回転させられていた。後は、車の重量で圧死するのを待つだけだ。
白い巨体を乗せたジープが、角のある兵士の傍にやって来た。白いものは、敵の上半身を吹き飛ばした腕と、もう片方の腕の間にある部分を、砂の上に立つ角のある兵士に近付けた。
水晶体が二つ、埋め込まれていた。その下には、イカの刺身に包丁を当てて横に引いたような切れ込みがあり、内側には赤々とした肉が見えていた。
「う……で……大切……する。粗末……いけない……」
白いものの身体がふるふると打ち震え、切れ込みから空気を揺らす音がした。
腕、大切、する。粗末、いけない。
角のある兵士が、身体は無事だったとは言え、片腕を犠牲にしてロケットランチャーを防いだ事を言っているらしかった。
角のある兵士は、鼻から息を吐いた。声を殆ど発せないのだ。代わりに、鼻息で返答する。
怪物同士のやり取りに、運転手と助手席の軍人も怯んでいる様子だった。とても人間とは思えないものたちが、人間のようにコミュニケーションを取っている。更には自分たち政府軍に協力し、武器の類を殆ど使用する事なく、敵のゲリラを制圧してみせるのだった。
悪魔――
そんな言葉が脳裏を過っていた。既に何年もの間、ゲリラとの内乱は続いている。だがその戦いは、彼らの悪魔的な戦闘力によって着実に平定へと向かっているようだった。突如、傭兵として自分たちの戦闘力を売り込んで来た彼らは、この二体に加えて姿を見せない二体だけで、反政府勢力との戦況を覆してしまった。
『――こちら本部、2A部隊、応答願う。戦況はどうだ』
無線通信が入った。白いもの――キューカンバーというコードネームを持つ巨体を乗せたジープの運転手が、それに応じる。
「こちら2A部隊。敵車両の半数は破壊、半数は逃走した。これより帰投する」
他の車両に合図を送って、帰還の途に就いた。キューカンバーの身体には再びシートが被せられ、その上に、角のある兵士――ホーンレプリティアンが座って、同じようにシートで身を隠した。
彼らには、謎だった。
この不気味な、しかし強力な仲間となる怪物たちもそうだが、彼らを引き連れて来た日本人の事が――
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