Part3

 もう一度、田上のパンチが唸った。今度は左だ。ストレートではなく、フック気味の軌道を駆けるパンチを、自然とスウェーバックの形になった錬司が避ける。


 錬司は、田上が次の行動を起こす前に、大きく後退した。頭を後方に反らす事で躱すスウェーバックは、重心の移動によってバランスが悪くなる。胴体と頭の距離が離れるので、ボディを狙った攻撃へのガードが追い付かない。


 田上がパンチの次に狙うのは、ボディか脚であると思われた。だから、どのような攻撃が来ても当たらない位置まで、下がったのである。


 それも、田上は想定済みであった。


「格好悪いな」


 茂田が言った。しかしその声は、錬司のすぐ傍から聞こえて来た。


 茂田は、田上が錬司に挑んで行った直後、錬司の傍まで移動していたのだ。そうして、自分を振り向いた錬司に対し、パンチを投げ付けてゆく。


 田上の時と同じだ。茂田のパンチが遅く見える。遅く見えるのならば、当たるまで待っている必要はない。顔を横に傾けた――が、茂田の拳の先が、錬司の耳を掠め、その部分に熱が灯った。


「結構やるじゃん!」


 茂田が、次のモーションに入っていた。殴り抜いたのとは反対の腕で、パンチを狙っている。それも当たらずに済ませる事が出来る筈だった。


 刹那、背後から気配がぶつかって来た。実岡も、茂田と同じように、錬司の傍までやって来ている。実岡は錬司の後ろに立ち、蹴りの準備に入っていた。


 更に田上も、今度はボディを狙う拳を固めている。


 茂田は顔面に拳、実岡は尻に蹴り、田上は胴体にパンチ――それぞれがどのような軌道を描くのか、錬司には分かった。どのような行動を採れば回避出来るのか、それも分かった。

 だが、錬司は茂田に頬を打ち抜かれ、実岡に尻を蹴り飛ばされ、田上の拳を腹に受けた。


「おげぇっ!」


 身体をくの字に折って、コンクリートの道に倒れ込む錬司。それまで躱せていた攻撃が躱せなくなった……その意味が分からなかった。


 錬司が、まんまと攻撃を受けたのは、三人の連携があったからだ。しかし、それだけではない。例え三人がフォーメーションを組んでいても、その挙動の全てを観測する事が出来たのならば、その全てを回避し得る行動は存在する。但し、それは観測者に、それだけの情報を処理した脳の理想通りに動く能力があればの話だ。


 田上のパンチの時点で、錬司は気付くべきだった。


 自分が、加えられる暴行に対し、紙一重の回避を選択するような人間か⁉


 違う。理想だったのは、パンチの風圧さえ届かない位置にまで逃げる事だ。

 田上のパンチがスローモーションに見えた時、錬司は、横にでも後ろにでも、大きく下がって逃げ出したいと思った。だが、それが出来ず、紙一重で躱す事しか出来なかったのだ。


 大きく間合いを取る為の運動が、錬司には不可能であったというだけの話だ。武道の達人のように、紙一重で回避しようなどと思った訳ではない。


 感覚では、田上たちの攻撃を予測出来ていても、肉体が追い付かない。だから、同時攻撃の前に、呆気なく倒れ伏してしまったのだ。


 それだけではない。田上が昨日の時点で気になっていたのは、錬司が自分のパンチを紙一重で躱した理由だった。実際には、身体が追い付かず、ぎりぎりで回避出来たというだけの話だったのだが、田上には、錬司の行動の真意が読めなかった。


 つまり、錬司が自らの意思で、紙一重で躱したのか否か、という事だ。


 紙一重というのは、もう少しで相手の攻撃が当たる所だったという事だ。では何故、自分の意思で、そんな危険な事をするのか。


 反撃の為である。

 同じ体格の人間同士が戦うとなった時、その射程距離はそうそう変わるものではない。片方が格闘技や武術を収めている場合は、同じ距離でも違うやり方で攻撃が出来るかもしれないが、基本的には、相手の攻撃が当たる距離は自分の攻撃が届く距離だ。

 空手でも、剣道でも、喧嘩でも、それに違いはない。


 ともすれば相手の攻撃が当たる距離に、回避してまで身を置くのは、自分の攻撃を相手に当てる為なのだ。


 錬司の回避は、それを狙ったのか? それとも偶然なのか。田上は、昨日の一件から、今日の最初のパンチまで、それを計りかねていた。


 だが、膝蹴りを躱されて、その答えが出た。

 まぐれだ。


 技術的にそれが可能ではあっても、意図的なものではない。

 何故なら、膝蹴りを躱した直後に、攻撃しなかったからだ。


 田上が錬司と同じように膝蹴りを避けたのならば、相手が脚を引く前に、その脚を捕る。それから軸足を払って転ばせて、ストンピングをするか、マウントを取る。でなければ、蹴りに合わせて股間を蹴り上げて、悶絶させる。


 錬司は、それをしなかった。

 反撃をしないのに、次のパンチも、紙一重で避けた。茂田の時も同じだった。いや、茂田の時は完全には避け切れなかった。


 それで確信した。

 ただの偶然で、避けられたに過ぎない。


 一〇度、拳を向ければ、それらは躱せるかもしれない。だが、一〇発のパンチを連続で躱す事は難しいだろう。一一発目にはきっと当たる。若しかしたらもっと早いかもしれない。そして一度当たれば、ラッキーは脆く崩れ落ちる。


 別に、一〇回のパンチが必要なのではない。要は、脳が処理出来る情報量を、身体が反応出来ない多さにまで増やしてやれば良いというだけの話だ。

 だから、連携攻撃だったのである。


 田上が、このような事を、理論立てて考えていたかは分からない。だが、本能的な所でそれを理解する能力に関しては、錬司の何倍ものキャリアがあった。


「へ……」


 田上は、蓑虫のように身体を丸め、地面に倒れている錬司に近付くと、腹を押さえている両手の上から、踵をめり込ませていった。


「ごぇっ!」


 錬司が呻く。その顔を踏み締めて、地面に押し付けた。


「糞が、調子に乗るんじゃねぇぞ」


 田上は錬司の胸倉を掴んで引き起こすと、手前に引っ張った彼の顔にパンチを見舞った。錬司の身体が力なく倒れ、東屋に続く小径に崩れ落ちる。錬司は、田上から逃げようとするのだが、今度は襟を引っ張られて起き上がらせられると、腹に拳を打ち込まれた。


 胃の中から、食道に、逆流するものがあった。


 二発目のパンチで、それを吐き出した。食道が内側から押し広げられ、咽喉を駆け上がる。胃液の酸っぱい匂いが口の中に広まると、むりむりと、まだ消化を終えていないものが溢れた。


 げぇ、げぇ……と、吐瀉物を撒く錬司。その跳ねが、田上のズボンに着く。


「汚ねぇんだよ!」


 田上は錬司を池の傍に放り投げた。咄嗟に頭を庇ったから良いものの、でなければ池の淵に後頭部が激突し、頭蓋骨が割れていたかもしれない。


「たす……け……」


 錬司は弱々しく言った。口を開くと、入り込んだ空気が口内に残った吐瀉物の匂いを攪拌する。その匂いが、更に嘔吐感を倍増させ、更に胃からものを取り出そうとする。


「洗ってやるぜ、匂うからな!」


 地面に膝を突いた田上は、錬司の髪を掴むと、池の方に引き摺って、顔を水の中に叩き込んだ。黒っぽい水の表面に、ぼこぼこと気泡が浮かび、錬司の頸から下がびくんびくんと痙攣する。


 暴れる錬司の顔を、水面から持ち上げ、


  ひゅーっ、


 と、一つだけ呼吸をさせると、もう一度、池の中に放り込んだ。


 蓮の花は泥の中に咲く為、池の下の方には土が敷き詰められている。その泥が、錬司の呼吸によって掻き回されて浮上し、彼の顔を汚した。


「ぎゃははははは!」


 田上が嗤っていた。

 それを見て、茂田も実岡も、薄ら笑いをへばりつけていた。


 錬司がもがき、震える手を持ち上げる。助けを求める手は、虚空を掻くのみだ。


「――よしなさい」


 摩耶が言った。


 田上が、錬司の顔を池から引き上げ、その傍に立って見下ろして来る摩耶を見上げる。


 摩耶の背に、丁度、太陽が降りて来ている。逆光の中に立つ少女は、妙に神々しく、犯し難い。


 そんな感想を抱いた自分に驚き、思わず後ずさり、立ち上がった。


 摩耶が、錬司が口に含んだ水と、食道に残ったものを吐かせた。そうして、泥と胃液にまみれた唇に、躊躇う事なく自分の唇を当てて、空気を吹き込んでゆく。

 唇を離すと、錬司が息を吹き返した。充血した眼を見開き、蒼痣を作った頬を膨らませたり窪ませたりし、紫色の唇を開閉させる。


「糞ッ」


 田上が毒づく。救助の為とは言え、錬司と摩耶の唇が触れ合ったのが、許せなかった。


 その田上と、彼の後ろでにやにやと笑う茂田と実岡を、軽蔑の眼差しで眺めると、摩耶は錬司に再びテンプレートを差し出した。


「使いなさい」


 有無を言わさず、口に含ませた。違うとは言ったが、装着方法はマウスピースと同じだ。前歯に下から被せるようにして、顎を閉じさせる事で装着が完了となる。


「マウスピースたぁ、準備の良いこって……!」


 摩耶が肩を貸して、錬司を立ち上がらせる。それを見ては、田上の、錬司に対する異常なまでの憎しみが燃え上がらない筈もなかった。ふらふらとした足取りの錬司に駆け寄ると、顔の正面に向けて拳を繰り出してゆく。


「見せ付けてんじゃねぇぞ!」


 錬司の意識は朦朧としている。田上の言葉が聞こえて、彼がパンチを繰り出そうとする動きが分かった。だが、靄が掛かっているようだ。このまま殴られてしまうだろう。


 とは言え、殴られるのは嫌だ。痛いのは嫌いだ。苦しいのなんて御免だ。避けて通れるならば、当然、避けて通りたい。それが出来ない人間が、苦行を肯定するのだ。苦しい事や嫌な事なら、逃げてしまえば良いのに、逃げる能力がないから、苦しさを克己したと公言して、自分の無能さを棚に上げたがる。


 ――逃げる。


 先ずは、このパンチから逃げなくちゃいけない。

 真っ直ぐに向かって来るパンチだ。


 どうやって逃げる?


 分かる。この軌道のパンチは、横に避けなければいけない。でなければ相手は、身を乗り出して追って来る。

 かと言って、横に頭を振り出す円の軌道は、自然と動作が遅くなる。自分の能力では躱し切れない。それに、横に逃げたからと言って、その次の攻撃があったなら喰らってしまう。


 恐怖に駆られても、理に適っても、何の意味もない動作ならば、出来る事をしよう。少しでも痛みが来るのを遅れさせよう。それだけの覚悟の時間を作ろう。


 錬司は、田上が大きくなっているのに気付いた。また、猫背になっているのだ。こうして背中を折り曲げていてはいけない。田上はここから動かない前提でパンチを放っている。ならば背筋を伸ばすだけで、頭の位置が移動して、少しだけでも、パンチの到達は遅れる。


 錬司の顎が持ち上がった。その位置を、田上の拳が通過してゆく。回避を全く頭に入れていないパンチとは言え、もう少し踏み込めばそれだけで当たる。知覚出来ないようなほんの一瞬だが、パンチの到達を遅れさせた。その一瞬で覚悟を決めた。


 さぁ、殴れ。

 もう、良いから。

 それで終わるなら、もう……



 かちり



 錬司の頭の中に、小さな音が聞こえた。

 それは、歯車の噛み合う音だった。






 未散は、息を切らしながら、階段を駆け上っている。


 授業が終わり、放課後は、ブラバンの練習に参加する事になっていた。ブラスバンド部は、月曜日が休みで、金曜日までは毎日あり、土日は週ごとに練習の日と休みの日を入れ替えている。ダンス部の放課後練習は二日置きにあり、ブラバンの休みの月曜日に参加し、休んだ分は朝練と毎週土日で補っている。


 ブラバンの活動場所に向かっていた未散であるが、その途中で、登校しなかった筈の田上がいるのを見たと話している生徒と擦れ違った。

 初めはそれだけの話だったが、その田上と茂田、そして実岡が、三人揃って屋上に向かった事を聞き、外の掃除から帰って来た東城から、摩耶が錬司を屋上に呼び出したと聞いたのである。


 嫌な予感がした。


 どちらかだけであれば、それだけの話だ。

 錬司は、摩耶との関係をそこはかとなく匂わせていたし、二人にしか分からない事情があるのだろうと判断していた。田上たちは、屋上で煙草でも吸うのではないかと呆れていた。


 その二つの情報が未散の中で、嫌な線で結び付いてしまったのだ。女に関する事では異常な熱で臨む田上と、その田上が昨日の体育の時間に錬司を狙ってボールを投げ付けた疑惑である。


 具体的に、田上が錬司に何かをすると思っていた訳ではない。だが、単に錬司と出くわして、何もないままに終わるという事が、未散には考えられなかった。


 だから、練習に行く前に、屋上を目指したのだ。


 そして、屋上の扉に手を掛け、開け放つ。陽は沈み掛けて、赤い光が柵の隙間から向かって来る。

 夕陽に照らされる屋上の道に、倒れている人影があった。その人物を、黒いシルエットが見下ろしている。


 最初は、田上が錬司に暴行を加えたのかと思った。次に、そこに倒れている人物が二人以上である事に気付き、錬司と一緒にいた摩耶にも暴力を振るったのかとぞっとした。

 だが、倒れているのが三人である事と、彼らを見下ろしている人物の他に、女性のシルエットがあるのに気付く。


「――竜胆くん⁉」


 未散が叫ぶようにして言った。


 倒れている人物――田上、茂田、実岡を見下ろしているのは、錬司であった。その少し後ろに立っていたのは、摩耶である。

 暴力的な田上たちが地面に転がり、穏やかな性格の錬司が彼らを見下ろしている――


 未散には、状況が分からなかった。


「羽生さん……」


 錬司は、階段から上がって来た未散に眼をやった。するとその場に膝から崩れ落ちて、ばったりと倒れ込み、動かなくなってしまう。


「り――竜胆くん⁉ どうしたの、ねぇ!」


 未散が、倒れた錬司に走り寄る。その前に、摩耶が錬司の身体の下に肩を入れ、彼を支えた。


「花果さん、これは、どういう事なの⁉ 何があったの……⁉」

「それよりも――」


 摩耶は変わらない。今日一日、誰に迫られても変わらなかった、淡々とした口調のままだ。


「彼を保健室に連れて行くのを、手伝ってくれないかしら」


 未散は、混乱しながらも、摩耶の言うように、気を失った錬司を支えて、屋上を後にする。

 小柄な少女二人に挟まれ、運ばれてゆく錬司。


 田上たちは、気を失ったまま、その場に横たわり続けていた。

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