2 近づく闇の音

「おっはよーあゆっ!」

ハイテンションなすばるの声にあゆが振り向いた。

「ねぇねぇ朝っぱらから悪いんだけど、数学の宿題見せてくれる? すっかり忘れててさー」

 べんっ。ノートがすばるの頭を叩いた。

「貸してくれんの?」

 ノートをつかんですばるが言った。

「昨日のお鍋のお礼ね」

「おーありがとっ!」

すばるの顔がほころんだ。

「でーも、あくまで宿題は自分の力でやるものなんだからね。次はないと思っててよ」

「ハーイ♪」

 上機嫌ですばるは返事をした。

 そこにやってきたまこがすばるの前に立ちふさがる。

「あら、うれしそうね西之森くん。何のノート? 交換日記か何か?」

 パッとすばるからノートを取り上げると、まこはノートを検分し始めた。

「違うよ、数学のノート。すばるに貸してあげたんだ」

 あゆが説明すると、まこはすばるを見てせせら笑った。

「やだぁ、あなた、女の子に宿題やらせてるの?」

 すばるは思わずムカッときて言い返す。

「あゆの親愛なる好意だっつの」

 すばるはノートをまこの手からもぎ取ると、足早に校舎へ入っていく。

まこはあゆに一歩詰め寄った。

「だめじゃん、あゆ。あんなのにノート貸しちゃあ。あいつ付け上がるよ」

「う~ん」

 あゆは苦笑した。

「あゆって時々西之森に甘いよね。迷惑なら、あたしが追い払ってあげるのに」

「いつも迷惑っていうわけじゃないんだよね」

「えっ?」

 まこの眉が意外そうに跳ね上がった。

「わたしの家、叔父さんと叔母さんが仕事でいない時が多いでしょ。そういうとき寂しいなって思ってると必ずっていうほどすばるが来てくれるんだ。わたしが呼んだわけでもないのに。昔からそうなんだけど一人で泣いてると、すばるが隣にいたんだ。ふしぎだよね」

 じっと話を聞いていたまこが口を開いた。

「あゆって西之森のことが好きなの?」

「え!? べ、べつにただの幼馴染だよっ!」

 赤面するあゆにまこは疑わしそうな目を向ける。

「ふーん。なんかほかの人と違うじゃない、すばるくんに対する態度」

「…そ、そうだね。兄弟とか家族みたいな感じかも」

「友達より特別ってわけね」

 ふん、とまこが怒ったように言ってあゆは慌てた。

「今言ったこと、絶対にすばるには内緒にしてね! あいつ、本当に勘違い男なんだから! 変なところ多いし…」

「変なところ?」

「うん。何でか事情は知らないけど一人暮らしなんだって。しかも一戸建て。なんか変だよね。いつも理由を聞くんだけど教えてくれないし」

「ふ~ん。怪しいやつね。裏で何かやってるんじゃないの?」

「まさか!」

 あゆは笑い飛ばした。あのすばるが悪いことなんてしてるわけがない。

「きっと何か言いたくないことがあるんだよ」

 あゆはそう信じていた。


 あゆたちと別れて先に校舎に向かっていたすばるは人気のない廊下を歩いていた。

 昨晩は鍋を持っていってよかった。ノートを貸してくれたってことはあゆは喜んでくれたということだ。

「次は何を持っていってやろうかなぁ」

 すばるが独り言をつぶやいたそのとき、急に声がした。

「おはようございます、すばるさん。なんだかうれしそうですね」

 すばるはぎょっとして、声のした方を向いた。

 そこには、階段に寄りかかって立つ浅野がいた。

 涼やかな笑みを顔に浮かべている。

「なんでお前生きて…!」

 すばるは驚きの色を隠せなかった。

「まあまあ、ここでは目立ちますよ」

 通りかかった生徒たちがすばるの声に反応して耳を澄ませている。

「裏に移動しましょう」

 浅野が体育館の方を示した。



「どうやって蘇った?」

 体育館裏へ移動するなりすばるが尋問するように聞いた。

「いやですねぇ。そんなゾンビみたいな言い方」

 浅野はくすくすと笑う。

「……俺はお前がゾンビだったとしても驚かないぞ」

「僕はゆがみですってば。世界が存在する限り、僕は何度でも生まれます。ゆがみはいつも、今このときも生まれてますからね」

「何回消しても無駄だってことか…」

「そういうことになりますね」

 それを聞いてすばるは静かに嘆息した。

「どうりで、昨日おかしい感触がしたと思ったよ。これじゃ、きりがねーな」

 すばるは頭をかいた。

「頼むからさ、俺のことは諦めてくれよ」

「昨日とはずいぶん態度が違いますね」

 不思議そうに浅野が言った。

「僕はあなたよりずっと若い。ですが、昔のあなたのことを多少なり聞いたことがあります。影の世界で誰よりも強くなりたいと、願っていたことがあるでしょう」

「はっ」

 すばるが笑った。

「そうだよ。弱いことに価値なんて無かった。だから、異界の者や人間を殺すのも大好きだったさ。それこそが俺のたった一つの生きる喜びだったんだ。だけどね、十年前に悟ったんだよ。俺は強くなくても生きていけるってね。そう諭してくれた人がいたんだ。だから、もう俺は影法師にはなりたいと思わない」

 そう言ってすばるは浅野から立ち去った。




「静かにー」

 あゆが呼びかける。あゆは体育祭委員だった。

 教室の黒板には種目決めとでかでかと書かれている。

「これから男女に別れて種目を決めます。男子は窓側、女子は廊下側に集まってください」

 生徒たちはがたがたと机を立って移動する。

 そんな中ですばるは机についてあゆに借りたノートを書き写していた。

 そこに吉田が来て机の前に座った。

「すばる、何にするー?」

「んー、何でもいい」

「マジで!?」

 すばるが持っていたシャーペンで顎をかいた。

「オレ、体力には自信あるし」

 窓際の黒板の前には体育祭委員に詰め寄って、男子が我先にとばかりに種目を取り合っている。体育委員の浅野は黒板の前に立って決を採っていた。

「はーい、俺百メートル」

「俺も」

「うっそ、おまえも? おまえ長距離走れよ」

「佐藤は?」

「みんな一人ずつしゃべってよ」

 困り顔の浅野が言った。

 次々に種目が決まっていくなかで誰も手を出さないものがあった。長距離だ。

「長距離は誰が走る?」

「ったりーよ。しぬしぬ」

「おれもパス」

 男子たちは一同に頭を横にふる。

 吉田がすばるを振り返った。

「すばるー、おまえなんでもいいんだったよな?」

 おー、と男子たちから歓声が上がる。

「ほーい、すばるに決定!」

「すばるがいてラッキー!」

 拍手が湧き起こった。

「おいおい、勝手に決めんなよ」

 すばるは一応抗議する。

「すばるは体力ありあまってそうだから決まりー」

「なんだそりゃ」

 すばるが言った。

「多数決ですばるさんに決定ですね」

 浅野がほほ笑んで、長距離のところにすばるの名前を書き出す。

「ま、いーけど」

 すばるが言ってノートに戻っていった。

 その時、浅野が意味深な瞳ですばるを見たが、すばるは気づかなかった。

 

 昼休みの鐘が鳴った。

「よっしゃ、昼飯買いに行こうぜ」

「おう」

 すばるが席を立った。

 机の上にはノートが置かれっぱなしになっていた。すると、ノートは誰も見ていないすきに壁にできた穴に吸い込まれて消えた。

 校舎裏では黒い空間に手を入れて取り出した手があった。

 浅野だった。

「こんなことしたくないんですけどね…」

 浅野が一人つぶやいてノートを裂いた。

 何かが破れる音がした。

 



 昼休みのあとは体育の授業だった。

 女子はグランドでサッカーをする。

 女子たちが体操服に着替えて、靴をはきかえて外へ出ていく。

 あゆは手を伸ばして一番上にある下駄箱の扉をあけた。

 バラッ とそれはあゆの頭にかかった。

あゆは目を見開いた。

 中から、無数の白いものがふりそそいでくる。

「なに、これ……」

 紙片だった。あゆの髪の上に、肩に落ちてくる。

 まこがすばやくあゆの足元に落ちた紙片を拾って裏返した。

 そこに書かれていたのは、数学の公式。

「これ、まさか……」

 まこがあゆを振り返る。

あゆは自分の足元を見ていた。

飯塚あゆとマジックで書いてある。破られたノートの表紙だった。

「なんで…?」

 呆然と立っていたあゆの目からぽろりと水滴がこぼれてくる。

「あゆ!」

 まこが叫んであゆの肩を抱いた。

 あゆの肩は震えていた。


 体育館では男子がバドミントンをしていた。

 きゅっきゅっとシューズのこすれ、ラケットが羽を打つ軽快な音が響いている。

 すばると吉田は試合の最中だった。

 パンッ! すばるのスマッシュが決まった。

「よっしゃ!」

すばるがガッツポーズをとった。

「とれねーわ、すばるのスマッシュ。とるまでやるから打てよ」

 吉田が言った。

「へへん。オレ、スマッシュ打つの好きー。タイミングが決まると最高に楽しいんだわ。こりゃ全勝も軽いかなー」

 ラケットを振りながら上機嫌ですばるが笑った。

 そこへ。

「西之森すばるっ!」

 吠えるような声がすばるを呼んだ。

「岡崎じゃん。どうしたの? 女子は外でサッカーだろ?」

 吉田が聞いた。だが、吉田は無視される。

 まこは勢いよく歩み寄ると、すばるにつかみかかった。

「ちょっと来なさい」

 問答無用でまこが言い放った。

「え、オレはこれから決勝があるんだけ…」

「知るかっ!!」

 まこが一喝した。

 逆らえる者は誰もいないような恐ろしさに、すばるは沈黙した。


「どういうことよ、これ」

 校舎裏に引っ張られてきたすばるは小さな紙袋を押し付けられて戸惑った。

 よく分からないながらも、紙袋の中身をたしかめる。

 すばるは驚愕した。 

 中に入っていたのは、ノートの紙片だった。その一番上にあった、あゆの名前入りの紙片が目に入る。

「これってあゆの…」

「そうよ! あんたにあゆが貸した数学のノートよ!」

 まこが激しく叫んだ。

「あゆはあんたのこと信じてたのに…! ひどすぎるよ! あんた、最低だよ!」

「……オレじゃない」

 すばるのしぼり出した言葉にまこがせせら笑った。

「はい? だれがあんたの言うことなんか聞くのよ!」

「あゆはどこにいる」

「教えるわけないでしょ!」

 まこの肩がすばるに当たった。袋がすばるの足元に落ちる音がした。

 走り去るまこの後ろすがたを見送ってすばるは立ち尽くしていた。

 風が吹いた。

 すばるはある人の気配に気づき、そしてため息をついた。

 袋の中のノートのかけらが風にのって外に出て行く。

すばるが目で追うと、浅野がすぐ近くの木の上に腰掛けていた。

 ノートのかけらはすばるをからかうようにすばるの周りをくるくると回っている。

 浅野がノートのかけらを操っていた。

「ひとつ、お前がなにを考えているかが分かったぞ」

 すばるが静かに言った。

「ああ、そうですか」

 浅野の返事はそっけない。

「俺があゆに嫌われてほしいんだろ」

「そうですね」

 浅野は淡々と答えた。

「僕はこれからもっとひどいことをするかもしれません。それでも意思を曲げないおつもりですか?」

 すばるの瞳は揺るがなかった。

「ああ。お前の思い通りにはならねーよ」

 その瞬間、浅野が射抜くようにすばるを見つめた。

「では、破れたノートはどうしますか?」

 挑発的な言い方にすばるは浅野を睨みつけた。

「また僕をバラバラにしますか? このノートのように」

 パンという音と共に、紙片はさらに細かくなった。

「…うさばらしにそれもいいかもな。ノートよりも細かくしてやりたいよ」

 それを言い切ってから、すばるは深呼吸した。怒りのままに今暴走するのはまずいと感じていた。

「でも、な。時間の無駄だから今はやめておく。だけどな、このままやりたい放題してただで済むとは思うなよ」

 すばるは、体を陽炎のようにくゆらすと、すうっと消えた。

「変わりましたね、すばるさん」

 浅野は風のような声で呟いた。

すばるはあゆを探して保健室にたどりついた。

 そこは無人のように見えたが、ひとつだけカーテンに仕切られたベッドを見つけた。

「あゆ?」

 返事はなかった。仕切り用のカーテンは締め切られていた。

 すばるが開けようとすると、内側からおさえられる。

「やだっ! あけんなっ!」

「あゆ」

「あっちいけ!」

「あゆ、ごめん。オレのせいで……」

「そんなこと聞きたくない!」

 あゆが叫んだ。

「わ、わたしのことが嫌いならそう言えばいいじゃん!」

「そんなことねぇよ。だけど」

「言いわけすんな、バカ! 出てけ! 嫌い!」

あゆの投げた枕がすばるに当たった。

「…ごめん。今はこれしか言えないんだ」

 カーテンがシャッと閉じられた。

 中からはあゆのすすり泣く声がする。

 どこか遠くでチャイムが鳴った。

 開いた窓からはいりこむ風が静かにカーテンを揺らす。

「ごめん」

 そうつぶやいて、すばるは姿を消した。


 すばるは屋上に移動していた。

 寝転がって、空を見つめていると、勝手にさっきの出来事が頭の中で再生される。

『言いわけすんな、バカ! 出てけ! 嫌い!』

言われて傷ついた言葉ばかりが出てきて、すばるの胸の内が痛んだ。

「きっついなー…」

こんなことは初めてだった。

すばるはいくらあゆをからかうことがあっても泣かせたことは無かった。

ケンカは何度もしたのだが。

『破れたノートはどうなりますか?』

『元には戻りません』

 勝手に頭の中で、浅野の言葉が反芻される。

 影人の術でならノートを戻すことはできる。

 だが、浅野が言っていたのはすばるとあゆのことだったのだろう。

 すばるは静かに目を閉じた。

 心地のよい風が吹きぬける。

そうしていると、いつも浮かんでくる光景があった。それは、十年経った今も鮮明に思い返される、あたたかい家族の姿だった。父親がいて母親がいて自分がいる、そんなところ。いつも笑いが絶えなくて、すばるの胸をいつもちくちくと刺したところ。

影人であるすばるには親がいない。もともと、影人というものは親なしに生まれて来るものなので、人間界に来てから初めて、家族というものを知ったくらいである。

すばるは首が絞まるような思いがした。その家族をあゆから奪ったのは自分だ。

 どこかであゆの泣いている声がする。

 誰もいない家。からっぽの家。

 すばるはあゆが叔父夫婦に引き取られてからも見守り続けてきたのだった。

〈……落ち込んでル〉

 奇妙な声が複数すばるの耳に入り込んできた。

〈落ち込んでるネ〉

〈クククク…ケーケッケ! いい気味だぁはっは…〉

「うるさいぞ、お前らっ!」

 すばるが怒鳴った。

〈キャーッ!〉

影人や闇が、叫んでぽぽぽんと消えていく。

「ったく…」

 すばるは頭をかきながらため息をついた。

 


次の日の朝。

「あゆ、おはよ」

すばるの口からいつもより控えめな声が出た。あゆの視線はすばるから反れて、すばるの後ろの方に向いた。

「あ、まこちゃんおはよう」

 あゆはまこの隣りにさっさとすばるを避けるように行ってしまった。

 すばるは肩を落とした。

そこに、やってきていた浅野が手を置いた。

「どうしたんですか、すばるさん。元気ないですよ? あ。あゆさん、おはようございます」

「おはよう、浅野くん」

 あゆたちの会話に浅野が加わった。

「あいつぅ……!」

 すばるは浅野に怒りを覚えた。


 その日の昼休みになった。

クラスメートたちは教室で昼食をしていた。

「なあ、あゆ知らない?」

 すばるが聞くと、男子が答える。

「知ってるけどさ、岡崎まこに絶対教えるなって釘刺されてんだよ」

「そうか…」

 すばるがそれだけ聞いて行こうとすると、吉田が言った。

「なあ、おまえ飯塚あゆとケンカでもしたの? 避けられてるみたいだけど」

「…ほっとけよ」

 無愛想に答えると、すばるは足早に教室を出て行った。

「なんだよ、あいつ。感じ悪くなったな」

「だよな」

 顔をしかめて吉田が言った。


 廊下に出たすばるはあゆはまこの声がどこからかすることに気づいた。

「現代国語の時間、まこちゃん寝てたよね~」

「だって、あの人の授業眠いんだもんさ」

二人は外にいるらしい。

そう知ったすばるは階段を駆け下りて行った。


 すばるが下駄箱の前まで来ると、浅野が行く手に立ちふさがった。

「浅野か。今度はなんだよ」

 不機嫌そうにすばるが言った。

「もう一度聞きましょう。気が変わったかどうか」

 浅野が言った。

「後にしろよ。オレはあゆに用があるんだ」

 イライラとすばるが言った。その耳に、あゆとまこの会話が聞こえてくる。

「次の授業は古典だね。宿題やってきた?」

「やったけど、絶対間違えてると思う。あとで答え合わせしない?」

「うん、いいよー」

 声が近い。

 校舎を出てすぐ横のベンチに二人ともいる

ようだ。

「あゆさんだけではありません。今度は周りの人までも巻き込むことになりかねませんよ」

「お前がなにをしようと俺は行かないぞ!」

「頑固ですね」

 うすく浅野が笑った。

「残念ですよ、すばるさん。僕は、ここであなたを攻撃しなくてはなりません」

 そう言って、浅野が腕を振り下ろした。

 浅野の念力が波となってすばるに撃ちかかった。

「!」

 ガードしていなかったすばるは後ろに吹っ飛んだ。その衝動で下駄箱に激突する。

「くそっ!」

 すばるが悪態をついた。

「卑怯だぞ! 人間界で攻撃するなんざ!」

「そうですか?」

 浅野がかるく首をかしげた。

「影の世界ではこれくらい当然でしょう。あなたのほうが、この世界に馴染みすぎて、たるんでいたのではないですか?」

「…フーン?」

 すばるが笑った。目には狂気の炎がゆらめいていた。

「調子に乗るなよ…?」

 その瞬間、廊下にすさまじい音が響きわたった。

「おとなしくしてりゃあ、つけあがりやがって!」

 浅野がたたきつけられて下駄箱が大きくかしいだ。

「またこの前みたいに消してやろうか?」

 浅野は苦しそうに胸で呼吸をしながら口を開いた。

「…でもいいんですか? ……さんが」

「ああ?」

「あゆさんが見てますよ」

 すばるの動きが止まった。

「あゆ…?」

呆然として顔を上げると、そこにあゆが立っていた。

「何やってんのあんた!」

 まこが鋭い声で叫んだ。

「何だ、何だ?」

「ケンカか?」

 生徒たちが音を聞いて遠巻きにすばると浅野を見ている。

「どうした!」

 騒ぎを聞きつけた教師が駆けつけてきていた。

「先生…いきなりすばるくんが…」

 浅野が教師のもとへ腕を抑えながら、弱々しく言った。

「腕が痛いのか?」

「はい」と浅野がうなずいた。

「岡崎、飯塚、浅野を保健室へ」

「はい、先生。あゆ、行こう」

 まこが言った。

「お前は職員室に来い、すばる」

教師がすばるにそう告げた。すばるは黙って従った。

 そして、その日の授業にすばるが戻ってくることはなかった。


 次の日、その噂は学校中に広まっていた。

 下駄箱の破損具合は激しく、通りがかる度に誰かが説明した。

「えー、これ誰がやったの?」

「二年の西之森すばるだって。金属バットで浅野っていうやつを殴ってたらしい」

「まじかよ、こわっ!」

 噂には尾びれがついて回った。

 そして、クラスでもすばるの話題は耐えなかった。

「すばるくんが浅野くんをいじめてたんだって」

「ひどいことするよね。浅野くんは体が弱いのに…」

「ボコボコにされたんだってさ」

「浅野くん骨折だって」

「かわいそう」

 ガラッ。教室のドアが開いた。

 すばるの姿にクラスが一瞬の間静止した。

 すばるは自分からすっとあゆの視線がそれるのを感じた。

 自分の席に行こうとすると、すばるの机の上に男子が座っていた。吉田だった。

「…はよっ」

 すばるがあいさつした。

「……浅野に謝れよ」

 ぶっきらぼうに吉田は言って席を立つと仲間のグループに行ってしまった。

 すばるの脳裏に浅野の言葉がよみがえった。

『あゆさんだけではありません。今度は周りの人までも巻き込むことになりかねませんよ』

「……そういうことかよ…」

 浅野の言っていたことの意味が分かってすばるは呟いた。

 その時また教室の雰囲気が変わった。

 教室に入ってきたのは浅野だった。肩から包帯で腕をつっていかにも骨折したようすだった。

 だが、すばるは知っている。

影の世界の住人は傷が癒えるのが早く、三日もあればほとんどの怪我は完治する。骨折などすばるの場合は一日もあれば治ってしまう。浅野の包帯の下は、無傷に決まっていた。

「浅野くん!」

「腕はだいじょうぶなの?」

 浅野を見つけたクラスメートたちが浅野に駆け寄った。

「ええ、しばらくはこのままですが、安静にしていれば治るようです」

 浅野が笑って答えた。

「よかったぁ」と、女子が安心したように言った。

「でもその腕じゃ授業も億劫だな」と、男子。

「ノートとってやろうか? ああ、女子のほうがいいか」

「なに言ってるんだよー」

 浅野が笑った。

 すばるは教室を誰にも見られないまま一人で出た。


 あゆはすばると入れ替わるようにして教室に入った。

 すばるの姿はなかった。クラスメートたちは浅野に集中していて、すばるのことをけなしていた。

 ホームルームが始まり、教師が出席を取り始めた。

 相葉、石川、大木、小野・・・…。

 そしてすばるのところで止まった。

「西之森。…西之森すばる」

 何度呼んでも返事がない。

「すばるはどうした」

 教師が聞くと一つの手が上がった。

「知りませーん、そんなやつ」

 吉田の言葉にクラス中に爆笑が起こった。

 あゆは唇をかみしめる思いで、誰も座らない机を見つめた。

 そこに、すばるはいない。


その時、すばるは自分の家への道を辿っていた。

道を歩く人の姿は無く、遅刻して走ってくる生徒もいなかった。時々、車が脇を通り過ぎていくだけで歩いているのはすばるだけだった。

影という影から、影の世界の住人たちが自分を見ているのをすばるは感じた。

木陰も、家々の間にも電柱の細い影にも。動く気配は無く、ただ見ている。ほとんどが好奇の視線で敵愾心は感じられない。

追い払うこともできるが、すばるは何もする気が起きなかった。

(俺は、どうしてこんなところにいるんだろう)

漠然とすばるは思った。

自分は影人で、生まれたときから、強さの象徴である影法師になるために、次々に影法師候補の影人を倒した。

大勢の影人に追われて体中に傷を負って、人間界に来た。

追っ手からなんとか逃げきったすばるは、人間に見つからないところへ移動しようとしていた。だが、力を使いすぎていたので、仕方が無くよろめきながら、壁を伝って歩いた。そのうちに雨が降ってきて、次第に視界が定まらなくなったすばるは地面に倒れた。その時。

「だいじょうぶ?」と、声が掛かった。

 見れば人間の夫婦だった。

 すばるは、「こんなのほっときゃすぐ治る」というようなことを言ったのだが、その夫婦は聞かなかった。

「遠慮するんじゃないよ」多分、男のほうが言った。

 すばるは、「かまうな! 殺すぞ!」と言いたかったのだが、舌が回らないで言葉にならないまま出た。

 そこですばるの意識は途切れる。そして気がつくと、誰かもわからない人間の家の暖かい布団の中にいたのだ。戦いの日々の中、一度も触れたことがない平和なぬくもり。

干された布団のひだまりのにおい。台所から聞こえる、誰かが誰かのために料理を作る音。

こんなものを知らない。いらない。それなのに、なぜか落ち着いた。

 そして、その日から、すばるの人間界での暮らしが始まることになった。


 家に帰ったすばるは、ずっと閉まっていた空間のひとつを開けた。

 そこには、あゆの知らないすばるの三年間の証が眠っていた。

 何十枚もの写真が出てきた。そのどれもにすばるの姿が写っている。

 不機嫌そうにそっぽを向いているのもいくつかあるが、今のすばるにはどれも幸せそうに見える。他の人が見たら、あゆの両親といるすばるは家族に見えるだろう。

自分はあゆから三年分の幸せを奪ってきたのかもしれない、とすばるは思う。

 謝っても謝りきれないことがたくさんある。それは、写真の数よりも多いかもしれない。

すばるは、幸福そうに寄りそって笑う夫婦の写った写真を見つめた。

ずっと、すばるは、あゆの家にいたとき、部外者の自分を感じていた。そのせいか、二人が自分を本当の子どものように接してくれていても、自分は家族になりきれなかった。

 写真の山の下からは、古い新聞の記事が出てきた。日付は十年前のまま時を止めたように残り、見出しは、事件の悲惨さを思わせた。

 あゆが生まれた時は本当にうれしかった。まるで、妹ができたような気がした。だが、すばるはあくまで部外者だった。あゆが生まれてからは、さらにそれを感じるようになっていった。だから、この事件は起きたのかもしれない。

「ごめんなさい…俺は…」

 記事の上に一粒の涙が落ちた。




 昼食の時間、あゆとまこは学校の中庭にいた。

 二人はベンチに座って、弁当を膝の上で広げていた。

「この間久しぶりに行ったら、もう売り切れててさー」

 そこまで言って、まこはあゆが話を聞いていないことに気づいた。

 あゆは箸を置いたまま、中庭の金木犀をぼんやり見ている。

「どうしたの、あゆ」

 まこが心配そうに聞いた。

「…最近のすばるって変だよね」

 あゆが言うと、まこは顔をしかめた。

「あいつの名前出さないでよ、あゆってば。せっかくのお昼なんだから」

「だって・・・」

「西之森って、あゆの前ではいい子ぶってただけじゃない? 本当はもっと性格がゆがんでたんだよ。あゆや浅野くんをいじめて!」

 まこの手が何も入っていない割り箸の紙の袋をくしゃっと握りつぶした。

「もういいよ。楽しい話しよう、ね?」

 怒りをこらえて笑おうとするまこにあゆは黙ってうなずくしかなかった。

 空は秋晴れだ。雲ひとつない。だが、それが今のあゆには憎らしくさえ感じられた。

 あゆの気持ちは晴れてなどいないのに。


「あ~ゆちゃんいっしょにあそぼーよー」

 あゆを校門で待っていたのはゴリラに似た男子、森田だった。

「またあんたか」

 こりない森田を見て、まこがつぶやく。

 森田は急にきょろきょろと当たりを見回し始めた。

「…すばるならいないわよ」

 あゆが言った。

「あ、そ、そう?」

 森田は明らかにほっと胸をなでおろした。

 すばるを警戒していたらしい。

「それじゃ、あゆちゃんいっしょに…」

 言いかけた森田の腕を誰かがつかんだ。

 まこだった。

「あんたもこりないわねーっ!」

「う、うるせーな!」

 森田が怒鳴ってまこにつかみかかろうとした。

「うるさいのはあんたよ!」

 あゆは叫んでいた。

 森田とまこが仰天してあゆを見ている。

「行こう、まこちゃん」

 まこの腕をとるとあゆは足早に歩き始めた。

「ど、どうしたの、あゆ……」

 戸惑いながらまこが聞いた。しかし、あゆは答えなかった。

 しばらく、二人は無言で歩いていた。

「…なんで来ないのよ、すばるのやつ…!」

 校門が見えなくなった頃に唐突にあゆが言った。

「え?」

 まこは唖然としてあゆを見た。

「だって、いつもはすばるが絶対に来るのにおかしいじゃない!」

「…そんなことで怒ってるの?」

「だって、バカなんだもん、あいつ」

 あゆが制服の袖で顔をぬぐった。

「がまんしなくていいんだよ。はっきり言ったらいいよ、本人に」

 まこがやさしく言った。

「まこちゃ…うっ……」

 夕焼けが目の中で揺れる。

 涙の中で景色がにじんで見えた。

それは、あゆにとっては憎らしいほどにきれいだった。

 

 まこと別れた後、あゆはすばるの家に行った。

 玄関の前でチャイムを押そうかと戸惑っていると、ドアが開いた。

 すばるが立っていた。

「上がれよ」


 あゆはすばるの家に入るのは初めてだった。

 いつも、すばるは勝手にあゆの家に来るのに自分の家には決して入れなかったからだ。

「何…ここ」

 足を踏み入れたあゆは驚いた。

 玄関までは普通の家だったのが、居間に入った途端に様変わりしていた。

 あゆの横を小惑星や銀河が通り過ぎていく。それは、異空間だった。部屋がひとつの宇宙を作っている。

「異界の風景に似せて作った空間だ」

 家に入ってから初めてすばるが口を利いた。

「せ…説明が足りないわよ…何言って…」

「これが何だかわかるか?」

 すばるが取り出したもの。それは破られたはずの数学のノートだった。

「え、え? 本物?」

 それはすばるの手を離れて浮かぶ。あゆが指先でかるく触れるとそれはぱらぱらと粉砕して銀色の粉になって舞い、それは宇宙の星となっていく。

「少しは分かったか?」

 すばるが手のひらを向けると、ノートはすばるの手の中でもとに戻った。

「どういうこと……余計にわかんないよ!」

「俺は人間じゃないんだ」

 あゆを真っ直ぐに見てすばるが言った。

「冗談でしょ? だって信じられない…」

 戸惑ったようにあゆはすばるから目をそらした。

「信じたくないならそれでもいい。俺は、ずっとおまえを騙してきた。信じてくれなんて言わない。ただ、聞いてほしいんだ。俺の作った物語だと思ってもいい」

 そう言って、すばるは語り出した。

「俺は影の世界の人間で、影人なんだ。俺が助けられたときはまだあゆは生まれていなくて……」

「え?」

 あゆは耳を疑った。

「お前は覚えてないだろうけど、あゆが生まれる前から、俺はあゆの家にいたんだ」

「そんなはずないよ! だってあたしとすばるは同い年…」

「俺は影人だから人間より、体が成長するのが遅いんだ」

「うそ…!」

「証拠もある」

 そう言ってすばるが見せたのは写真だった。

 写っているのは、あゆの両親と赤ん坊。

 あゆは小さかったので、早くに死んだ両親の顔を覚えていなかったが、写真で見て知っていた。赤ん坊は自分だろう。そして、両親のうしろに男の子が写っていた。半分は母親の後ろに隠れているが、よくすばるに似ていた。

「これさ、俺が写りたくないって言ってんのに、撮られた写真でさ。半分隠れてるのはそのせいなんだよ」

 すばるが説明した。

「俺はこっち……人間界に逃げ込んだときにこの二人に助けられた。影の国の権力争いで、瀕死になっていたところを拾ってくれてさ。いつのまにか、そのまま居ついちまった」

 すばるは苦笑した。

「あの人たち、本気で馬鹿なんじゃないかと思うくらいお人よしでさ。自分たちに子どもが生まれないかもしれないからって、本気で俺を養子にしようとしてたんだぜ。笑えるよな。でも、そのうちにあゆが生まれてさ」

(お兄ちゃんだな、すばる)

すばるの脳裏にあゆの父の声がよみがえる。もういないやさしい人の声。

「そんな風に四人で暮らしてたんだぜ。毎日ケンカしたり文句言いながら三年も……」

 だけど、と話は続く。

「あゆが二歳になってすぐに、旅行へ行くことになったんだ。でも、俺は……」


『旅行?』

『うん。すばるも行こうよ。楽しいよ?』

 あゆの父が言う。

『なんで俺が行かなくちゃいけないんだよ。そんなん家族で行けよ』

『ほら、あゆちゃんもすばるくんと行きたいよーって言ってるよ』

 あゆの母が言った。

『う~』

 小さなあゆがすばるの顔を見つめてくる。

『と、とにかく俺は行かないからなっ!』


「……家族旅行だから、俺は行っちゃいけないような気がした。結局俺は家で留守番することにした」

 そして、それが運命を変えてしまった。

旅行の最中に、家族は事故にあったのだ。

助かったのは、小さなあゆだけ。両親は病院に搬送されたが手遅れだった。

「ここにその事故の記事がある」

 すばるが古びた新聞記事を見せた。十年前の日付が、忘れてはならないことのようにはっきりと今も印字されている。

「カーブ曲がりきれず転落 楽しいはずの家族旅行が悲劇に」とそこには書いてあった。

あゆは黙って、涙を服の袖でぬぐった。

「今まで、あゆを見守ることが俺の二人への償いのつもりだった。お前の親にすごく感謝してる。今の俺がいるのも彼らのおかげだ。それなのに俺は……事故のとき何もできなかった」

 謝ることも、礼を言うこともできなかった。

 すばるはうつむいた。思いがのどに詰まって息ができなくなりそうだった。

「あゆ、俺はどうしたらいい…? どうしたら償える…?」

 ずっと胸に秘めてきたことが吐き出される。

 この十年間、あゆを見守りながらあゆの隣にいながら、ずっと聞くことのできなかった問いだった。

「答えてくれよ…!」

 すばるがあゆを揺さぶった。乱れて落ちていた髪が顔からはなれて、あゆの顔が見えた。すばるはハッとした。あゆの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「わ、わ、私には分からない……っ!」

 あゆはしゃくり上げた。

「私には分からないよ! だって、お父さんとお母さんはいないんだから…!」

 すばるは何も言えずに手を放した。そして、床に手をついた。

「ごめん……あゆ…」

 すばるは謝るしかなかった。他に何をしたらいいのか分からなかった。

「やめてよ! そんなこと聞きたくない! ……私は償いなんて、いらないっ!」

 叫ぶとあゆは家を飛び出した。

 すばるはあゆを追いかけようとしたが、体が重く、素早く動けなかった。

「これでいいんですよ」

 すばるが顔を上げると、あゆが出て行ったばかりの扉の前に浅野が立っていた。

「彼女は『いらない』とはっきりおっしゃっていたではありませんか。あゆさんはあなたを必要としていないのですよ」

 浅野が言った。

「…これでいいのか……」

 疲れきった顔ですばるが言った。

「そうです。もうここにはあなたの居場所はないんです」

「……そうか」

「心を決めましたか?」

 ああ、とかすれた声ですばるはつぶやいた。

「影法師になるよ」

「私がお力になりましょう」

 浅野がひざまずいた。

「影の国ですぐにでも戴冠式を行いましょう。国中の者があなたを祝福をするでしょう」

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