Part2

「何だか、不思議な感じ……」


 錬司と並んで歩きながら、未散は呟いた。

 家から出て少し歩くと、商店街のアーケードがある。屋根の下の道路を、八百屋や果物屋、喫茶店、レストラン、写真館、ブティック、パーマ屋、書店、映画館などが挟んでいる。


「不思議って?」

「さっき、竜胆くんが、違う人みたいに見えたの……」


 錬司は、ぽりぽりと頬を指で掻いた。入院している間、髪は伸びっ放しで、退院してから小奇麗にはしたのだが、それでも事故の前よりは長いかもしれない。前髪が眼に掛かって邪魔になっているが、以前よりはものが見易かった。


「身長、少し伸びた?」

「いや……変わらないと思うけど」


 ずっと眠り続けていたのなら、寧ろ、縮んでいても変ではない。身体を動かさなければ筋肉が衰える。それで身長が低くなるなら分かるが、背が伸びるという事はない筈だ。


「そうかなぁ、何だか、前よりずっと大きくなっているように見えるんだけど……」


 うーん、と、唸る未散。その様子を微笑みを湛えて見守っていた錬司は、青果店の前を通り掛かった時、ふと思い出して店に顔を出した。


「いらっしゃい!」


 如何にもと言った頑固親父の店長が、威勢良く言った。錬司は、相変わらずの声の大きさに頭をガンガンとさせながら、


「林檎、一つ、下さい」


 と、言った。


「あいよ――」


 そう言い掛けた親父が、妙な顔をした。親父の身長は一六〇センチくらいで、錬司より頭の位置が低い。睨み付けるようにして、親父が錬司を見上げて来る。


「あ、あの?」

「……ああ、何だ、竜胆さんの所の坊やかい!」


 親父はそう言って、大袈裟に驚いてみせた。


「何だか雰囲気が明るいし、声もでけぇからよ、誰かと思ったぜ」


 事故に遭ったって聞いたから心配してたんだぜ――と、親父は、錬司の注文通り、林檎を一つ掴んで袋に入れようとした。錬司がそのままでと言うと、「こりゃまた珍しい」と言って手渡した。


「声、ですか」

「おうよ、お前さん、いつもは蚊の鳴くような声でぼそぼそと喋りやがるからよ、なかなか声が聞こえ辛くてな。今日はどうしたい、やけに背中がしゃきっとしてるじゃねぇの」


 ばんばん、と、大きな手で錬司の背を叩く親父。よろめきながら、錬司は、確かに声を出す時、いつものような息苦しさは感じなかった、と、思い返す。その光景を見ていた未散が、あっと声を上げた。


「背中――今日は、猫背じゃないね!」


 ぽん、と、手を打つ未散。やたらと前傾しているのが特徴的だった錬司だが、この日は頭から足までがすっと直線で結ばれている。武道家か何かのように、頭のてっぺんからフックで吊り下げられたように、背筋が真っ直ぐになっているのだ。空が近いのも、未散が小さく感じるのも、その為であった。食事の量が増えたのも、身体が真っ直ぐになって、咽喉をストレートにものが通るようになったからだ。


 成程……と、納得する錬司の横で、親父が未散の姿を認め、


「何だい、彼女と一緒なのかい。そりゃ、姿勢もぴんっとしようもんだナ!」


 がはは、と豪快に笑う親父。そいつは奢りだと、錬司から受け取りそうになった代金を押し返して、彼の背中を押してやる。


「そ、そんなんじゃないですよ!」


 店から出ると、軒先で錬司を待っていた未散が、顔を真っ赤にして俯いていた。錬司は、彼女が親父の言う事を気にしているのを察し、それで自分も急に恥ずかしくなって、大きな声を出した。姿勢を正した事で、腹から咽喉までのラインが開通し、文字通り、声を腹式呼吸で出す事が出来るようになったのだ。


「行こう、羽生さん」


 と、赤面している未散を促して、先へ進む錬司。頬に朱を差した未散が見上げて来ると、照れ臭くなって目線を反らしてしまう。照れ隠しのように林檎を齧る。たっぷりと詰まった蜜の甘みを、瑞々しい酸味が引き立てる。少年の頬は、手にした果実のように赤くなっていた。


 背の高い少年と、その脇の小柄な少女は、何も知らない者が見れば、初々しいカップルのように見えたかもしれない。






 その日は体育の授業があったが、錬司は大事を取って見学する事になった。半袖のシャツと短パンを穿き、その上に長ズボンを被せて、体育館の隅に座り込んでいる。


 体育館を二つに分けて、男女で使用し、男子はバスケットボール、女子はバレーボールをしていた。二つのクラスが合同で行なうので、男女比はほぼ同じになる。


 錬司はこういう時、いつもなら、向こうのコートにいる未散の姿を追う事が多かった。小さな身体で激しく動く憧れの少女を見ている事に、ちょっとした幸せを感じていた。それと同時に、想いを告げようともしないくせにそんな事をして、まるでストーカーみたいだと自己嫌悪に陥っているのである。


 ただ、今回は、味方に巧いトスを上げて、得点に貢献し、チームメイトとハイタッチを交わす未散を見ているよりも、こちらのコートで闊達に動く男子のバスケの試合を見ている時間が多かった。


 スポーツは嫌いだ。走るのも遅いし、力もない。球技などというのは以ての外で、ボールを投げればへなちょこな軌道、蹴ればしみったれ、捕球しようと思えば突き指をする。それが分かっているから、チームメイトたちは錬司にボールを渡そうとしない。錬司にパスを出す時は、こちらのミスを盛大に莫迦にして大笑いしたい時だけだ。


 それなのに、今回は、ボールを奪おうとぶつかり合い、取られまいと駆け回る男子の動きに、錬司の眼は釘付けになっていた。


 ――僕も。


 コートを駆ける風のような姿に、ボールを手繰る水流のような動きに、ゴール前の焦げ付くような攻防に、シュートが決まった時の喜びの声に、錬司の肉体が反応していたのである。


 三週間の運動不足が、出来もしない事に対する憧れを孕んでいるのか。


 そう理性が抑え付けるのだが、錬司の身体は、何か、今にも暴れ出したいような衝動に駆られているのだった。


 そんな錬司の事を知らず、一人の生徒が、時折、彼に視線をくれていた。

 錬司と同じクラスの、田上たがみ正則まさのりである。

 髪を茶色く染め抜き、頭の片側をブロック状に刈り込んでいる。両方の耳にピアスの孔が開き、つるりと舌を覗かせれば赤い肉の上に銀のアクセサリーが載っている。舌ピアスだ。

 身長は、錬司よりも少し低い。だが、体形はがっちりとしている方で、試合を見ていてもかなり動く事が出来ている。


 田上正則は、ボールの取り合いをしながら、他の二名の生徒と、しきりにアイコンタクトを取っていた。どちらも、一見してガラの悪い事が分かる生徒である。

 坊主頭が茂田しげたで、少し太り気味なのが実岡みおかである。


 この三人は、いつも、授業には出て来ない。学校に来る事はあっても、校舎の裏や体育館の便所の中で、煙草を吸っていたり、猥談に花を咲かせていたりする。噂では、暴力団の知り合いがいて、未成年は立ち入る事の出来ない店で、酒を飲んだり女を抱いていたりするらしい。


 本当なら、今日も学校には来ない心算であった。朝から商店街の喫茶店の窓際に溜まり、煙草を吸って、一日中居座る予定であったのだ。


 茂田が、高齢の店主がやっている書店からエロ本を万引きして来た。アダルトビデオに出ている女優が出している写真集で、本番は写っていないが、玩具を使って気持ち良くなっているシーンは収録されている。

 そういうものを見ながら、煙草を吸い、申し訳程度にコーヒーを飲んでいた所だった。


 すると、窓の外に、錬司の姿が映ったのである。最初は錬司だとは気付かなかったが、良く見れば分かった。そして彼の傍らに、羽生未散がいて、一緒に歩いていたのだ。

 田上正則は、ぎょっとなった。


 ――何故、あいつが。


 錬司の事は知っている。背が高いくせに、気の弱いお坊ちゃん。事故に遭って死んだとか、入院したとか聞いていたが、どうやら生きていたようである。

 そこまでは良い。


 しかし、そんな錬司が、何故、未散と⁉


 未散は、学校でも人気が高い生徒だった。美人という訳ではないが、可愛らしい顔立ちをしていて、性格も良い。何より、チビのくせに巨乳で、尻も綺麗な丸型をしている。


 田上も少しなりと、彼女に気を持っていた。

 勿論、恋人になりたいとか、親密な関係を築きたいとか、そんな中学生のおままごとのような事は考えていない。

 手を繋ぐならばハメている時だし、キスをするなら抱いている時だし、愛を囁くならSEXをしている時だ。要は、セフレにしたら楽しいだろうなと、そんな程度の事を考えていた。


 それとなくアプローチを掛けた事はある。だが、未散は田上がそういう人間である事を知っていたから、いつも巧く躱されてしまっていた。


 その羽生未散が、竜胆錬司なんかと一緒にいる。

 それが面白くない。


 竜胆錬司と比べれば、自分の方が良い男だ。

 身長では敗けるが、身体の丈夫さや運動神経では、遥かに勝っている。こんな外見をしているが、実は勉強だって片手で出来るのだ。と繋がりがあるので、学生にはとてもじゃないが出来ないような、金を使った遊びが出来る。それを、女の子のお遊びの為に使う事も容易い。そして何より、がデカい。運動とか金とかで仮に錬司に敗けたとしても、のデカさと、の巧さでは絶対に敗けない。


 未散の小さいに、痛くないように、デカいものを入れてやる事が出来る。あんなチビでも、俺のデカいものじゃないと馴染まない身体にしてやる事が出来る。


 だのに、何故、寄りにもよって竜胆錬司なんかと⁉


 気に喰わなかった。

 気に喰わないので、田上は、茂田と実岡と共に、珍しく登校した。


 登校しても、面白くなかった。

 事故から回復した錬司は、まるでチームを勝利に導いた野球選手のように、女の子たちからちやほやされていた。その時に聞いた、未散をトラックから庇ったという話が、尚も気に入らない。


 英雄気取りで調子に乗りやがって。

 トラックに轢かれて死んじまえば良かったんだ。


 おぞましいばかりに黒々とした情念が、田上を支配していた。

 そんな時に、体育の授業があったのである。


 丁度良かった。

 体育の時間に、竜胆錬司に、調子に乗った報いを受けさせてやる――


 田上は、身勝手な報復のタイミングを計るのに、錬司を観察し、茂田と実岡とアイコンタクトを取っていたのである。


 相手のチームに、シュートを入れられた。

 ゴールから滑り落ちたバスケットボールが、壁に当たり、床を跳ねる。

 スローインを、田上がやる事になった。


 田上は、チームメイトをマークする相手チームの隙間を眺める振りをしながら、茂田の動きを追った。茂田は、目立たないようにサイド近くに移動した。茂田はコートのぎりぎりにまで下がり、田上からは分からないが、その脚の間から、錬司の姿を見る事が出来る。


 ――よぅし。


 心の中で、舌なめずりをした。茂田の腰より少し下の辺りを狙い、茂田がボールを躱せば、そこに錬司の頭がある。ボールを左右に振って、軌道を攪乱しながら、バスケと言うよりはドッヂボールの要領で、茂田目掛けて投げ飛ばした。


 意外な投擲地点に、相手チームは反応出来ない。パスはそのまま茂田に通ると思われたが、茂田はさっと身を躱した。


「え」


 そう言いたげな錬司の顔が、橙色のボールの影に隠れた。刹那、


  だん!


 と、大きな破裂音がしたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る