第三章 鼓動

Part1

 蝶が舞っていた。

 翅に、美しい模様を持った蝶だ。


 錬司には、それが何の蝶なのか分からない。

 蝶にも色々と種類があるが、錬司にはその知識がなかった。だが、それが蝶だという事だけは分かった。


 いつの事だろうか。


 今はなくなってしまったが、昔、錬司の家から少し離れた所に、雑木林があった。

 周りには、アパートやコンビニや、何かの会社の建物が建っているのだが、そこだけは、殆ど人の手が入っていないようだった。


 道路沿いに小さな森が出来ているようなもので、錬司が幼い頃の事であるから、その森は余計に大きく見えたものである。


 足を踏み入れれば、昼間でも薄暗く、射し込む太陽の光が却って異質なものに思えた。周りを見渡しても樹が並んでいるばかりで、その隙間から見える町並みは、幻か何かのように儚い。


 少し歩けば出てゆけるのに、山の奥深くに迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。


 その雑木林で、蝶を見たのだ。

 不思議な事ではなかった。


 雑木林には、たくさんの動物がいた。樹の枝には、いつも何かの鳥が留まっていた。スズメやカラス、時にはサギが大きな翼を広げ、森の上を旋回した。いつもは町中を放浪している野良犬や野良猫が迷い込んだり、樹の影からハクビシンが顔を出したりした事もある。落ちて、くすんだ色に変わった葉っぱの下から、にょろりとアオダイショウが身体を伸ばした。その傍に、一抱え程の岩みたいなものがあったが、ぬるぬるとした表皮から、大きなガマガエルである事が分かる。


 草むらにしゃがんでみれば、ぴょんと飛び出すのはバッタだ。大きな葉っぱに擬態したカマキリも見た覚えがある。やたらと長い身体をくねらせ、ムカデがやって来た。雨が降った翌日は、ミミズが稲穂のようにうねっていた。夏になると、セミの抜け殻がいっぱい落ちている。樹の幹の上の方を見上げると、そこに、褐色の殻を脱ぎ捨てて、白い骸を陽光に透かし始めるセミの成虫がいた。


 その中に、蝶の姿もあった。

 日の光の下であっても不気味な林の中、優雅に翅を羽ばたかせる華麗な虫――


 それは、他の昆虫たちとは、一線を画した姿をしているように、錬司には映った。


 昆虫は、不気味であった。

 脚の数が多く、長く、刺々しい。多くの動物に見られる、顔だとはっきりと分かる部分が目立たないものもいる。身体を包む甲羅が、鉄のような光沢を放つものもある。ともすると、生物的ではない質感の身体をした個体もある。


 気持ちが悪い……


 錬司は多くの昆虫に対し、そのような印象を抱いていた。


 蝶には、それがなかった。

 まるで、おとぎ話に登場する妖精のような、美しく、愛らしく、神聖な印象を持った。


 それが変わったのは、小学校に上がった頃だ。

 学校で、芋虫を飼育する事になった。

 ガラスケースの中に、葉っぱや、昆虫サイズの樹のように削った枝を置き、キャベツやゼリーを与えて、成長の過程を見守った。


 枝の上を、うねうねと這って歩く芋虫が、錬司は嫌いだった。

 蛇のように身体をくねらせるのではない。蛇腹状の身体の底部に、小さな脚が生えていて、それを細かく動かして歩いている。蟻が群れて蠢くような気持ち悪さがあった。


 丸みを帯びた緑色の身体には、細かい毛がびっしりと生え揃っている。近付いてみなければ、体毛だと分からない位に色素の薄い毛だ。


 それが日に日に大きくなってゆくのを、楽しんで見ている同級生たちの正気を、疑いさえした。


 或る時、な同級生が、錬司をケースの傍まで連れて行った。錬司が、芋虫を嫌がって、必死に逃げ出そうとする様子が面白かったからだ。


 錬司は彼の思い通りに、嫌だ、嫌だと、ケースに近付こうとしなかった。それが余計に、彼とその取り巻きの嗜虐心を刺激した。


 同級生たちは、錬司を押さえ付けると、芋虫を掴み上げて、錬司の前に突き出した。うねる無数の脚が、眼の前に迫って来ていた。生理的嫌悪を催す異形の生物に、錬司は泣き出しそうになった。


 その時は、他の同級生の制止もあって、やんちゃな彼らは引き下がった。その、彼らを止めてくれた同級生というのが、未散だったように思う。


 錬司は、ますます、芋虫のケースに近付かなくなった。


 それから少しして、芋虫が蛹化した。

 身体を固い殻で包んで、成長の準備をしているのだ。

 間もなく、柔らかい芋虫の身体は硬質な蛹に包まれた。葉っぱを丸めたような姿だった。


 先生は、蛹について熱弁した。


 蛹の中で、幼虫の身体は一部の神経組織と呼吸器系を残して、全てどろどろに溶けてしまう。蛹の中には、コロイド状になったものが詰まっているのだ。一度、溶解した身体は、猛スピードで細胞分裂を繰り返し、新しい身体を作っている。これは完全変態と呼ばれる方法で、幼体から成体への成長に際し、最も効率的で、最も大きく機能を変えるものである、と。


 錬司は、あの不気味な芋虫が、あの美しい蝶になる事が信じられなかった。

 だが実際、蛹から姿を現したのは、あの蝶であったのだ。


 あの美麗な昆虫の正体が、あの醜悪な芋虫なのか――


 錬司は、蝶を美しいと思っていた自分が、途端にとても惨めになった。

 しかし、醜く人に厭われる姿から、麗しく人を魅了する姿へと変わる蝶に、言いようがなく惹き付けられていたのは事実であった。


 硬い蛹からまろび出る、白い花のような翅を広げ、大空へと舞い上がってゆく蝶……






 ほんの何日か前に嗅いだのと似たような臭いを感じながら、錬司は眼を覚ました。


 ただ、病院のものよりも、少しだけ雑な感じがする。粗削りと言っても良いが、それは、保健室が飽くまでも応急処置の為の部屋だからだろうか。


 錬司は、白いカーテンに四方を囲まれたベッドで眠っていた。身体の節々に鈍い痛みがあるのだが、その痛みと疲労が妙に心地良くもあった。


 しかし、どうして自分が、保健室にいるのか。それを思い出すのに時間が掛かった。


「――花果さん……」


 錬司は自分のベッドの傍に、花果摩耶が腰掛けているのを漸く知った。ベッドの横に、保健室に備え付けのパイプ椅子を広げて、錬司が眼を覚ましたのを確認している。


「気分はどう? 痛みはある?」

「気分は……悪くない、かな。身体も痛いけど、動けない程じゃないよ」


 錬司はベッドに手を突いて上体を起こし、背中を壁に預けた。


「けど、あんな……」

「憶えているのね、何があったのか――何をしたのか」


 摩耶が言う。錬司は頷いた。以前の事故の時とは違い、今度の事は記憶に残っている。


 あの時――

 田上たちに嬲られ、池に顔を突っ込まされた後。


 摩耶が錬司の口の中にテンプレートを入れ、立ち上がらせた。田上は、立ち上がった錬司に襲い掛かった。それまでの自分だったら、そのまま殴られていただろう。しかし、この時は違った。


 田上のパンチが眼前に迫った時、錬司は、僅かに頸を後ろに引いた。ストレートのパンチを避け切る事は出来ない避け方だ。その覚悟はしていたのに、田上のパンチは錬司の鼻先で停止した。


 パンチが止まる瞬間、錬司は頸の当たりから、かちり、という音を聞いた。正確には、前に下がっていた顎を後ろに引いた時、自然と上下の歯が閉じられて、奥歯同士がぶつかる音だ。その音がして、錬司の頸は更にほんの数ミリ後ろに下がった。田上のパンチはその数ミリの差で、寸止めされるという結果になった。


 そして、不思議な事が起こった。

 景色が止まったのだ。


 昨日も、今日も、田上に絡まれた時に感じる、停滞した世界ではない。自分を包む環境全てが停止した。その停止した世界を、錬司は全て観測する事が出来た。


 パンチを寸止めした状態で止まった田上、横の池の水面に起こった波紋、風に揺れる草花、舞い上がる砂埃まで、錬司の脳が情報を処理し切った。結果、錬司の脳内には、田上のパンチを寸前で当たらずに済ませた自分自身の姿が、鮮やかに描き出されていた。


 自分が体験している筈の光景を、俯瞰していたのである。


 写真を見ているようだった。しかもその写真は、一つの方向からしか見えないのではなく、こちらの意識によって撮影した角度を変える事の出来る、コンピュータグラフィックスのようであった。


 錬司を見る錬司自身は、観測した田上の停止状態の隙を感じ取った。田上は、顔を恐ろしい表情に歪め、ヤニで黄ばんだ歯を剥き出していた。上下の歯の間に黒い溝が見える。口を開けているのだった。


 錬司は田上の拳をひょいと避けると、右足を前に出しながら、右の手で田上の顎を横から撫でた。身体は自然と動き、田上の隙を突いたのである。


 すると世界は突然活動を再開し、田上の身体が崩れた。錬司に叩かれた衝撃が、田上の身体を螺旋状に駆け巡ったように、彼の身体はくるりと回転して、錬司に頭を向ける形で仰向けになった。


 茂田と実岡は、何が起こったのか分からないという顔をしている。錬司も分からなかった。何が起こったかではない、何故そんな事になったのか、だ。


 錬司は、倒れゆく田上の頭蓋骨の内部で、脳が内壁に何度もぶつかるのを見ていた。見たと言っても実際に眼に映ったのではない。田上の全身が人体模型図のように透けて感じられ、その頭蓋骨の中で、脳が揺さぶられたのを知ったのだ。


 錬司が顎を叩いた事により、田上の頭蓋骨は回転し、硬い鉢の内部で柔らかい脳みそが振動。脳震盪の症状が起こっていた。


 よもや想像もしなかった錬司の反撃であった。茂田と実岡は最初こそ呆けていたが、田上がなかなか起き上がらないと見ると、錬司に向かって襲い掛かった。


 茂田が蹴りを放って来た。狙っていたのは、錬司の細い脇腹であった。硬い脛が真横から振り抜かれれば、錬司はボディの痛みに悶絶する。


 だが、悶絶したのは茂田の方だった。錬司は、茂田の蹴りを身を翻して躱し、彼の背後に移動していた。茂田が反応する前に錬司の足が跳ねて、茂田の股間に後ろから潜り込んだ。睾丸を蹴られた茂田は白眼を剥き、下腹部を両手で押さえて地面に転がった。


 実岡が顔を引き攣らせていた。まぐれではない――田上にした事ならば、偶然と片付ける事も出来る。それ以上の暴行を加えられるのが嫌で必死になってした抵抗、思わず顔を狙ったビンタが、開いていた田上の顎にヒットし、脳震盪の症状を作り出す。


 滅多に起こり得る事ではないが、軽く繰り出したパンチがノックアウトの要となる事は、ボクシングの試合でもあり得る。


 だが、田上のノックアウト、そして茂田の戦意喪失は、偶然ではない。錬司が仕掛けたのだ。


 しかし、何故⁉

 何故、そんな事を出来るのだ。


 分からなかった。

 今まで、喧嘩の“け”の字も知らなさそうな、そういう事態になった場合は黙って搾取される側の人間であった錬司が、どうしてプロボクサーも顔負けのタイミングで顎への打撃を繰り出せたのか。冷徹な正確さで股間を蹴り上げたのか。


 それまで見下していた筈の錬司が、突然、膨れ上がっていた。一瞬だけ眼を離した隙に、美しい花を咲かせていた蕾のように、全く別の姿に変わっているかのようだった。


「かぁぁっ!」


 得体の知れない存在となった錬司に、実岡ががむしゃらに掛かってゆく。


 太い指で、錬司のワイシャツの襟を掴んだ。自分の全体重をぐっと込めて、錬司の身体を引き倒そうとする。だが、破れたのは錬司のシャツだけだった。


 とは言え錬司も、その軽さでは実岡の体重に抗える筈もない。体勢を崩した錬司は、そのまま地面に激突する――と、思われた。


 錬司は何と、両手をコンクリートに突き、肘を緩めてから一息に伸ばし、腕力で地面から飛び上がってみせた。腰を沈めた実岡の頭上で身体をひねった錬司はそのままの勢いで、実岡の顎の先を爪先で蹴り上げていた。


 顎を反らした実岡の黒眼が瞼の中に消え、その場に仰向けになって倒れ込む。

 錬司は膝を緩く曲げて、コンクリートへの落下の衝撃を和らげつつ着地した。

 そして膝を伸ばし、直立して、倒れた田上たちを見下ろしたのである。






 信じられなかった。

 自分が、あの田上たちを、喧嘩で倒してしまった事が。


 都合の良い夢だと、最初は思った。自分は、田上たちに叩きのめされて意識を失い、保健室に運ばれ、そこで、その怨みから、あのような妄想を作り出してしまったのだと。


 そうではなかった。

 摩耶が、錬司の言葉を肯定した。


「全て、事実よ」


 摩耶は携帯電話を取り出して、撮影したという動画を見せた。それでも錬司は自分の動きが、自分の身体がしたものであるという事を、受け入れられなかった。


 まるでアクション映画の一場面のようだった。それか、人間には到底不可能な動きであっても、想像力の働き如何によっては自在に動くアニメーションのようでもあった。


 違うのは、カットの切り替えや跳ぶ時の補助具、田上たちが倒れる際の安全措置が全くない事だ。何かの加工があったとは思えない映像である。


 それでもやはり、信じ難い事だった。


 運動会では下から数えた方が早い所か、一番下の自覚さえある自分が、或る時に突然、喧嘩慣れした不良学生たちを叩きのめしてしまうなど、今時、漫画でだって古臭い演出だ。


 そんな事が、あるのか。


 仮にこれが現実だとして、自分の身体は一体、どうなってしまったのか。又、その事を確信していたらしき花果摩耶とは、何者なのか。


 分からない事が多過ぎて、頭の中がパニックに陥っていた。


「花果さん、これは……それに、貴女は……」


 錬司がそう言い掛けた所で、カーテンの向こうで、ドアがスライドする音が聞こえた。そして間もなく、カーテンが開き、ジャージ姿の未散が顔を出した。


「竜胆くん、良かった……眼を覚ましたのね!」


 朱の差した頬に、汗が浮いている。着ているのが学校指定のジャージである事から、ブラバンの練習の途中である事が分かった。


「花果さんがずっと見ていてくれたの? ありがとう!」

「構わないわ」

「竜胆くん、それにしても、一体、何があったの?」


 未散が訊いたが、錬司にも説明し難い。


「あの人たちが勝手に喧嘩したり、竜胆くんが怪我したりするのは分かるけど、どっちもあって、しかもあの人たちが倒れてるなんて……どういう事なのかしら。……あ、若しかして、花果さんが何かしたの?」

「――」


 摩耶は答えなかった。未散が冗談めかして言った事で、本気の問いではないと判断したのだろう。


「ここはもう良いわ。彼も眼を覚ましたようだし。羽生さん、貴女は練習に戻ったら? 厳しいんでしょう、先生」

「あっ、そーだった。そろそろ休憩時間も終わりだし――また明日ね、竜胆くん」


 未散は錬司に手を振って、急いで音楽室に戻ってゆく。錬司は、その小さな後ろ姿を名残惜しそうに見送りつつも、やはり、訳知り顔の摩耶の事が気になっていた。


「あの、花果さん……」


 事故の後、手術を受けてから目覚めた錬司の許に現れ、再び、転校生という形で接触して来た少女――彼女が持つテンプレートの事を含めて、聞きたい事は山のようにあった。


「説明はするわ。取り敢えず学校を出ましょう、話はそれから」


 摩耶は、錬司のバックを渡して、椅子から立ち上がった。

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