第二章 飢狼

Part1

 妙に頭が冴えていた。


 登校中の錬司は、商店街の前の交差点を渡った所で、未散と出くわした。「おはよう」と挨拶をしてくれる未散は、微かな熱っぽさを声に孕ませている。


「おはよう。……昨日は、ノート、ありがとう」


 錬司は、通学鞄から一冊のファイルを取り出した。入院している間、未散が、授業の内容を写していたものだ。ルーズリーフに綺麗に纏まっており、それをファイリングしている。


「ううん、平気よ。私も良い復習になったモン」


 授業中の板書事項は自分のノートに取り、それを改めてルーズリーフに書き込んでいる。その日の授業を頭の中で整理するのにも役立ったと、未散は言ったのだ。


「とっても分かり易かったよ」

「そう? だったら、次のテストには期待出来るわね!」


 未散が、ぱちりとウィンクをしてみせた。錬司は困ったように笑う。自分の成績の悪さは、未散も知っているのだ。しかし、いつもならばお世辞でもそんな事を言われても、委縮して笑う所ではないのだが、今回は自然と笑みがこぼれていた。


 未散の言う通り、次のテスト――錬司にとっては、ゴールデンウィーク前の中間テストの補修になるが――では、良い点数が取れそうだ。


 未散のノートの取り方が上手なのは勿論だが、それを、今の錬司は簡単に吸収してしまう。脳みそがスポンジになったかのように、授業内容という水を余す所なく取り込もうとしているのだった。


 それも事故が原因なのか。


 すらすらとペンを走らせる自分に違和感を覚えながらも、錬司は悪くない気分であった。昨晩、帰宅して、やはりそれまでの倍以上の夕飯を摂った後、三週間分のノートを自分のノートに写していたのだが、その作業が楽しくて堪らなかった。ペンを走らせるたびに知識が蓄積されてゆくのが快感で、丑三つ時まで続けていたくらいだ。


 ノートを写し終えると、腹が減ったのでコンビニに行き、弁当や総菜、冷凍食品などを買い込んで食べた。満腹になった後は風呂に入って、子供のような気持ちで眠った。


 明日は寝坊だな――そう思ったのだが、眼を覚ましたのは五時半頃である。腹がぐぅぐぅと泣き叫ぶので、少し早めの朝食をたっぷりと摂って、やはり少し早めに登校したのだ。


 未散はダンス部の朝練があり、帰宅部の錬司より早く登校する。その未散と出会ったのは、その為である。


「羽生さんって……」

「うん?」

「いつも、こんな時間に?」

「うん。ブラバンの方もあるし、ダンスは早めにして貰ってるんだ」

「凄いね……」

「でも、竜胆くんだって、今日は早起きじゃない」

「何か、眼が覚めちゃって。それなのに、身体が気持ち良いんだ」

「気持ち良い?」

「動きたがってるって言うのかな……良く分からないけど、その……」


 錬司は言葉に詰まった。運動嫌いの自分からは、想像もしなかった言葉だ。その言葉を紡ぎたくなった自分自身に、戸惑っているのだ。


「事故の影響かな、暫く寝たきりだったって言うから……」

「――ご免ね」


 坂の途中で、未散が言った。


「あの時、私の事を、助けてくれようとしたのよね……?」

「――」

「私の所為で……」

「あ、いや……そんな事はないよ! あれはあのトラックが悪かったんだ」


 トラックが信号無視をして、未散の渡っていた交差点に突っ込もうとしたのだ。錬司が動かなければ未散はトラックに轢かれていた。未散でなくとも、あの場所に他の誰かがいれば、その人間が事故に遭っていた。


 錬司が眠りに就いている間、帰宅した両親が、弁護士を雇って裁判を起こし、そのトラックの運転手が所属する会社から、慰謝料を受け取った。被告も非を認めていて控訴する事はなく、田舎の町の小さな事故として、殆ど報道はされなかった。


 それは別として、未散を庇った所為で錬司が事故に遭ったのならば、その責任は錬司にもあると思う。未散は横断歩道を渡る前、一度背中を向けた錬司に声を掛けていた。その所為でタイミングがずれて、トラックに迫られる事になった。

 錬司が頼りない姿でいなければ、未散は彼を励まそうとはしなかっただろう。


「羽生さんは、全然、悪くないよ――」


 錬司の声が高くなっていた。顔が火を点けられたように熱くなっている。未散は、大きな声を上げた錬司をぽかんと見上げ、頬を薄く染めて、「ありがとう」と小声で呟いた。


 錬司が熱い瞳で真っ直ぐに見つめて来るのが気恥ずかしくなり、未散は話題を変える。

「そうだ、竜胆くん、これからダンス部の練習、見に来ない?」






 牡丹坂高校には、体育館の横に、その半分程の広さのアリーナが設けられている。元々は、優秀な記録を残したバスケットボール部が、特別に予算を出して貰って造ったものだ。部活の時間以外は、体育や、集会などで使用している。


 アリーナには、ダンス部の顧問の女性教諭と、未散を含めた部員五人がいて、軽快な音楽に乗せてダンスの練習をしている。女子は三人で、男子が二人。


 スピーカーにセットした、顧問のポータブル音楽プレーヤーから流れているのは、錬司でも知っている流行りのアイドルの曲だ。何人かのメンバーで構成されて、誰それがセンターに立って、ダンスをしながら歌っている。エスニックな響きと、シンセサイザーの幾何学的な調べに乗り、明るいメロディで、ソロパートと合唱パートが適度な割合で散りばめられた、メンバー全てに見せ場のある曲だった。


 その曲に、本来のダンスとは違う振付を考えて、合わせている。

 作曲者と振付師とは別の解釈で、自分たちなりにその曲を表現しようとしている。


 詩の内容は、曲調に合わせて明るくなっている。しかし微かだが、その明るさの中に、やけぱちになったような雰囲気も感じられる。哀しい気分を、敢えて明るく振る舞う事で吹き飛ばそうというような意思があった。


 テレビ番組で紹介される時はポップさに注目している所、僅かな哀切さを拾い上げて、ヒロイックな舞踊に仕立て上げていた。


 元々は掌を泳がせる所を、敢えて拳を突き上げさせたり、軽やかなステップを強い踏み込みにしたりと工夫している。こうする事で、曲は同じなのに、全く違う世界観を組み上げてしまっているのだ。


 錬司に、それは分からない。分からないが、ダンスを通して、曲が訴えたい何かが胸を刺す。更に想い人である未散の動きを自然と追っていると、錬司の細胞がふつふつと煮えるような感覚に陥った。


 曲は強い弦の響きと共に歌詞を終え、残響がゆるゆると煙のように消えてゆく。振り付けは、一番小さな未散をセンターにし、左右に女子二人、外側に二人の男子が立って、振り付けを止めていた。五人とも肩を上下させている。トレーニングウェアには、じっとりと汗の染みが出来ていた。


「お疲れ! 今日はもう一回合わせて終わりにするから、各自クールダウンね」


 顧問が言うと、ポーズを解いて、それぞれに散開してゆく。濡らしたタオルで汗を拭き、持参の水筒やペットボトルから水分を補給する。


「竜胆くん、どうだった?」


 錬司が、未散のタオルと水筒を持ってゆくと、それを受け取って、未散が訊いた。汗で身体にぴったりと張り付く黒いシャツに、動き易そうなトレパン。腰にはジャージの上着を袖で結んで巻き付けており、ターンやステップのたびに、魔法使いのローブのように空間に翻っていた。


「格好良かったよ――」


 語彙のなさを、少年は怨んだ。もっと他に気の利いた感想を言ってやれれば良いのだが、高密度の情報をアウトプットする事は苦手だった。


 それに、未散の姿を、余りに近くで見過ぎている。ダンスの時はポニーテールに纏めた黒髪の間に、頭皮から伝った汗が溜まっている。ひっつめたうなじにも汗の珠が浮き、襟にまで滴り落ちていた。水を吸ったシャツの生地は皮膚に絡み付き、ブラの線を浮かばせ、小柄に見合わぬボディラインをあからさまにしていた。


 振り付けの中に、腰を起点に動かす煽情的な動きもあり、バストからヒップに掛けてのS字の曲面が、少年の眼には些か刺激的であった。しかも、こうして近くで見ていると、シャツの胸元に二つの突起が見えている。運動で火照った全身に血液が巡っているのだ。


「ふふっ、ありがと――」


 未散は顔や首筋、腕を拭いたタオルを襟に巻き、汗の溜まった髪をほどいて、シュシュに手首を潜らせると、水筒の蓋を開けて飲み口に唇を当てた。顎と共に水筒を持ち上げて中身を流し込むと、拭っても浮いて来る汗を絡めた白い咽喉が、蛇のようにうねって、妙な色っぽさを醸し出した。


「竜胆くんも、やる?」


 ふと、未散は言った。


「やる、って?」

「ダンスだよぅ。何だか、夢中になってみてたみたいだし」


 と、悪戯っ子のように笑う未散。錬司の顔が赤くなった。それは多分、未散が踊っていたからだ。その一方で、ああいう風に、激しく身体を動かしてみたいという思いもある。


「ぼ、僕は……」


 その答えを言おうとした所で、トイレに行っていた男子二人が戻って来て、


「おい、あの子――」

「ああ、めっちゃ可愛いな」


 と、そういう話をしていた。

 何かと思って、未散と錬司が顔を向ける。アリーナには二つの入り口があり、一方は校舎、一方は体育館に繋がっている。トイレに近いのは体育館側だが、校門に近いのは校舎の方の出入口だ。錬司たちが入って来たのはそちらで、二人の男子が眼をやったのも校舎と繋がった出入口である。


「あの子……」


 錬司が呟いた。その少女には覚えがあった。


 牡丹坂高校の制服を着ている。ブレザーの前を開き、ブラウスの袖を巻き込むようにして折っていた。裾を短く詰めたスカートの裾から、スパッツの下の方が見えている。

 服装こそ違うが、あのボーイッシュな少女だ。病院で錬司に声を掛け、昨日も横断歩道の向こうから消えてしまった、あの少女である。


「知り合い? 竜胆くん」

「い、いや……」


 未散に訊かれ、首を振った。覚えがないではないが、彼女の名前も知らない。


「よぅし、格好良い所見せちゃうぜ」

「こらっ、余計な事を考えない!」


 男子二人と、女子二人が、そんなやり取りをしていた。練習を再開するので、アリーナの中心に集まっている。未散もその輪の中に戻ってゆき、顧問が帰って来ると、整列をした。


「じゃあ、最初から――」


 音楽が掛かり始める。特徴的な、遠くへ延びる吹奏がスタートの合図だ。


 錬司は、三度に渡って目撃した謎の少女が気になっていた。


 この学校の生徒なのか?

 全ての生徒を把握している訳ではないから、そういう事もあろう。とは言え、彼女からは、巧く言えないが、普通の学生とは違うものを感じた。少女と判断出来る顔立ちから、制服を着ている事は不思議ではないが、変な違和を感じるのだ。


 その違和感については兎も角、その少女の正体について錬司が知るのは、遠くはなかった。






花果はなか摩耶まや


 と、黒板に、チョークの白い文字で書き込まれていた。

 教壇の前には、あのボーイッシュな少女が立っている。


「花果摩耶です。今日から、このクラスにお世話になる事になりました」


 綺麗なお辞儀をした。凛とした口調も相まって、軍人のような厳しさを感じる。とても整った顔立ちをしており、性別を問わずに見惚れてしまいそうな魅力を持っていた。錬司が感じた違和でさえ、人の心を惹き付けるパワーに変換されているようである。


 男子も女子も息を呑んでおり、担任が摩耶の席を指示するまで、阿呆のようにぽかんとなっていた。


 摩耶は、教室の真ん中の列の一番後ろの席に歩いて行った。錬司は、一歩進むだけなのにまるで絵画のような美しさを保っている摩耶の動きを、顔を真横に向けるまで追っていた。


 錬司は窓際の一番後ろの席に座っており、正面からやって来た摩耶を視線で追っていると、自然と横を向いた形になってしまうのである。


 その時、ちらりと、摩耶が錬司の方を見た。思わず眼を合わせてしまい、つぃと逸らした。


 摩耶は席に座ってからも、錬司を横目で見ていた。しかし、錬司は摩耶の方をもう向いていなかったので、その事に気付いていなかった。


 朝のHRで、摩耶の紹介が終わると、摩耶の席にクラスメイトが殺到した。

 前はどんな学校にいたのか、どうしてこんな時期に転校して来たのか、得意科目や食べ物の好き嫌い、趣味や特技、誕生日、血液型等々……挙句の果てには興味が本当にあるのか分からないようなくだらない質問まで飛び出すのだ。


 それらに、摩耶は無表情で淡々と答えていた。


「凄い人気ね」


 摩耶の周囲に群がるクラスメイトたちを流し見ていた錬司に、未散が言った。未散の席は、廊下側の一番前の席になっているので、わざわざ錬司の傍までやって来てくれたのだ。


「うん」

「竜胆くんは、行かないの?」

「僕は……」


 あそこまでして、あの少女に訊きたい事はない。少なくとも、彼らがしているような質問はない。あるとすれば、あの日、病院で自分に手術が成功した事を教えてくれた理由などになるだろうが、それをクラスメイトの面前で訊くのは躊躇われた。


「ほら、もうすぐ先生来るよー。席に戻って」


 未散が、ぽんぽんと手を鳴らして、生徒たちを解散させる。


「大変ね、転校生って言うのも」

「そうね」


 素っ気なく、摩耶が頷いた。


「私、羽生未散。クラス委員をやってるから、困った事があったら何でも訊いてね」

「ありがとう。その時は、お世話になるわ」


 未散が差し出した手を、摩耶が握った。

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