第一章 胎動
Part1
黒い闇が視界一面に広がっていた。それは瞼を閉じている時の闇ではない。眼を瞑っていると瞼を通過して、少しばかりの光が入り込んで倍増され、白と黒の点滅する闇になる。
これは、完全な闇であった。
全く光を反射しない、地獄の底のような暗さ――
上下も左右も分からない、寝ているのか起きているのか、ひょっとしたら動いている事さえ近く出来ない暗黒の中で、錬司はほろりと思った。
――死んだ。
自分が死んだと思った。
最後の記憶は、未散の呆気に取られた顔であった。トラックに轢かれそうになった未散を突き飛ばし、代わりに、自分の身体が巨大な質量に弾き飛ばされたのである。
そうして蒼い空を見て、そして意識が掻き消えたのだ。
その自分が、どうして、こんな闇の中にいるのか。
死んでしまったら、何も感じなくなるのではないのか。
その筈が、こうやって思いを巡らせているという事は、若しかするとまだ死んでいないのではないか。
だが、この暗闇の中では、生きている実感がない。とすると、死んではいないが、間もなく死が訪れようとしている、その中間にあるという事だろうか。
ほろほろと、何かの音が聞こえた。
地面を叩く硬い音だ。
真っ暗闇の中に、死神の足音が響いているのかもしれない。
それは、突然、ぬぅっといった感じで、錬司の前に現れた。前と言っても、錬司の視界を支配する暗闇を裂き、認識されるようになったのであって、それが錬司の真正面かどうかは分からない。
泥の中から蓮の花が咲くように、闇の汚泥を切り拓いたのは、のっぺりとした白い球であった。歪な形の球は、見ようによっては、ティアドロップとも思える。逆さまになった巨大な涙の雫が、錬司の意識の中に入り込んで来た。
良く見れば、その雫の下方にはやはり歪な円柱が繋がっていた。円柱の終わりから輪郭は左右に広がり、そして滝のように落下してゆく。滝は中央を太くした三つに分かれ、中央の滝は更に二つに分岐して、或る形を作り上げた。
人の形だ。
涙の雫は頭部で、円柱は頸、左右合計四つの滝は手足で、太い滝が胴体だ。
それを人の形と認識すると、段々と、細かいディティールが見えて来るようになった。
手と足には指が生え、関節がくびれて、胴体との繋ぎ目に向かうに連れて太くなる。太腿のラインに沿って尻が膨らみ、腰がきゅっと細くなると、内側に肋骨が形成されたのか胴体に細かな凹凸が生じた。胸骨の上に鎖骨の落ち窪みが出来て、線でしかなかった肩から頸に掛けてが立体感を持つ。ティアドロップの下端と、頸との間に隙間が出来て影が差した事で、それが顎と分かる。
土人形をヘラで形成してゆくように、或いは、紙に付けた当たりの中に細やかな線を書き加えてゆくように、闇に生まれた白い人の形は、明確な人間の姿を取り始めたのだ。
初め、それは男なのか、女なのか、分からないプロポーションをしていた。大胸筋の膨らみが乳房のそれにも見えたし、お腹の緩みが割れた腹筋のようにも見えた。腕は筋張っているようで柔らかく、尻は鉄のように硬いかと思えばマシュマロのようにふんわりとしている。
捉え所のない肉体であった。
その白い皮膚に、ぬめりと、色が満ちて来る。内側の血液が染み出したかのように赤く染まり、その上を膜のように透明の皮膚が包むと、ピンク色の健やかな肌が見えて来るのだ。それなのに、その皮膚も肉も薄っすらと透けて、全身を走る血管や神経、骨格、臓器までもが擦り抜けて見える。
完璧でありながら欠陥を抱え、男にして女である泥中の白蓮華。
下腹部に視線をやれば、そこには、陰嚢がぶら下がっていて、且つ、子宮が透けて見えていた。そして、陽根と女陰の奥に、何かが光を放ちながら存在していた。
蕾のようなものであった。
未だに開かぬ花の蕾が、尾骶骨の先端で光っているのだ。
恰も心臓が鼓動するように、蕾がゆるゆると花開いてゆく。
螺旋を描いて蕾が展開し、幾重にも重ねられた花びらが一枚ずつ、一重ずつ捲れ返ってゆく。
花びらの中心に、光の根源があった。開花した蓮華は、その中央から眩いばかりの輝きを放ち、そして昇ってゆく。暴れ出しそうになる光が、しかし、中央に支柱を突き刺されたかのように、支柱に沿って上昇を始める。
肉体を突き抜ける支柱の周囲を回りながら、ゆっくりと天上を目指す光は、間もなく、次の蕾にぶつかった。人間の身体で言えば、臍の下――丹田と呼ばれる場所にある蕾だ。
その光を浴びて、やはり丹田の蕾もゆっくりと開き始める。開花したならばやはり光が放たれて、最下層からの光と合体した光輝が、同じく支柱に沿って螺旋の上昇を始める。
同じ事が、都合七度、起こった。
尾骶骨から始まり、丹田、腹部、心臓、咽喉、眉間、そして頭頂部まで。
そのたびに花は光を混じり合わせて倍増し、天上へと突き抜けてゆく。
頭頂部から王冠のように抜け出した光は、身体を包む闇を焼き尽くした。そうして、上昇を終えると同じ軌道のままに降下を始めるのだった。
それは稲妻のようであった。
それは輝く龍であった。
天を目指す光の龍と、地へ駆ける光の龍が、一人の人間の身体の中心に宿っている。
やがて、その人間の姿は、光に包まれ、そして――
「う――ッ」
びくん、と、身体を大きく跳ねさせて、錬司は意識を目覚めさせた。
ばちりと開いた視界の先には、白い壁が立ちはだかっている。だが、それは壁ではなく天井であるという事が、視界の隅にある電灯のお陰で理解出来た。
後頭部には柔らかい感触があり、身体の前面には薄い布が掛けられている。右腕はシーツから出しており、肘のテープの下にはチューブの中身を注射する点滴の針が潜り込んでいる。
カーテンの裾が眼の前に翻った。開け放たれた窓から入り込んだ風が、青い匂いを病室に注ぎ込んでくれる。それで室内の薬品の匂いが攪拌されて、錬司の鼻孔にも届いて来た。
「ぼ、ぼく……」
自分は死んだのではなかったのか――
トラックに弾き飛ばされてからの記憶がない。だから、自分の人生は二〇年も経たぬ内に終わってしまったのか。そう思っていたが、どうやら違うようだった。
いや、まだ分からない。若しかすると、自分は死んでしまったのに、それを気付いていないだけかもしれない。或いは、死んだ後も、自分の魂は記憶を保ち続け、死者としての肉体を持って存在し続けているのかもしれない。死後の自分を証明した人間はいない。
「――眼が覚めたのね」
と、横から声を掛けられた。びっくりして身体を起こそうとすると、二つの手が両肩をベッドに押さえ付けて、横たわった状態を維持させた。
その時、当然、相手は錬司の顔を覗き込む事になる。
初めは少年かと思った。黒い髪を短く揃えている。しかし、努めて低くしているような声は女性のもののように聞こえた。顔立ちがかなり整っている。無表情だからか、それは際立っているのだ。
襟を大きく開けた白いブラウスを着ている。その鎖骨の下に、僅かでもブラジャーに包まれた二つの乳房が作る谷間が覗いていた。
「あ、あな、た……は」
声が咽喉に貼り付いているようだった。ボーイッシュな少女は、錬司の唇に人差し指を当てて、喋らないように言った。
「三週間、眠り続けていたのよ」
少女は言った。それはつまり、三週間、自分の意思で言葉を発していないという事だ。だからすぐに喋る事が出来ないし、同じ理由ですぐに身体を動かしてもいけない。
「手術は成功したのね」
少女の言葉からすると、トラックに撥ねられた自分は、病院に運ばれ、手術を受けて、その成功が三週間後であるこの時に分かったらしい。
「これからは、気を付けなさい」
少女は言うと、タイトな黒いパンツの後ろを向け、きびきびとした足取りで病室を出てゆく。
錬司が、見知らぬ少女に告げられた言葉を、理解しても呑み込めないでいると、間もなく、少女が出て行ったドアから、別の少女が姿を現した。
「り、竜胆くん……」
抱えた花束を床に落としたのは、羽生未散であった。モノクロのストライプのシャツは、生地が薄めになっている。胸元もざっくりと開いているし、袖も前腕の中頃前折り返していた。薄ピンク色のスカートも、風を受けてふわりと広がり、強い陽を当てれば向こうが透けそうになる。
気温が、春から初夏に変わった事を、教えてくれたようだった。
「良かった……良かったよぉ……!」
未散は錬司のベッドに駆け寄ると、その場で崩れ落ちてしまった。錬司は、まだ実感が沸かない。自分の憧れである未散が、自分が事故から回復した事に対して、喜びに崩れ落ちている。切れ長の瞳から、ぽろぽろと涙をこぼし、丸い頬を林檎のように真っ赤に染めているという事が、まるで妄想の中の事であるように思えた。
何れにしても、ここは死後の世界ではないらしい。竜胆錬司は、蘇生する事に成功した。
汗ばむ陽気となっている。
朝だと言うのに、じっとしているだけで、皮膚に熱が篭るようだった。
空は雲一つなく真っ蒼だ。時には鳥が翼を翻し、気持ち良さそうに飛んでゆく。
錬司は、自分の部屋で制服に着替えると、キッチンへ向かい、朝食の準備を済ませた。
レトルトご飯をレンジで温め、コンビニのおかず数品と野菜サラダを広げ、ケトルで沸かしたお湯を茶碗に入れた乾燥味噌汁に注いだ。
意識を回復してから一日様子を見て、身体に異常がないと言うのですぐに退院という事になった。筋肉が凝り固まっていて、激しい運動は辛いのだが、日常生活を送る分には問題がないらしい。珍しく食欲もあり、病院食では全くと言って良いくらいに物足りなかった。
父親が一度帰国し、母親が三回、見舞いに来た。母の三回目の見舞いの時は、退院の日であった。父にはその時に連絡を入れて、無事だという事を告げると、安心したと何度も言っていた。
些かドライにも思えるが、錬司にはこの距離感が丁度良かった。両親には悪いと思う気持ちもあるが、この駄目息子の為に、これ以上の心配を掛けたくなかったのである。
退院した次の日が土曜日であり、日曜日を挟んで、月曜日には登校出来るようになった。今は、その朝食を採っている所である。
納豆にカラシとたっぷりのネギを入れ、タレを掛けて掻き回す。それをほかほかのご飯の上に載せて掻っ込んだ。一〇センチくらいの卵焼きをパックから平皿に移し、箸で切り分けて口に運ぶ。一つは何も付けずに食べ、次に醤油を掛けて食べ、大根おろしに醤油を掛けたものを付けて食べた。肉じゃがを小鉢に開けて食べる。ジャガイモとニンジンに出汁の味が良く染み込んでいた。肉も柔らかく、シラタキをぷつぷつと噛み千切るのが堪らない。乾燥した味噌が、内包した豆腐やワカメを解放し、お湯の中に溶けている。過剰に振られた塩味が今日は嬉しかった。他のものもそうだが、少ししょっぱいくらいが良い塩梅だ。
食後にはバナナとヨーグルトを食べた。黒い斑点が出来かけているバナナを二本、一本は丸かじりにして、もう一本は千切ってヨーグルトに入れる。ヨーグルトは大き目のものをパックから直接食べるが、刻んだバナナと蜂蜜と、顆粒を全て入れて、大き目のスプーンを使った。
それでも少し物足りない気がして、商店街で林檎でも買ってゆこうかと思いながら、食器を洗う。
事故から三週間、覚醒から三日が過ぎているが、何故か、妙に身体が熱ぼったい。それは気怠さを伴ったものではなく、腹の底でかっかと燃える底知れないエネルギーが蠢くようだった。身体の中に原子炉が埋め込まれ、常に核分裂を起こすべく栄養を欲しているような感覚だ。
今まで自分が、常人の半分の食事しかして来なかったとしたら、その半分を補おうとするかのように、身体が栄養分を求めているのだ。
何だか世界が明るく、広くなったような気がしている。
それを不思議に思いながら、食器を片付け、登校の準備に入った。もう、冬服から夏服に移行する期間になっている。気温は高めだが、夕方には寒くなるし、急に暖かくなった影響で天気が崩れるかもしれないとニュースでやっていた。ズボンは冬物のままでも、学ランは持って行くだけで脱いで置く事にしよう。
通学鞄にノートと教科書を詰めて背負い、サブバッグに弁当箱と学ランを詰めて、家を出た。外に出ると、温い風が皮膚をさらう。太陽は眩しく、思わず手を顔で覆った。空は、太陽は、こんなに近かっただろうか。
学校へ向かおうと、商店街の方へ足を向けた所で、ひょっこりと現れる人影があった。
「羽生さん――」
未散が、錬司の家から少し歩いた所に立っていた。錬司と向かい合う形になっている。学校の方角に背を向けているという事は、わざわざ、錬司の家の方まで歩いて来たという事だ。
「お、おはよう、竜胆くん……」
何処か訝るような様子で、未散が声を掛けた。女子の制服は、ノースリーブのワンピースの上にブレザーを羽織る。その上着を脱いだ格好であった。紺色のワンピースは、腰のベルトで括れを作っている。ワンピースの袖から伸びるブラウスの白が眩しかった。
「おはよう、羽生さん。……どうして、こっちに?」
「えっと、その」
今日の未散は歯切れが悪い。いつもそんな風な口の利き方になるのは、錬司の方だった。
「竜胆くん、今日から学校に行けるって言うから、その、迎えに……」
「え――」
「一緒に行こうと思って」
「そ、そうなんだ……」
未散は、クラスで委員長を務めている。クラスメイトに何かあれば、その様子を見てやって欲しいと頼まれていたし、元来、世話焼きな性格である。事故に遭って――しかも自分を庇って――入院していた錬司が復帰するとなっては、気にもしようというものだ。
「もう大丈夫なの?」
「うん、平気」
錬司が頷くと、自然と笑みがこぼれた。未散に近付いてみるのだが、何故か未散は、さっきからそこはかとなく挙動不審になっている。
「……? どうしたの、羽生さん」
「あ――その、貴方……」
こんなに、小さかったのか。
錬司は、自分の下で口籠る未散に、ハムスターのような愛玩動物の姿を見ていた。憧憬を抱き、愛おしいと思っていた彼女が、今日に限って、小さくて愛くるしく見える。
「本当に、竜胆くん――?」
未散は、そんな事を言った。
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