1 すばると影

「おーい、あーゆっ!」

 変わらない幼馴染の声にあゆは振り向いた。

 ランドセルが肩掛けのスクールバッグになっても、すばるのあゆを呼ぶ声は変わらない。

 中学生となる今、身長はあゆの方がすばるを追い越している。

 よお、とすばるがジャンプしてチョップがあゆのお団子ヘアーに当たった。

あゆは思わず悲鳴を上げる。

「ちょっと、すばるっ! この髪型にするのに何分かかったと思ってんのよ!」

「何分?」

 すばるはとぼけた声を出した。

「三十分よ、三十分!」

「あ、そうなの? ご苦労さーん」

「すばる~!」

あゆの怒鳴り声に驚いたカラスが電線の上に避難した。

「もう、やんなっちゃうなあ。中学まであんたと一緒なんてさ」

「おかげで淋しくないだろ?」

「…今の本気で言った?」

「言った」

 すばるはケロリとしている。

「なあ、最近は困ってる事とかない?」

「はあ?」

 あゆは変な顔をしてすばるを見た。

「…あ~ホラ、誰かにいじめられたとか」

「ないわよ」

 言ってからあゆは、そういえば、と続けた。

「この前、変な人にからまれたのよねぇ。他校の人でまこちゃんといたら話しかけてきて」

「ああ、ゴリラか」

 すばるの言葉にあゆが噴き出した。

「ご、ゴリラってあんた…。確かに似てたかもしれないけど。…あれ、なんで知ってるのよ」

ギクリとすばるの体が一瞬揺れた。

「…や~、前にケンカしたことあって」

「ケンカぁ? あんた、他校の人にケンカ売って回ってるの?」

「売ってるわけじゃないって、人聞き悪いなあ。オレのケンカには理由があるんだよ!」

「どーせ、たいした理由じゃないくせに」

 冷めたあゆの視線にすばるは言葉に詰まる。

「だけど、どうしてそのゴリラさんだと分かったのかしら?」

「え…っとぉ…」

 すばるの目が空中を泳いだ。

 それを横目で確認したあゆは静かに肩を落とした。

「また隠し事ね。すばるってあたしのことは何でも聞くくせに自分のことは話さないもんね。いつかすばるの正体を暴いてみたいものだわ」

 その時、すばるの瞳がわずかにゆれたが、あゆはそのことに気付かなかった。

「へっへーん。暴けるものなら暴いてみな!」

「すばるーっ!」

 登校中の生徒たちの間を二人は駆け抜けていった。


 昼下がりの休み時間、教室は賑やかだった。

男子たちはボールを投げ合って遊んでいた。何人かはロッカーの上にあがって、ボールをぶつけ合いはやし立てる。

この中心となって騒いでいるのが、すばると仲間の吉田だった。

教室の隅には、うんざりした女子たちが巻き込まれないように身を寄せ合っていた。

「おりゃ、すばる!」

 ボールを持った吉田がすばるを狙う。

「当たんないもんねー」

 すばるは、おさるのポーズでボールを避けた。

 男子の爆笑がわき起こる。

おさるのポーズのまますばるは、ボールの行方を見て硬直する。

ちょうどその時、トイレ休憩に行っていたあゆと友達のまこは教室に入ってくるところだった。そして、避けられたボールは当然のように、入ってきたあゆの顔面に吸い寄せられ、ヒットした。

「げ」

 笑っていた男子の顔が凍りつく。

 ボールは恐ろしく静かに落ちた。

「あ…あゆ?」

 あゆは軽く額を押さえている。あゆの眼光が素早くすばるを捕らえた。

「すばる~っ! またあんたね?」

「ち、違うって。投げたのは吉田だ!」

 慌てたようにすばるが言い訳をした。

「こらぁ!」

 教室に盛大に声がとどろいた。ただし、怒鳴ったのはあゆではない。

隣にいたあゆの友人のまこだった。

ヒッ、と男子の誰もがひいた。

「バカ男子! やるんなら外でやれ!」

 男子が流れ出ていくのをあゆは放心して見送った。

 そのあと、まこは一緒に見送っているすばるを発見した。

「ほらぁ、西之森すばる、あんたも行け!」

「は、はいぃっ!」

 すばるは急いで教室を出て行った。


まこは、男子うちで恐れられている女子だ。何よりも怒ると迫力がある。本名は岡崎まこと。学校では、いつもあゆと一緒にいる。

 ひとりで廊下を歩きながらすばるは呟く。

「なぁんか、あの子怖いよな。敵意を感じるって言うか……ん?」

 すばるは不意に立ち止まった。響くような声が近づいてくる。

〈オイデ…オイデ…〉

 廊下の小さな影という影から、黒い煙が立ち上がる。それは、恐ろしい速さで集結し、二つの手のついた山となる。

 闇だ。

 すばるは一人顔をしかめた。



 教室ではうるさい男子がいなくなって、女子たちが喜んでいた。

「ありがとう、まこちゃん! さっきの一喝、胸がすーっとした」

「まかせておいてよ。あたし、大声で怒鳴るの得意だから。ああいう男子ってムカつく」

 にっこりと笑ってまこが言った。

「でもさ、まこちゃんて、すばるには特にきついよね」

 あゆが言うと、まこは鼻を鳴らした。

「まあね。あたしはあいつ嫌いだから」

「え。そうなんだ。何となく分かってたけど」

 そこに、男子の声が混じった。

「すばるさんの話ですか? 僕も入れてください」

「浅野くん」

 浅野は、繊細な顔立ちと親しみやすい穏やかな性格で、女子には密かに人気がある男子だ。男子の悪ふざけに交じらないので、まこにも追い出されずに教室に残っていた。

「僕は体が弱いし、おとなしいほうだから快活なすばるさんのような人には憧れるんです」

「ふーん」

 すばるに憧れるという言葉に理解できない様子でまこが言った。

「浅野君が西之森みたいになったら、あたし嫌だよ。クラスの男子の中で一番あんたがまともなんだから」

「あはは」

 浅野が半分困りながら、半分面白そうに笑った。



〈オイデ…オイデ…こっちへオイデ…〉

 ずずっと音を立てて闇が盛り上がり、すばるを見下ろした。そして、その真っ暗な闇が大口を広げてすばるを呑みこむ。

 パシッ! 

闇が強い衝撃に弾かれて、のけ反る。

すばるは闇を払うために上げた片手を下ろして、闇を見上げた。

「いい加減についてこないでよ。もう何回も言ってるじゃん。俺はそっちには行かないって」

 もぞもぞと闇が身動きする。

〈コッチに来れバ…影ノ王になれるのニ……?〉

「興味ないんだってば」

〈もったいナイ…もったいナイ…はおまえを次の候補にしてるのニ……〉

 とは、影の世界での最高指揮官のことだ。影の世界の影人は、戦を好み常に最強の者を支配者にしていた。影の軍勢を束ねる。

 異界の中で影の軍勢ほどの戦力を持つ者はいないとされている。

そしてすばるは人間ではなかった。影の国の人間であるだ。

 過去に影の世界で最強とわれたすばるは、次期影法師にと推薦を受けていたことがあった。

「そんなの、もう終わった話だよ」

 すばるが捨て去るように言った。

〈…アキラメナイ……影法師アキラメナイ…………!〉

 闇は影に戻っていった。



 放課後、すばるが帰り支度をしていると、そこに浅野がやってきた。

「すばるさん、ちょっと話があるんですけどいいですか?」

 気さくに浅野が話しかけた。

「悪いけど、今急いでんだ。明日でも聞くよ。じゃな」

 すばるは浅野を交わすと、さっさと教室を出て行った。



「あーゆちゃん、待ってたんだよ~」

 巨体に阻まれてあゆは立ち止まった。

 他校の制服の男子があゆを待ち伏せしていた。

今朝すばるがゴリラと呼んでいた男子だ。

 たしかにゴリラによく似ている。体格もそうだがなにより顔つきが豪快だった。耳にはごつい銀色のピアスを三つ四つ付けていた。

「あなたしつこいわよ、しっしっ。行こう、あゆ」

 まこが男子を追い払う仕草をして、あゆを引っぱって行こうとする。

 その時男子があゆの腕をつかんだ。

 まこがそれを見て、目を吊り上げる。

「ちょっと、手を離しなさいよゴリラ」

 まこがはっきりと言い放つ。

「ご、ゴリラって…」

 あまりにもはっきりと言い放った親友にあゆは苦笑した。

「うるせーぞ。お前は引っ込んでろ」

 男子が大きな手でまこをはたいて跳ね除ける。

 まこはあゆから離れ、肘の方から花壇の上に倒れこんだ。

「ちょっと、わたしの友達になにするのっ!」

 体をすぐに起こせずに悔しそうに顔をふせるまこを見て、あゆがたまらずに叫んだ。

「あゆちゃんが一緒に来てくれないからじゃん。ねぇ、そんなのほっといて俺たちと遊びに行こうよ」

「行くわけ…」

あゆが否定の言葉を言いかけたその時、からかうような声がした。

「ゴ~リラちゃん♪」

 いつのまにか、男子の後ろに一回り以上小さな人影があった。

「オレのこと完全に無視しちゃってくれてるけど、どこに目ェつけてんのかなぁ?」

 すばるだった。

 すばるを見た瞬間、あゆはほっとして体の力が抜けた。手のこぶしをゆるめる。

「げっ! すばるっ!」

 男子があゆから一歩はなれてすばるの方を向く。男子の顔は天敵の登場に引きつっていた。

「俺はゴリラじゃなくて、森田だ!」

 けけけっと妖怪のようにすばるが笑った。

「森田でもゴリラでもどっちでもいいよ。それよりこの前さー、あんだけ忠告しておいたのにまだ足んないの? オレ言ったよね?」

 すばるが森田に詰め寄った。

「あゆに近づくな、って」

 すばるの膝がゴリラの腹に食い込んだ。

「う…ぐ……、くそうっ」

 森田は腹をかかえながら言うと、置いてあったバイクに乗って去って行った。

「逃げやがった」

すばるは舌打ちした。

「逃げやがった、じゃないよ! ケンカはだめだよっ」

 あゆがすばるの頬をつねった。

 だけどその手は恐怖からの安堵でまだ震えていた。 

「だってよぉ、ああでもしなきゃ、あゆだって断れないだろ」

 あゆにつねられて口もとが変形したすばるはもがもがと答えた。

「そ、そうかもしれないけど…」

 あゆが手を離すと、すばるは痛そうに頬をさすった。

「お前、断るの苦手だもんな。オレ以外の人のは」

「べ…べつに、すばるの手を借りなくても平気だったもん」

「へー強がっちゃってさ」

「ふん、べ、別に強がってないし! あっ、まこちゃん大丈夫?」

あゆは花壇の淵に呆然として座っていたまこを助け起こした。

「怪我はない?」

「うん、平気だよ。何でもない」

まこは痛む腕のことは言わずにそう答える。あゆを自分が助けられなかったことが何より辛い。

自分は何もできなかった。しかも西乃森に助けられるなんて。

まこの顔が熱くなった。




その夜。あゆの家のチャイムが元気よく軽く鳴った。

「はーい」

 あゆが扉を開けると、立っていたのはすばるだった。小脇に大きな風呂敷包みを抱えている。

「はーい、やって来ましたすばるくんでーす!」

 ふざけたように手を上げてすばるが言った。

「…何? テンション高いね」

 出てきたあゆは少しあきれながら出迎えた。

「うん、鍋セット持ってきたんだ」

 すばるが風呂敷包みを開いて中を見せた。どうやって持ってきたのか、包みの中には、鍋料理の具材と土鍋とコンロがずっしりと入っていた。

「今日、おじさんとおばさんいないんだろ? 夕飯困ってると思って」

「平気だよ。もうご飯も作ってるし…」

「オレの分もあるんだっ♪ いっしょに食べようぜ」

 とっとことあゆの隣をすり抜けて、すばるは家の中に上がっていく。

「…く、靴くらい揃えなさいよー」

 どうして今日は一人だってわかったんだろう。変なの。

 あゆは目じりをぬぐうと、すばるを追った。


「何、これは」

 風呂敷の中から転がり出てきた食材を見てあゆが聞いた。

「うまそうだったから持ってきてみたんだー」

 朗らかにすばるが言った。

 あゆは呆れてしまった。

 高級食材から鍋の具材ではないものまで山のように風呂敷から食材が出てきた。

 肉と野菜をメインにカニに鯛にカキ、湯豆腐…その中になぜか冷凍食品のたこ焼きの袋が混ざっていた。

「何でもおいしそうなものをつっこめばいいってもんじゃないのよ!」

 鍋をコンロにかけて、鍋がぐつぐつとしてきたところで、鍋の中にたこ焼きが浮いているのをあゆは見つけた。おたまの中でたこ焼きがころんと転がる。

「おいしくなさそう……」

「まあ、いいじゃん」

すばるはまったく気にしないで、箸で鍋からカニを一匹拾い上げる。

「なあ、これどうやって食べんの? 硬いけど」

 殻のままのカニにすばるが噛み付いていた。

「痛いでしょ、ばか。やめなさい。食べ方も知らないのに持ってきたの?」

「うん。あゆが前に好きだって言ってたから」

「あのねえ、こうやって食べるの」

 あゆが手でカニを割ってやる。

 すばるはカニの身を初めて食べて満足そうに笑った。

「おいしいな!」

「うん。味はねー」

 鍋を食べたあとは二人でお笑い番組のビデオを見て笑い転げた。

 ビデオが終わると、あゆが見ているドラマを見ながら、食器を洗って、後片付けをした。

 それが済んだ頃にすばるが時計を見ると、十時を指していた。23456789012

「そろそろ帰るわ。おじさんたちも帰ってくるだろ」

 ソファに座ってくつろいでいたすばるが立ち上がった。

「今日はありがとうね」

 あゆは、洗った鍋とコンロを風呂敷に包み直して渡した。

「うん。んじゃ、また明日な。戸締りちゃんとしろよ」

「言われなくても分かってますっ。あんたこそ気をつけて帰りなさいよ」

「ハーイ」

 すばるは手を上げて小さな子どものように返事した。



 あゆの家から出てすぐ、すばるはある気配がするのに気がついた。

 ……闇の気配だ。

すばるは静かに風呂敷包みを地面に置いた。

「今日は二度目だよ? そんなにオレを怒らせたいの?」

〈……………………〉

 すばるは闇の中に紛れるようにして誰かがいるのが分かった。

「誰だ? ……影の世界の使者…とか?」

 靴音がして、闇の中から足が出てきた。

「まあ、そんなところです。流石は勘がいいですね、すばるさん」

 出てきたのは浅野だった。だが、いつもと雰囲気が違う。脇には、小ぶりでトカゲのような顔つきの影の世界の大臣を従えている。

「浅野! お前、やっぱり人間じゃなかったのか!」

「…ばれてましたか」

 動揺することもなく浅野が答えた。

「隠しきれないからね。影の人間の独特のオーラは」

 ぱちぱちと浅野が拍手した。

「流石はすばる様です。あなたは影の国でいつも上位に挙げられる戦士だったと聞いていますからね。私は影法師に任を受けて参りました。すばるさまを影法師になるよう勧誘するために。影の世界に帰る気はありませんか?」

 すばるは鼻先で笑った。

「全然ないよ。帰りたいなら一人で帰ってよ」

 浅野を追っ払うように、すばるは手を振った。

「影法師はすでに冠を捨てました」

 影の大臣が言った。

「なに?」

「影の者たちの過半数があなたを推薦しております」

「そりゃ初耳だ。だから最近しつこいんだな。でも、俺は影法師にはならないよ。人間界に来てから、言い続けてきたんだから」

「知っています。ですから、私のような『ゆがみびと』が送られてきたのですよ」

 浅野が言った。

「ゆがみびと…だと…?」

すばるの表情が変わった。ゆがみびとは異界で影人の天敵とされてきた者だった。

「ゆがみびとは世界の構成バランスが変わるたびに生まれます。特性は道連れの力」

「どんなものでも取り込めば、無に帰せるって力だろ? そのかわり自分も消えちまうけどな」

「ええ。でも私は構いませんよ。影の世界のためですから」

「帰らなかったら、強制的にオレを消すっていうのか? お前に出来るとは思えないけど」

「それも考えましたけどね。その方法だと、影の軍勢をいくら放っても無駄だと思うので止めました」

「そりゃ利口だな」

 すばるが笑った。

「飯塚あゆ」

 その名前を聞いてすばるは硬直した。

「十年前に実の両親を亡くして、父方の叔父叔母夫婦に引き取られる。……あなたにとって彼女は何なんです?」

「…あゆには手をだすな」

 脅しの文句のはずが、すばるの声はわずかに震えていた。

 浅野はふっと笑った。

「人間界に来てからのあなたは一時も彼女のそばを離れなかった。彼女を守っていたそうですね? なぜですか?」

「…このオレがそんなにホイホイ答えるとでも思ってんのか?」

 すばるが手のひらを浅野に向けた。

「残念だけど、お前にはここで消えてもらう」

 その手から衝撃波が放たれる。

 浅野は後方に吹っ飛んで消え去った。

 周囲にあった闇は衝撃波に削られていく。

〈…アアア……ア……!〉

 影の大臣は恐れをなしたのか、すでにいなくなっていた。

「…ゆがみびとか。聞いていたより呆気なかったな」

闇が消失するのを見届けてから、すばるは背後を振り返った。電柱の陰にいる影の住人たちに気づいていた。

「今、傍観している奴。影の世界から視聴してる奴! また、今のようなことがあったら理由も聞かずに消すからな。覚えとけ!」

 電柱の裏ではカタカタと影人たちが震え上がっていた。

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