Part2
その摩耶は、一日の内で、あっと言う間にスターになった。
数学や英語、生物の授業で、錬司たちは習ったばかりであった公式や文法を、さらさらと黒板に書き記してゆく。教科書にあるよりも簡単なやり方や、より実践的なものを提示してみせて、教員を唸らせた。
授業の入れ替えによって、二日連続の体育となったが、そこでも活躍を見せた。同じくバレーボールをやったのだが、サーブやレシーブの正確さは勿論、シュートの力強さ、守備範囲の広さや、跳躍力、反応速度の素早さで、摩耶一人で得点してしまったようなものだ。
そして、それらの活躍を称賛されても、下手に謙遜したり驕慢したりする事なく、
“ありがとう”
の一言で済ませてしまうクールなスタンスが、ますます彼女に夢中にさせた。
自らは情報を積極的に開示せず、かと言って持っている能力を特別に隠そうとする訳でもない、上限の分からないミステリアスな少女――
花果摩耶の噂は、他のクラスや学年にまで広まり、昼休みには教室のキャパを越える生徒が集まって来るような事態にもなっていた。
下校前のHRが終わってからも、摩耶に会う為にやって来る生徒は減らなかった。何か、特別に話がある訳ではない。単なる興味本位で摩耶に声を掛ける者が殆どだ。摩耶はそうした者たちを見ても、冷淡にはならない程度に落ち着いて返答をし、受け流している。
――自分とは違う世界の人間だ。
だからこそ触れ合いたい、というミーハーにも映る生徒たちと違い、錬司はそれが出来なかった。自分のような人間は、ミーハーになる資格さえない。こういう人間が、話題も持たずに周りに流されて話し掛けても、向こうには嫌な思いをさせるだけであろう。
そうして、錬司は荷物を纏めて、家に帰ろうとした。
と――
「竜胆錬司くん……」
わいわいとした喧騒の中から、低い声に名前を呼ばれた。
見てみると、生徒たちの包囲網を擦り抜けた花果摩耶が、錬司の顔を見上げていた。
錬司は、自分の名前が呼ばれた事を不思議に思い、誰がその声の主かを探して惑い、眼の前に摩耶が現れた事に驚き、その摩耶が自分を呼んだのだと気付き唖然とした。
「用があるの。一緒に、屋上まで来て貰えるかしら」
女性としては低めの声で、摩耶が言った。そうして、自分の鞄を持って、きびきびとした足取りで教室から出てゆくのであった。
錬司は少しの間呆けて、彼女の言葉を脳内で反芻していたが、その場でじっとしていると他の生徒たちの視線に晒されてしまう事に気付いて、逃げるように教室から出て行った。
何故⁉
そういう気持ちがある。
どうしてあの花果摩耶は、自分に声を掛けたのか――
他の生徒たちには、しなかった事だ。話し掛けて来る相手を邪険に扱う事はなくとも、自分から声を掛ける事はしなかった。その摩耶が、どうして、こちらから声を掛けた訳でもない錬司の名前を呼んだのか。
面識自体はある。彼女に名前を知られているという事も、知っている。だが、所詮はそれだけの関係で、彼女が自分のスタンスを崩してまで、錬司に声を掛ける理由が分からなかった。
そういう困惑と、もう一つ、恐怖があった。
摩耶が錬司に声を掛けた時、一瞬、教室内が静かになった。それまで、摩耶とお話をしようと膨らませていた期待が、その摩耶自身の言葉によって破壊されたのだ。
次は自分の番、その次は自分……自然と出来ていた待機列。身勝手であるとは言え、それまで破られる事のなかった期待が、呆気なく崩れ落ちてしまった時程、苛立つ事もない。
その苛立ちは、単に摩耶が話を切り上げただけならばすぐに消えてしまうだろう。だが、摩耶が別の人間に用事があると言って去って行ったのならば、話は別だ。
摩耶に対するあるかなしかの苛立ちは、彼女が用のある人間に対して向けられ、小さな嫉妬の火に変わる。あまつさえ、その相手が、竜胆錬司のように目立たず、暗い奴……自分よりも遥かに劣る相手であった場合は、ひとしおである。
摩耶の中で、自分は、校内カースト最底辺に位置するであろう錬司より、価値のない人間なのか。
そういう感情が、沈黙の後、じわじわと押し寄せて来る。この感情が頂点に達すると、小さな苛立ちから起こった嫉妬の火は、怒りに変わり、そして錬司本人に叩き付けられる。
錬司が、摩耶と同格の才能を持つ人間ならば別だが、二人の間は天と地程に離れている。摩耶とはベクトルの全く異なる田上正則などであったなら、錬司に対する怒りと同じものは覚えても、田上の持つ暴力的な面に圧倒されて、何も出来ない。
それが錬司であるならば――脆弱さの象徴であるような錬司ならば。
被害妄想に近いものであるという事は分かっていても、背の高さを妬まれて、虐げられた過去が蘇りそうだった。心臓が嫌な鼓動を打ち鳴らし、油のようにぬめる汗が流れそうである。
知らずに早足になりながら、摩耶が指定した屋上に向かった。
牡丹坂高校の屋上では、季節の花を育てる花壇が設置され、小さな池が造られて、東屋やベンチが設けられている。その花の世話や観賞の為、屋上は開放されていて、四方には背の高い柵が設けられていた。敢えて登ろうとしなければ、乗り越える事は難しい。
四階から、屋上への階段を上がり、ドアを開く。小屋から出ると、太陽の光がぱっと閃いて、錬司は眼を瞑った。
光に眼が慣れて来ると、高い所に吹く風が柵の隙間から叩き付けて来る。植えられた花が揺られて、葉や茎同士を擦り合わせ、かさかさとした音色を奏でている。
屋上からは、校舎が坂の上にある事もあって、町一帯を見渡す事が出来た。柵による閉塞感は否めないものの、空の近さがそんな事を忘れさせてくれる。
小屋から一直線のコンクリートの道があり、途中で左右に分かれる小径が二つずつある。最初の道を右に曲がると東屋、左には円形の花壇がある。次の道で右を見れば丸屋根の東屋があって、左手の小池は四角く区切られている。池には蓮の花が浮かんでいた。正面には、道の方に円周を向けた半円の花壇があり、両端には柵の手前にエンタシスの柱が、ツタを絡めて建てられていた。
その半円形の花壇の前に、摩耶は立っていた。道に背中を向けて、町を見下ろすようにしている。
「あの……花果、さん」
錬司は、吹き付けて来る風の音に敗けぬよう、声を上げた。
「摩耶で良いわ」
摩耶が、歩み寄って来る錬司を振り向いた。
「調子はどう、竜胆錬司くん」
「調子……⁉」
「術後の経過はどうなのか、聞いているのよ」
術後というのは、手術のという意味だ。未散を庇ってトラックに撥ねられ、重体に陥った錬司は、手術を成功させ、三週間後に目覚めるという形で回復している。
「特に、問題は、ないけど……」
強いて言うのなら、前よりも猛烈に腹が空く事だ。しかし、今までの食生活の事を考えると、悪い事ではないように思う。
そう――と、あの淡々とした感じで頷く摩耶。
そこで錬司は、気になっていた事を聞いた。
「あの、花果さん……貴女は何者なんですか。僕の手術の事を知っていたり、いきなり転校して来たり……」
若しかしたら、摩耶が、錬司が撥ねられた時に救急車を呼んだのかもしれない。昨日は交差点で彼女の姿を見ており、錬司が事故を起こした現場が彼女の生活圏である事は考えられる。自分が通報して呼んだ救急車に乗せられた少年が気になり、病室に見舞いに通っていたという事は、ない事はないだろう。
しかし、その程度の関係の相手が、術後の経過を気にするだろうか。手術を受けたという事を、覚醒時に教えてくれたとしても、訳知り顔で端的に告げ、自分だけが納得して帰ってゆくというのは、少し様子がおかしいのではないだろうか。
「――」
摩耶は、錬司の質問には答えず、自分からも彼に歩み寄った。摩耶の身長はこの年代の女性の平均で、未散よりは背が高いが、錬司よりはずっと小さい。だから、近付いてゆくと、その身長差が浮き彫りになって、摩耶は見上げ、錬司が見下ろす形になる。
「その……」
「――これを」
摩耶は、鞄から、掌大のケースを取り出した。ケースを開け、中のものを包んでいた布ごと取り出し、錬司の前に差し出した。
「付けてみてくれないかしら」
「これは――」
半円形の何か、であった。
U字を作る針金の左右を、半透明のパーツが覆っている。内側に段差があり、若干の凸凹が作られ、特別に誂えたものであるというのが分かった。
「入れ歯……いや、マウスピース……?」
錬司は、テレビでそれを見た事があった。ボクシングや総合格闘技の中継で、選手が口の中に入れているのを取り出したり、逆に口の中に装着したり、又は、打撃の衝撃で外れて飛んでしまった光景に、覚えがあったのだ。
「違うわ」
摩耶が言った。
「テンプレートよ」
「テンプレート?」
その言葉自体は、知っていた。パソコンのソフトなどに組み込まれている、定まった形のデータなどを、そう呼ぶ。小説やドラマなどの物語でも、ありきたりで覚えのある展開などは、揶揄されるようにテンプレートなものだと言われる事もあった。
一言でその訳語を付けるとすれば、“形”という事になる。
原形とか、定形とか、そのように言うのが、更に正確であろう。
その言葉と、この物体とを、すぐに結び付ける事が、錬司には出来なかった。そして、何の説明もなしに取り出された“テンプレート”とやらを、迷いもなく、指示通りに装着する事も。
「それは、どうして……」
錬司が、当たり前の疑問を訊こうとした時だった。
「いけねぇな、竜胆ちゃん……」
後ろから、そんな声がした。
「噂の美少女転校生を独り占めなんてよ……」
田上正則だ。
今日は、学校に来ていなかった筈だ。その田上が、舎弟の茂田と実岡を引き連れて、錬司と摩耶のいる屋上にやって来ていた。
「田上さん……」
「へぇ、噂通り、なかなか良い女じゃんか」
田上が、摩耶の事を品定めするように眺めて、息を漏らした。その横で、ウスと小さく言ったのは茂田である。茂田が、摩耶の事を田上に教えたのだ。
「胸は未散のようではねぇが、良い尻をしていやがるぜ。引っぱたいて真っ赤にしてやりてぇな」
唇をいやらしく歪める田上。彼の下卑た観察眼ではあるが、実際に正しく、胸元のすっきりしているのとは裏腹に、臀部から太腿に掛けての肉付きは格別なものがあった。運動の為の筋肉が、そのまま女性的な丸みとなって表出し、人の眼を惹き付けるのだ。
「それで? 何でてめぇのようなのが、そんな女と一緒にいるんだ」
「何でって……」
錬司が摩耶といるのは、摩耶に呼ばれたからだ。屋上でこうして二人きりになっているのも、自分たちだけの話をしているのも、全て、摩耶が言ったからである。錬司の意思は、用があると言った摩耶を尊重したものであり、それ以上でも以下でもない。
「それとも、元々そういう仲だってぇ事かい。……け、面白くねぇな。てめぇのような奴は、事故に遭ったならそのままおっ死んじまえば良かったんだよ」
田上は、花壇に唾を吐き捨てると、錬司に歩み寄って来た。
「何? この男……」
摩耶が錬司に訊いた。しかし、錬司が答える前に、田上はいきなりパンチを打ち付けようとした。
錬司は、昨日と同じ感覚になった。田上のパンチがスローに見え、僅かな動きだけで躱す事が出来る。そして、次に田上が繰り出すであろう膝蹴りも予測して、小さくバックする事で回避した。
田上の膝は、思いの外に良く伸びて、後退した錬司の胸元まで引き上げられていた。
蹴り上げた膝を、躱されるや後ろに引き戻して着地させる田上。
「ひゅぅ」
実岡が口笛を鳴らした。田上のパンチも、膝も、いつもならば必勝の手段だった。パンチで顔の方に注意を引き寄せて置き、それとは違う方の膝で下腹部を蹴り上げる。パンチで勝負を付けられる事もあるし、避けられてもゼロ距離からの膝蹴りは避け難い。
それを、錬司は躱してしまった。だから感心して、実岡が口笛を吹いた。
「昨日のはまぐれじゃなかったようだな」
驚きはあるが、想定の内だという顔で、田上が言った。
「やめて下さい」
錬司が、更に後ろに下がろうとしながら、囁いた。
「どうしてこんな事をするんですか」
「花を持たせてやろうってんだぜ、てめぇの彼女(おんな)の前で、格好を付けてみな!」
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