Part3

 二クラスの女子を、四つのチームに分けて、バレーボールの試合を行なっていた。未散がトスで打ち上げたボールを、クラスメイトが相手のコートに叩き込んで、点数をリードした。そこで時間になって、未散のチームが勝利した所である。


「ナイストス!」


 と、クラスメイトの女子とハイタッチを交わす未散。試合をするチームを入れ替え、外野に下がる途中、向こうのコート――男子がバスケをしている方に眼をやった。


 未散が自然と視線を向けたのは、体育館の隅で腰を下ろしている錬司である。退院直後という事なので、授業には参加せずに見学をしている彼だが、やはり、いつもの時とは様子が違うようであった。座っていても姿勢が崩れていないし、少しばかり熱っぽい眼で、バスケの試合の様子を見つめている。


 いつもの錬司には、薄っすらと、不気味さのようなものが漂っていた。陰鬱な空気を、皮膚の一枚上にへばりつかせているような少年であったのだ。未散は彼が本当は優しい人間である事を知っているが、客観的に見るとそのような印象を与えるであろうという事も知っている。


 今日は、いつもの湿った雰囲気が、彼の周りにないのである。背中を真っ直ぐに伸ばしている事だけでなく、爽やかな風を絡み付かせているように見えたのだ。

 そんな錬司を、意識してしまっている自分がいた。


 今朝、錬司を迎えに行ったのはクラス委員としての義務感からであった。又、彼に命を救われたという負い目もある。そこで見た、事故前とは何処か違う少年を見た衝撃が、まだ未散の中に残っているのだ。


「どーこ見てんの!」

「わ――」


 ぼんやりとした顔で、錬司を遠目に眺めていると、後ろからクラスメイトの東城とうじょうに肩を叩かれた。


「あ、未散ちゃんも、漸く色気づいて来たかな?」

「な、何言ってるの?」

「とぼけなさんな、あんなぼーっとした顔で、男子の方を熱心に見つめちゃって、青春したがってるんじゃないのー?」

「そ――そんな事ないわよっ……」


 青春という言葉に錬司の姿が重なって、青果店の親父の言葉が蘇って来た。それでむきになって否定してしまうのだが、すればする程、自分を守り、別人のようになって復活した少年の容貌が頭の中を駆け巡るのだ。


 未散の胸中を見透かしたように、にやにやと笑う東城。未散を宥めた東城は男子のコートを眺めながら、「誰かな誰かな? 未散ちゃんの気になっている子はー?」と、囁いて来る。


 だからそんなんじゃないってば――と、東城の手を振りほどこうとした未散であったが、次の瞬間、だん! と、何かが破裂するような音が聞こえた。別段、球技では珍しい音でもないが、急な音に反応してしまうのが動物のサガである。未散はばっと顔を向けた。


 すると、壁際に座っていた錬司の傍に、ボールが転がっている。コートにいる男子たちが、おろおろとした様子を見せていた。その中で、田上と茂田、実岡の三人だけが、何でもないような顔をしている。


「あいつら……」


 東城が小さな声で言った。


「わざとやったんだ」

「え?」

「田上が、竜胆くんにボールをぶつけようとしたんだよ。マークされてなかった茂田にパスを出す振りをして――」

「何で!?」

「さぁ……それは分からないけど」


 東城が言い終えると、未散はかっと頭に血を上らせ、隣のコートに怒鳴り込んで行った。東城は止めようとするのだが、その制止を振り切って、未散は田上に歩み寄る。


「田上くん――貴方、今、何をしたの?」

「何って、ただボールを投げただけだぜ。それを、あいつが受け損なったのさ――」


 田上は唇の端を吊り上げて、茂田を指差した。その茂田は、壁にぶつかって転がったボールを拾い直し、相手のチームの選手に渡した。ボールの所持権が相手に渡り、試合が再開した。


「竜胆くんを狙ったんじゃないの――」

「訳の分からない言い掛かりはやめてくれねぇかな。どん臭い茂田あいつが悪いんだぜ」


 試合の邪魔だ、退いてな――田上はそう言って、チームに交じってゆく。その後ろ姿を睨み付ける未散であったが、すぐに錬司に駆け寄った。


「大丈夫だった、竜胆くん」

「う、うん――」


 錬司が頷いた。見た所、ボールをぶつけられたという様子はない。錬司が背にしていた壁の、頭の横に、強くボールを叩き付けられた跡が残っている。田上が錬司を狙ったとしても、正確に目視は出来なかったであろうから、ポイントが僅かに逸れたのだ。


「良かった……」


 ほっと胸を撫で下ろす未散。錬司は、唖然とした様子であった。


「本当、酷い事するわね、病み上がりなのに」

「そう、だね……」


 心ここにあらずと言った風に、小さく顎を引く錬司。そこに、東城が未散を呼びに来た。


「田上くんには警戒してなくちゃ駄目よ――」


 未散はそう言い残して、女子のコートに戻ってゆく。


 錬司は不思議であった。

 田上の投球は、正確であった。自分が躱す事が出来たのが、この上のない奇跡であった。






 その帰り道――


 事故に遭った日と同じように、錬司は、未散を伴って坂を下りていた。その間、錬司は体育の時間の事を思い出していた。


 田上が錬司にボールをぶつけようとした疑惑の事だ。

 田上は茂田にパスを出そうとしたが、茂田がキャッチ出来ずに身を躱した為に、その後ろに位置していた錬司にボールが向かった。それが田上と茂田の認識であり、他のクラスメイトの何人かもそのように言っていた。


 しかし、田上が登校している事を訝る生徒たちは、理由は兎も角、田上がわざと錬司を狙ったのではないかと考えてもいた。


 錬司はそれ以上の事は追及しなかった。気になっている事があったのだ。


 田上は間違いなく自分を狙っていた――それが分かった事。そしてもう一つは、見事なまでに正確であった田上の投球を、自分が避ける事が出来たという事である。


 錬司を狙ったものであるという事は、茂田の挙動から分かる事であった。茂田は初めからキャッチする気はなく、ちらちらと錬司の位置を窺って、田上がスローイングするまでにポジションを決めていた。


 理由については分からない。何故、田上が錬司を狙ったのか。だが、それよりも、確実に自分を狙っていた回避不能な速度で迫ったボールを、どうして自分が回避成功したのか。


 茂田の陰になって、田上の姿は見えなかった。だから、普通ならば、茂田の挙動に怪しい所があっても、田上の狙いを絞る事は出来ない。仮に茂田の動きから、田上の狙いを予測して場所を変えようとしても、ターゲットスコープの役割を果たす茂田に付け狙われていては変わらない。


 それが分かった上で、躱す事が出来た。

 何故か。


 錬司は、茂田の動きを見て、彼を怪しんだ。彼の身体の向こうから、嫌な気配が迫っているのを感じ取ったのだ。その気配は、真っ直ぐに自分の顔面に叩き付けられて来た。錬司は、その気配を避けるべく、頭を横に移動させたのであった。


 すると、茂田が素早く身を躱し、その陰から猛スピードでボールが飛来した。 錬司の顔の横で、ボールが壁にぶつかった。


 他の人間が見れば、どのような結果でも偶然に見えただろう。田上の投げたボールを、茂田が受けられなかった事も、錬司の顔にボールが当たったとしても、当たらなかったとしても、人の手を離れたボールが描き出す、予想の出来ない軌道だと。


 そうではない。

 田上は錬司を狙い、錬司はその狙いを外した。


 何の理由も分からない。どんな理屈か分からない。

 分からない事だらけの中で、分かっているのは、錬司が自らの意思で、田上の投げたボールを回避出来たという事だ。


 他の者なら――例えば田上本人ならば、錬司のシチュエーションで、ボールを躱す事が出来ただろう。しかし、田上のような運動神経を持たない錬司では、偶然によって当たらないという事はあっても、回避を必然にする事は出来ない。


 今まではそうだった。今までならばそうなる筈のボールだった。

 それが――


「……ねぇ、聞いてる?」


 未散に声を掛けられて、はっと我に返った。気付けば坂を下り切っており、以前、未散を突き飛ばして代わりにトラックに轢かれた、あの交差点に差し掛かっている。


「あ、ご免……考え事してた……」

「考え事? ……若しかして、田上くんの事?」

「う――」

「そうなのね? 本当、危ない事をするわね、あいつ……でも、何で竜胆くんを……?」


 難しい顔で腕を組み、首を傾げる未散。錬司にも、田上に狙われる理由は分からなかった。しかし、敢えて推測してみるのならば、それは嫉妬なのかもしれない。田上の悪い噂は錬司も知っているし、同時に、彼が未散をターゲットに考えているというのも聞いた事があった。とすれば、未散を庇って事故に遭うという、些かドラマチックな関係になった自分に、良い印象を持っていないのではないだろうか。


 ――莫迦な。


 錬司は、苦笑さえ浮かべて、かぶりを振った。女など幾らでもいる田上が、寄りにもよってこの自分に嫉妬など。あまつさえ、未散と自分との関係が、ドラマチックだなどと。己惚れるのも大概にしろというものだ。


 未散に対する自分の思いは、一方的なものだ。未散から錬司に対しての思いは、その他大勢の一人という事に過ぎない。それが、事故に遭いそうな所を助けたように見えるというだけで、少しばかり特殊なものになっているだけだ。


 自分と未散の間柄が、人からの嫉妬を買うような関係などと思い込むのは、勝手な事だ。都合の良い妄想だ。

 笑ってしまう程の莫迦らしさだった。


 苦笑を浮かべて、自分が渡る信号を見る。まだ赤だ。その前の道路を、車が行き交っている。


 ふと、錬司は眉を顰めた。右へ左へ走り抜ける自動車の隙間から、向こうの歩道が見えているのだが、そこに一人の少女が立っている。

 病院で眼を覚ました時、ベッドの傍に立っていた少女だ。


「あ……」


 と、思った時、車通りが止まった。こちらの信号が青になろうとしているのだ。その時には、あの少女の姿は見えなくなっていた。


「――竜胆くん?」


 下から、未散が声を掛けて来た。


「今日は、ずっとぼーっとしてるね」

「あ――そうみたいだね」

「気を付けなきゃ駄目だよ? お家まで付いて行こうか?」

「だ、大丈夫だよ、そこまでしてくれなくて……羽生さんこそ、気を付けてね」


 錬司は横断歩道を渡り、商店街の前で、未散が信号を渡るのを確認した。無事に渡り切ったのを見て踵を返そうとすると、未散は道路を斜めに挟んだ所から手を振っていた。錬司も手を振り返し、彼女の姿が行き交う車に隠されてしまうと、今度こそ帰路に就いた。


 商店街を出て、住宅街に入った。アーケードと住宅街の間には、公園が設けられていて、その前を横切って自宅に向かう。


 と――


「見せ付けてくれるじゃねぇか」


 公園の入り口の傍から、声が投げられた。


「田上さん……」

「へ――」


 田上は手を持ち上げ、人差し指をくぃくぃと手前に動かした。公園の中に入って来いと、そう言っているのだ。


 公園のぐるりは生垣と背の高い樹に囲まれていて、外からは見え難い。遊具の類はなく、ベンチが二つ並んでいるだけなので、子供が遊んだりする事もない。


 錬司は逃げる事も出来たのだが、ここで逃げても後で嫌な目に遭うならと、田上に従った。


 公園の真ん中まで錬司が歩いてゆくと、田上は錬司を中心に半円を描くように移動し、公園の出入り口に立ちはだかった。


「てめぇ、未散の何なんだよ」

「な、何って……」

「てめぇみてぇな奴が、唾付けて良い女じゃねぇんだよ、未散は」

「――」


 まさか、本当に――?

 田上は、自分に嫉妬しているのか?


 だとすれば、それは酷い勘違いだ。未散を好いている錬司ではあるが、その思いを告げる心算もないし、ましてや未散にはその気はないと思っている。


「ご、誤解です……」

「誤解だと?」

「はい」

「じゃあ、てめぇは、

「やる――?」

「分からねぇならそれでも良いぜ、お坊ちゃん。だがな、あの女はだ。にして、あいつの小っちゃいに、をぶち込んでやるのさ――」


 野卑な表情を浮かべて、田上が言った。下卑た欲望を隠そうともせずに、獣臭と共に叩き付けて来るのである。

 その物言いに、錬司はむっとなった。


「は、羽生さんは貴方のではありません」

「何だと――」


 田上の眼が、ぎょろりと剥き出される。白い部分に、赤い血管が浮かび上がっていた。威圧的な形相に委縮してしまいそうになる錬司であったが、自然と、口が動いていた。


「彼女は貴方のではないと言ったんです!」

「野郎、てめぇやっぱり、調子に乗りやがってるんだな」


 田上が、錬司に歩み寄った。自分よりも少し背が高い錬司に対して、ぐっと睨み上げると、いきなり顔面に向かってパンチを叩き付けて来た。


 やられる――


 過去、何度か受けた事のある痛みが、錬司の頬に蘇る。


 だが、その時、不思議な事が起こった。


 あのボールよりも速く打ち込まれる筈であった田上のパンチが、急に速度を落とした。まるでスローモーションになっているかのように、ゆっくりと進んで来るのである。


 事故の時と同じだった。迫るトラックに対して感じた死の恐怖が、脳内からアドレナリンを大量に分泌させ、集中力を倍増させる事により、全ての景色がスローに見える。しかしそうなったからと言って、事故に遭う事に変わりはない。田上のパンチに対しても、同じである筈だった。


 しかし、違っていた。この時の錬司には、田上のパンチの軌道が、どういう訳か見えていたのである。打ち込まれるパンチがスローになっているばかりか、その拳の動きが、フィルムを一枚ずつ切り取った写真のように、自分に到達するのが見えていたのである。


 そのフィルムの間を擦り抜けて、錬司は動いた。田上が腕を伸ばし切る直前、拳の先が、皮一枚の距離にまで迫った時、頭を横に傾けたのだ。


 ぶぉん!


 と、耳を風鳴りが叩いた。田上の右の拳が、錬司の右頬の横に止まっていた。錬司の頬の皮膚が捲れ、つぅー、と、血が流れていたのだが、パンチそのもののダメージは負っていなかった。


「ぐ――?」


 確実に当たると思っていたパンチを、まさか錬司に躱されて動揺した田上が、大きくバックステップで距離を取った。何か、言いしれない力を、がりがりの錬司の身体から感じている。


「糞が!」


 田上は唾と共に吐き捨てて、公園を後にした。


 錬司は、頬からの出血を左の掌で拭う。

 あの感覚――思い出してみれば、ボールを躱した時も、あのような感覚があった。あのように、茂田の動きを予知し、ボールの軌道を予測していたから、躱す事が出来たのだ。


 だが、これは一体どういう事なのか。

 分からない。

 分からなかった。


 あの事故から、自分に何かが起こっている――


 錬司の身体が震えていた。

 腹の底で、何かが熱を孕んでいた。その熱に炙られて、全身の細胞が揺れ動いているのだった。

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