f−3/2 ホームレス生活から職探し
その後、私は都内を5日ほどさ迷った。
今後、この東京でどのように生き抜いていけばいいのか分からず、その日その日を、何とか過ごしていたが、今では当時のことは、ただ惨めだった思い出しか記憶にない。
空腹を安い菓子パンでしのぎ、夜は駅や公園のトイレで一夜を明かす。
眠らない街とはいえ、住む場所もお金もない私には、ただのコンクリートジャングルでしかなかった。
「こんなとこに来て、私に何ができると思ってたのよ?」
自分で自分に、自問自答する。
だが、答えなど出ようわけはない。
情けなくて、そして何もできない自分が、腹立たしかった。
「バカだ。大バカ者だ、私は……………」
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
耳障りなその鳴き声が、惨めな私を嘲り笑っているかのように思えた。
宿代わりのトイレの窓から見える星の光までもが、凍てつくように冷たく見える。明日の見えない今の私が置かれた状況が、心まで凍てつかせてしまったかのようだった。
見知らぬ土地で、1人隠れるように暮らす難しさ辛さを、私は痛感した。
(自分1人で、大きくなれたとでも思ってるの?)
家出をしたあの日、母に言われた言葉が、今頃になって骨身に沁みて感じられた。
「ホント、情けない………………………」
その日の夜も、私は涙に頬を濡らして、冷たい便器の上で夜を明かした。
その次の日、あてもなく都内をうろついていてた私の足が、コンビニの公衆電話の前で止まった。
「やっぱり、お父さんに電話して、迎えに来てもらおうかな?」
テレホンカードはないが、念のための食費を差し引いても、2分は話せるくらいの余裕はある。今の状況を話せばきっと……………。
「……………………」
私は受話器を手にしたまま、しばらく動けなかった。
「今さら、何て言って……………………」
そう思うと、どうしても指が動かず、電話のボタンを押すことができなかった。
「明子や大介は、私のこと、心配してくれてるかな?」
(お母さんはどうだろう?)
一瞬そう思ったが、頭の中ですぐにそれを否定した。
母が私を心配するわけがない。
あの人は私が嫌いなんだ。
きっと私がいなくなって喜んでいるに違いない。
母の頭の中には姉さんしかいないのだ。
「ちょっと、姉さんが羨ましいな」
目じりの涙をふいて、私は受話器を戻した。
それからさらに2日後。
いよいよ軍資金が怪しくなりかけた頃、私は空腹をまぎらわしながら、ここ最近寝床にしていた、上野近辺をうろついていた。
この状況が、あと2〜3日続くようなら、万引きか泥棒でもしないことには、私は餓死していたかもしれない。
どうしたものかと、上野公園近くをトボトボと歩いていると、道端に落ちていた新聞の募集広告が目に入った。
『泊り込みのアシスタント募集。未経験者歓迎。年齢・応相談』
それを見た私は、いてもたってもいられなかった。
生きていくにはお金が必要だ。そのためには仕事をしなければならない。
それは分かっていたが、家出人の上に、身元保証人のいない未成年の私では、今まで仕事を見つけることができなかったのである。
だが、もはやそんなことを言っている場合ではない。
ダメかも知れないが、この応募を受けてみようと私は思った。
何より、『泊り込み』の文字が私を引きつけた。
やっと布団の上で寝られるんだ。
「何でもいい。とにかく仕事をしないと」
思わず私はその広告を手に取って、場所を確認した。そんなに遠くではない。
そして何も考えずに、その住所へ走った。
いや、今にして思えば、見えない何かに引き寄せられたのかもしれなかった。
そこは小さなオフィスビルだった。
場所は国道に面していて車の往来は多いが、ビル自体は少し古い4階建て。
1階が広告にあった『フォトスタジオ山田』の店舗兼スタジオで、2階は事務所、3〜4階は貸部屋になっていた。
面接は2階の事務所で行われ、すでに十数人の面接希望者が廊下に並んでいた。
仕事は写真館のアシスタントだ。面接に来ていた他の人達もみんな、少なからず写真に関係した人達っぽい感じがした。
おそらくは学校の写真部出身だとか、アマチュアの写真家や写真関係の仕事の経験者だろう、年齢が十代から三十代とバラバラだ。
ただ、全員が手に手に高級なカメラやレンズ、カメラバッグを携えていた。
中にはお互いのカメラや、自分達で撮影した写真を見せあい、自慢しあっている者もいる。
そこにいる全員が、私とは別世界の人間のように見えた。
「わ、私、ものすごく場違いな所に来てしまったかも……………………」
目に見えないマニア的なオーラに気圧され、思わず額に脂汗が流れた。
一緒にこの場にいるのさえ、ものすごく恥ずかしかった。
アシスタント募集とあったので、てっきり荷物持ちか、それ程度の仕事と思っていたのだが……………………。
「や、やっぱり私の来るべき場所じゃないみたい…………、あ、諦めようかな?」
そう思い、面接が始まる前に私だけ帰ろうとすると、ちょうど階段の手前で、1階から上って来た1人の老人とぶつかってしまった。
「あっ!」
「おや、この間の?」
私とその老人は目が合い、そして同時にそう声を上げた。
その人は、私が東京に来たあの日に、皇居前で会ったおじいさんであった。
まさかこのおじいさんも、面接に来たのかと思っていると、
「せっ…………、先生っ!!」
「は、初めまして山田先生!」
「お願いしますっ!」
と、面接を待っていた希望者達が、一斉に立ちあがっておじいさんに挨拶をした。
「……………………え?」
訳が分からず、私は呆気にとられて呆然としていると、おじいさんは私の肩をポンッ、と叩いて一同を見渡し、
「うん、じゃあ早速面接を始めようか」
言うと、いまだに事情が分かっていない私の背中を押し、事務所の中に全員を促した。
何としたことか、私がただのおじいさんだとばかり思っていた彼は、実は日本で最も高名な写真家であり、プロアマ問わず、全国の写真家達が尊敬するプロカメラマンの、山田陽山先生であった。
主に動物写真を専門とし、今まで数えきれないほどの賞を受賞して、日本のみならず、世界からも注目されている、写真界では神のごとく敬われている、それはそれは偉〜い大先生なのである。
(そ、そう言えば、前にテレビで見たことあるような気が………………………)
今さらながら、それに気付かなかった自分が恥ずかしくって、面接のことなどよりも、この場から逃げ出したい気分だった。
だが、ときすでに遅く、私はすでに面接会場の事務所の中にいた。
私達が通された事務所には、数脚のパイプ椅子があり、面接には出版社の人が2人、面接員として来ていた。
「さて、とりあえず全員の名前でも聞いておこうかな?」
おじいさん、いや、山田先生は、事務所に入るや全員を椅子に座らせて言った。
すると、面接希望者達はみんな、鞄からそれぞれ封筒を取りだすのを見て、私は今さらながら焦った。
履歴書だ。面接には履歴書が必要だということを忘れていた。
もっとも、今の私には履歴書はもちろん、その履歴書に撮って貼る証明写真を、買うだけの余裕すらなかったが。
すると、
「ん、ああ、いいよ。履歴書なんて見るの面倒だから、名前だけ言って」
言う山田先生は、妙に無気力だった。
どちらかと言うと先生は、アシスタントの面接には乗り気ではないようだった。
むしろ、イヤそうに見える。
今、私の目の前にいる山田先生からは、先日、皇居で出会ったときのような温和な雰囲気はまったく感じられず、まるで別の無気力な人のように見えた。
後で知ったのだが、先生の写真撮影に対する信念やこだわりについていけず、今まで何人ものアシスタントが辞めていったらしい。
仕事に関しては一歩も譲らない、一流のプロとしての誇りがそうさせていたのだろう。
だが、彼の作品に社の売り上げがかかっている出版社の人達にしてみれば、年老いた山田先生に、1人で仕事をさせるのが心配だったのだろう、今回の面接は、出版社が無理に推し勧めたものだったのである。
そのため、山田先生は不本意な面接をするしかなかったのだ。
「じゃあ、1人ずつ名前言って。右の人」
山田先生に言われるまま、私から見て7人隣の20歳代の男性が、写真界の大御所を前に緊張の面持ちで、自己紹介を始めた。
「は、初めまして。埼玉から来ました篠田康一と言います。高校で写真部の部長を………………………………」
「ああ、経歴なんかいいから。はい、次」
哀れ、篠田君は満足に自己アピールもできないまま、次の面接希望者にバトンを譲ることとなった。
「都内の葛飾区から来ました遠野誠といいます。ぼ、僕は先生の作品に感動して写真を始めて…………………」
「はい、次」
これもまた、遠野君も山田作品への熱い想いを語る間もなく、次の面接待ちの希望者へ。
「私は………………………」
その後も、次々と腕に覚えのある写真家達の自己紹介も、山田大先生はそれらに一切聞く耳を持つ様子はなかった。
中には、有名カメラメーカー主催の賞を受賞した強者までいたが、当の山田先生は、『それがどうした?』と言った感じで、まったく興味を示してはくれない。
そうこうしている間に、とうとう私の番が廻ってきてしまった。
私には、みんなに語れるような写真撮影の経験が一切ない。
面接に受かる自信も全然無い。
だが今は、そんなことより、自分の名前を名乗っていいのかどうかが問題だ。
もし私に、家出人の捜索が出ていたら、それが原因で警察に知られて、実家に連れ戻されるかもしれないではないか。
少々考えすぎかもしれないが、用心に越したことはない。
そこで私は、偽名を名乗ることにした。
だが、偽名と言っても急に思い浮かぶようなものではない。
下手な偽名だと、すぐにばれてしまう恐れがある。
どうしたものかと、何気なく山田先生の方を見ると、何故か数日前に、彼と出会ったあの日のことを思い出した。
あのとき先生は、皇居の木に住み着いたカラスを見て笑っていた。
そして私はそのカラスに、自分の立場をだぶらせていた…………。
「次、7番目の彼女」
出版社の人が、私に声をかけた。
「君、名前は?」
少し口ごもりながら、私は言った。
「カ……………カラス………………」
「え?」
「カラス…………烏丸………恭子です」
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