f−4 初心者時代
f−4/1 新生活
翌日から、東京での私の新たな生活が始まった。
ズブの素人である私が、この世界でどこまでやっていけるのか分からないが、せっかく山田先生が拾ってくれたのだ。やれるだけのことはやろう。
ダメと思ったら、諦めて実家に帰ればいいじゃないかと最初は思ったが、悲しいかな私の中の九州人の熱い血が、そんな身勝手を許してくれそうにはなかった。
何にせよ、今は写真家を目指して頑張る以外に、私にできることはない。
「君は初心者なんだから、まずは基礎から覚えてもらうよ」
まったくの初心者である私に、先生は写真について、あれこれと教えてくれた。
だが、絞りは? シャッタースピードは?
レンズの明るさとか言われても、本当に何がなにやらさっぱり分からない。
さらにはフィルムの感度とか説明されても、そもそもカメラの構造や、撮影のメカニズムさえも知らない私にとっては、数学か物理の授業を受けているみたいだ。
それでもやっているうちに、こんな私でも徐々に分かるようになっていった。
スタジオでリンゴやバナナの撮影で練習をしながら、私も少しずつではあるが、写真技術を会得していった。
「つまり、レンズを通った光がフィルムに感光し、映像を焼き付ける。絞りはその光の量を調整させるのが主な役目だ。さらにはピントが合う被写界深度を決める役目もあるが、まあそっちはもう少し基礎を覚えてからにしよう。さて、次は接写撮影をやるよ。その棚の上の段にあるマクロレンズを取ってくれ。ああ、それだそれだ」
言われ、私は何気なくその特殊なレンズを先生に手渡した。
それが1本、数十万円もするのだと後から聞いて、手が震えたりもした。
やっぱりこの世界には、まだまだ分からないことがたくさんあるようだ。
「もしもし、あの…………明子?」
『き、恭子っ? 恭子なのっ?!』
アシスタントとしての仕事も、私自身の生活も落ち着き安定した頃、私は久しぶりに故郷の親友に長距離電話をかけた。
最初は実家にかけようかとも思ったけど、電話に父が出ればいいが、もしも母が出たら、どう対応したらいいか分からない。
やはり腹を割って話せる相手と言えば、親友の彼女しかいないのだが、あまりゆっくりと身の上話しをしている余裕はなかった。
何せ東京から熊本だ。公衆電話に表示されるテレホンカードの残量カウンターが、見る見る減っていく。
「ごめんね。迷惑かけちゃったかな?」
『迷惑かけたじゃないわよっ。突然いなくなって、みんな心配してたんだからねっ!!』
電話の向こうから、明子が激高する声が聞こえる。
だが、その声の中にも多少の安堵感のようなものも感じられたのは、彼女が私のことを本当に心配してくれていたという証拠だろう。
今さらながら私は、親友のありがたさを感じた。
『で、今どこにいるの? 帰って来れる? もしかして、誰かに誘拐されたとか、監禁されているとか、そういうんじゃないの?』
「ううん、違うよ。ホント、ただの家出だから、そんなに心配しないで。今、いる所は言えないけど、元気にやってるから」
今は東京で仕事をしている、なんて言ったら、心配性の父が東京のどことも分からないまま飛んでくるに違いない。
『恭子のお父さんもお母さんも、すごく心配してたよ。早く帰って来なよぉ』
「う、うん。そのうち、落ち着いたらね」
あの母が私を心配していた?
まさか、そんなことはありえない。
明子はきっと、私に帰る気を起こさせるように、ウソを言っているんだ。
『佐藤君も、恭子が急にいなくなったんで、すごく心配してたんだよ。ホラ、あの日はデートの約束してたじゃない。なのに来ないから、彼、すっかり恭子に嫌われたんじゃないか、怒るようなこと、したんじゃないかって、顔を真っ青にしてたよ』
「そう………大介が………………」
彼にもとんだ迷惑をかけてしまった。
せっかくいい仲になっていたのに、きっともう私のことなんか忘れて、新しい彼女を見つけているものと思っていたのだが。
「ホント、ごめんね明子。また近いうちに電話するから。だから私から電話あったってこと、お父さんや大介にも伝えておいてね」
『分かった。でも、必ず帰って来なよ。みんな待ってるから』
「うん……………………」
ここでテレホンカードの残量がゼロになり、通話は強制的に途絶えた。
彼女とはまだまだ話しをしていたかったが、ホームシックになりそうだったので、通話が切れてむしろよかったのかもしれない。
少し後ろ髪を引かれる思いで、私はスタジオに戻った。
その後、私も少しずつ仕事を覚え、夏頃にはそれなりに、アシスタントとして活躍するようになっていた。まだまだ分からない事も多いが、一通りの撮影技術から現像、プリントまでの作業や、様々な写真用語も覚えた。
現代ならデジカメのメモリーをプリンターで、と簡単なのだが、フィルム主流の当時では、様々な機械や薬剤を使ったりと大変なのである。
とは言え私は今、この仕事をすることになって、本当によかったと思っている。
仕事は楽しいし、色々な場所に撮影に出かけたり、ときにはシャッターを押ささせてもらったこともあった。
こんなに充実した毎日が送れるなんて、何年ぶりのことだろう?
山田先生との日々は、まるで姉と過ごしていた頃のように楽しく充実していた。
ずっとこのまま、東京で暮らしていこうと、私は思うようになっていた。
そして3ヶ月、すっかり東京での暮らしにも慣れ、仕事も板につきだした私は、ようやく自分の給料でカメラを買うことにした。
これで私もようやく写真家の仲間入り、と言うより、写真家のアシスタントをしていながら、自分のカメラもないのは、どうにも不格好に思えたのが本音かもしれない。
我愛機は、ミノルタの35㎜一眼、αシリーズ。
交換用レンズは28㎜〜80㎜の純正品だ。
普通ならこれ1本で、殆どの撮影に困らない。
他にも望遠レンズが欲しかったが、やはり高価だったので今回は諦めた。
ストロボは純正ではなく電気メーカーの物を選んだ。
カメラとの相性がちょっと心配だったが、値段の安さと、何より見た目が大きく
て、プロっぽく見えるのが嬉しい。
少し前までは、その日の食事にも困窮していた私が、そんな見栄を張れるまでになろうとは?
自分のカメラを手にした私は、休みには都内を被写体を探して、撮りまくった。
道端で昼寝をしている猫や、散歩中の犬。
レンズの倍率が低くてアップで撮れないが、餌をついばむ公園の雀や鳩は、意外に面白い写真が撮れる。
他には動物以外に、ビルや電車や自動車、浅草や巣鴨、新宿に渋谷に、今ではすっかり雰囲気の変わってしまった秋葉原などの街並を撮り、それを後で先生に見てもらった。
「まあ腕はよくなってきたが、構図がイマイチ平凡だな。もう少し工夫をしてみたまえ」
「はいっ」
撮り方については、先生は具体的な説明はしない人だった。
教えられたのは、最低限の基礎知識と技術だけである。
以前も先生が言ってはいたが、いい写真を撮るのに大事なのは、知識でも技術でもなく、個人のセンスだ。
大勢いるプロ達の作品が、どれも個性的なのはそのためだろう。
広角レンズしか使わない人、街並しか撮らない人、動物の顔のアップばかり撮る人等々、みんな面白い自分なりのスタイルがある。
だから、こうしたらいい、ああしたらいいといった、決まった形式は存在しないというのが、先生の教えだ。
「とにかく今は、撮ることを楽しみなさい。そして、どうしたらもっと奇麗に撮れるか自分で考え、試してみるんだ。他の人の撮り方を参考にするのもいい。そして自分自身の写真の撮り方を見つけなさい。」
その言葉は私の中で格言となり、今では私からサワちゃんやハルちゃん達へ送る、言葉へとなっている。
私の写真家修業の日々も、すでに半年。
生活の方も、少し余裕ができてきたが、まだ実家に顔を出す勇気はなかった。
帰省どころか、仕事で九州方面に向かうことさえ、何故か躊躇いを感じた。
「そう、みんな元気でやってるのね?」
『うん、恭子のお父さんも、あんたが無事なの知って、泣いて喜んでたよ』
「そりゃまた、大袈裟なぁ〜?」
私は時々、熊本の明子に電話をして、実家の様子を聞いていた。
たまには、直接家にも電話しようかとも思ったが、やはりイマイチ決心がつかない。そんなわけで、いつも連絡相手は明子ばかりになってしまっていた。
『佐藤君にも、あんたの無事を連絡しといてあげたから。彼、福岡に行っても、ずっとあんたのことを心配してたそうだよ』
「そうなんだ。うん、ありがとう」
『ありがとうじゃないわよ。ホント、あんたってば、罪な女だねぇ』
「あはははは」
『それはそうと、いつになったら、こっちに帰って来れるの? あんたのお母さんも心配してるよ』
「…………………そう………………」
明子はまた、そんなウソを言った。
母は、私の事など何とも思っていないに決まっているのに。
『恭子?』
「あっ、ゴ、ゴメンゴメン。ちょっと考え事してたんだぁ。今はちょっと忙しいから、そのうちに帰るって、父さんにも言っといて。お願い。あ、や、やばい。もう切るね」
テレホンカードの残量が切れたフリをして、私は慌てて受話器を置いた。
その後しばらくの間、私は明子にも電話をかけることができなかった。
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