f−2/3 逃げ出した日
実際、私と彼とはいい間柄だった。
最初はこんな陰気で、メガネがないと何も見えないような私を、面白がってからかっているだけなのではないかと、疑ったりもした。
だが、そんな心配はすぐに消し飛んだ。
真面目で真摯な彼は、いつも私のことを気遣ってくれて、何度かデートを重ねた今では、私達は友人の間でも公認の仲となっている。
まあ、デートとは言ってもお互いまだ若いということもあって、せいぜい手を繋いで近所の公園や動物園を歩く程度だったが、それでも毎日が夢のような日々だった。
そしていつしか私達は、お互い『恭子』『大介』と、名前で呼ぶようにまでなっていた。
家での母との関係は相変わらずだったが、それでも彼と一緒にいられる間だけは、そのことを忘れることができる。息の詰まるような日々も、それを思えば何でもなかった。
そして月日が流れて、もう2月。
私達も中学卒業間近と迫った、ある日のこと、いつもように明子と昼食を食べていると、
「で、彼とはもう、キスくらいはしたの?」
などと、またも彼女はそんな無遠慮なことを言うものだから、私はまたも飲みかけの牛乳を吹き出した。
ひょっとして彼女は、わざとタイミングを見計らい、言っているのではないだろうか?
「そ、そんなの…………………………まだに決まってるじゃない」
「な〜んだ。もうセックスくらいしたと思ってたのに」
「セ、セェッ…………………!!」
大声で言いかけ、私は慌てて口をつぐんだ。
誰かに聞かれたりはしていまいか、慌ててあたりをキョロキョロ見渡すが、幸い今の会話を、聞いていたクラスメートはいなかった………多分(汗)。
「い、いきなり何を……………………」
今でこそ若い恋人達は、そういった話しは平然としているかもしれない。
だが、当時、私達が学生時代の頃は、そんな話しは世間的にタブー視され、中学生で恋人同士などと言っただけで、大人達から白い目で見られたものだった。
ましてや、そんな男女の関係などと言い出そうものなら、校長先生は大慌て、教師一同パニック状態に陥り、どこかのPTA役員のおばさんとかが、すっ飛んでくることだろう。
「あ、明子、あんたねぇ…………………」
半ば呆れ顔で聞き返す私に、彼女は少し嘆息し、身を乗り出して、
「いいの、このままで?」
「え?」
「私達、もうすぐ卒業じゃない」
「う………うん……………」
明子が急にこんな話しをしだしたのには、ワケがあった。
大介は家業の工場を継ぐため、福岡にある専門学校に、進学することが決まっていたのである。
そのため、春から私達は離れ離れになってしまうことになっていた。
私も、家の事情で遠くの学校には行けないので、近くの普通高への進学が決まっていた。
どうにか近くの高校へ、できれば同じ学校に2人とも進みたかったが、さすがにそういうわけにもいかない。
「一応、夏休みとかには、帰って来てくれるんだけど…………………」
「離れる前に、何か思い出に残るようなことでもしておいたら?」
「うん。卒業式の後、日曜日に熊本城まで、デートに行く約束はしたんだけども」
「く、熊本城って、遠足じゃあるまいし」
「い、いいじゃないの、別に」
何となくバツが悪くなって、私は顔を赤らめてそっぽを向いた。
どういうワケか、私は昔から熊本城に思い入れがあった。自分でも、どうして熊本城が気になるのかは分からない。
同じ県内にあるからかもしれないけど、そうではないような気もした。
「そう。まあ、どっちにしても当分は会えないんだし、熊本城でも水前寺公園でも、熊牧場(現・阿蘇カドリードミニオン)でもいいから楽しんで来なよ」
「うん、そうする」
落ち込んでいる私を気遣い、明子は言った。
しかし、そのせっかくのデートも、あの事件で行けないことになった。
中学校の卒業式当日。
3年間の学生生活を思い出してか、会場では多くのクラスメート達が、緩んだ涙腺にハンカチを添えていた。
声を上げて大泣きする女子も何人かいる。
うまく言葉で言い表せない、何か心の中にポッカリと、風穴でも開いたような空虚感。
その虚しさが、卒業生達の涙を誘っていた。
そんな中で私は、卒業の寂しさと同時に、この後のデートのコトが頭の中にあった。
チラリと隣のクラスの方を見ると、偶然にもこちらを見ていた大介と目が合っい、私は彼に、泣きながら笑顔を見せた。
卒業式を終えて、少し浮かれ気分のまま私が帰宅すると、玄関に入った途端、私の鼻腔を異臭がついた。
アルコールのだ。
母の飲酒も、最近では少しは量が減ったとはいえ、それでも月に数回は、度を超えてひどく酔い潰れることがある。
「母さん…………………」
実はここ最近、私と母の仲は、以前にも増してうまくいっていなかった。
私が合格した学校が、あまりレベルの高い方ではなかったので、何かと『雅子だったら、もっといい学校に進めたのに!』と、酔うごとに言ってくるのである。
そのことで、先日も大喧嘩をしたばかりだ。
「また、こんな昼間からビール……………」
半ば呆れ気味で居間に行くと、やはり母が缶ビール片手に、床に座り込んでソファーに肘をあずけ、もたれ掛かっていた。
姉の死後は、母はふさぎ込むことが多かったが、今は気分転換にと、父の勧めで近所のコンビニにパートに出ていた。
そのおかげか、ここしばらくは落ち着きを見せていたが、それでも以前のアルコール依存癖は抜けきれていない。
泥酔して顔を赤くした母は、私の帰宅に気付いて、ため息をついた。
「な〜んだ、………恭子………………か?」
「ど、どうしたの………………?」
私の方から声をかけることも珍しいが、母の様子がいつもと違い気になった。
酔っているとはいえ、目がいつも以上にうつろで、まるで焦点が定まっていない。
心だけ、どこか別の所に忘れてきたみたいだ。
「ホント、バッカみたい………………」
「え?」
「今日さ、パート先で雅子にそっくりな子を見かけてさぁ……………………」
母は投げやりに言い、ソファーに突っ伏し、
「その子は母親に連れられて帰るときに、私に笑って手を振ってくれたのよ。それを見たら急に、雅子のことを思いだしちゃって…………………………」
声音を震わせ言った。
私からは見えなかったが、母はそのとき泣いているようだった。
酒におぼれても、姉のことは忘れない。
母にとって、姉はそれほど大きな存在であったのだ。
「………………そう…………」
私はそそくさと、その場を去った。
仲は悪くても、母の悲しむ顔なんて、あまり見たくはなかった。
そして次の日曜、大介とのデート当日。
母はこの日も朝からビール瓶を、机に並べて酔い潰れていた。
しかし今日ばかりは、そんな母の姿など、気にもならなかった。
そのときの私の頭の中は、最後のデートのことで、いっぱいだったのである。
これでしばらく彼と会えないと思うと、ちょっと気が滅入ってしまうが、あえてそのことは忘れて、私はデートを楽しむことにした。
よ〜し、今日は気合いを入れるぞぉ!
さすがに化粧まではしなかったが、着て行く服とかには、少しは意識してオシャレなモノを選んでいくことにした。
この日のために買ったスカートと、お気に入りのブラウス。
洗面所の鏡の前でヘアースタイルの最終チェックをする。
何だか今日の私は、女の子しているなぁ。
ほんの半年前からは想像もできないくらい、今の私の雰囲気は変わっていた。
らしくもなく粧し込んだ私を、父は心配そうな顔で、
「き、恭子…………………」
「心配しないで、お父さん。私だってもう、子供じゃないんだから。それにお父さんだって大介を知ってるでしょ? ほら、前に一緒に会った彼。しっかり者で好青年だって、お父さんだって言ってたじゃない」
「そ、そりゃそうだが……………………」
おおらかな性格の父が、こうも落ち着きなくオドオドした姿を見ると、我親ながら何だか笑えてくる。
今からこんなでは、もしも彼と結婚したりとか、子供ができたなんて言ったら、発狂してしまうのではないだろうか?
「で、でもなぁ、恭子………………」
「平気平気ぃ。ホント、お父さんは心配性なんだからぁ」
父の落ち着きのなさが面白くて、私は思わず笑いながら言った。
すると、ちょうどトイレにやって来た母が、私達の様子を見て、
「なに、2人ともヘラヘラして…………」
と、不機嫌そうに言った。
朝っぱらから泥酔するような親に、あれこれと言われたくないものだが、こんな朝からいざこざを起こしたくもないので、あえて聞こえないフリをした。
すると父は、そっと小声で、
「昨日、バイト先で何かあったみたいで、昨夜からあの調子なんだ。あまり逆らわない方がいいよ」
「う、うん………………」
私も小声で答えるが、着飾った私に気付いた母は、訝しげに目を細めて、
「なに、そのカッコは? まだ中学生のくせして、そんなチャラチャラした服?」
と、口を尖らせ言ってきた。
いつも以上の深酒に、完全に酔っ払って平静さを失ってしまっている。
こうなっては、もう誰も手が付けられない。
私はできるだけ母の機嫌を損ねないよう、無理に苦笑いをうかべ、
「そ、そう……………じ、じゃあ…………」
と、ごまかしながら玄関へ小走りで逃げた。だが、母はこちらを見ずに、
「ったく、そんなふうに遊んでばかりいるから、あんな学校にしか行けないのよ。まだ子供のくせに、男まで作っちゃってさぁ」
小走りで去ろうとしていた私の足が止まった。
何だか私だけじゃなく、苦労してせっかく受かった学校や、大介のことまでもけなされたような気がしたのだ。
私は口をきつく噤み、怒りに握った拳を震わせて、肩越しに母の方を睨んだ。
その母は、自分の言ったことを気にする様子もなく、千鳥足で台所の方に歩いていく。
その歩き方さえ、私をバカにしているかのように見えてならない。
「……………………な、何よっ!」
私は声音を震わせ言った。
声には、無意識に怒気がこもっていた。
「自分は、そうやって朝からビールばっか飲んで、何一つ親らしいことなんてしていないくせにっ!」
すると母は、まるでこちらを蔑むような目でチラリと見て、
「何、扶養家族のくせに? 自分1人で、大きくなれたとでも思ってるの?」
「お母さんになんか、そんなことを言われる筋合いはないわっ!」
私がそう言うと、母はとても酔っ払いとは思えないような、しっかりとした足取りでズカズカと私に近付くと、この世のモノとも思えない恐ろしい形相をして、私の頬を叩いた。
「きゃっ!」
「あんたって子はぁっ!」
「よさないかっ、2人ともっ!!」
父が慌てて割って入るが、
「ホント、こんなときに雅子さえいてくれたら」
「っ!」
母のその一言に、私は凍りついた。
姉のことを、私のせいで死んだ姉のことを言われると、私は何も言い返せない。
母は急に表情を曇らせ、
「あの子さえ、あの子さえ、いてくれさえすれば………………………………」
言う母の目から、涙があふれ出た。
姉の死は、そんな母の心に、どれだけ大きな傷を刻んだことだろう?
だが、それは私とて同じだった。
何より、私のせいで姉は死んでしまったという消しがたい事実は、6年経った今でも私の上に大きくのしかかっている。
だから、私はそんな母に何も言い返せない。
言い返せようわけはなかった。
そもそもの、トラブルの原因は私なのだ。
(そうか………………そうだ………よね)
ここには、この家には、私の居場所はない。
ここは姉と両親の家なんだ。
私がここにいる資格なんてあるわけがない。
(何で私は、まだここにいるんだろう? 私はここにいてはいけないんだ)
その後、私が何をどうしたのか、実のところ今でもよく覚えていない。
耳の奥で、いや、遠くで両親が言い争っている声が聞こえたが、今となってはその内容さえ思い出せなかった。
その間に私は、何かに取り憑かれたように、無意識に家から飛び出していたのである。
そして、気がついたときには、私は福岡行きの電車の中にいた。
大介とのデートのことさえ忘れて、私は家から、住み慣れたこの田舎町から、できるだけ遠くに逃げたいという衝動に流されていた。
とにかく遠くへ、母に迷惑をかけない、愚かな私が姉の魂を汚さないですむ、遠くへ逃げて行きたかった。
「大介、私が来るの、まだ待ってるかな?」
そう思ったのは、東京行きの新幹線のキップを買い、目的もなく東へ向かう途中だった。
車窓の向こうを、中国地方の名前も知らない山々が後方に流れて行き、夕日が九州方面の空を紅く染める。
ときおり見える夜の瀬戸内海は、まるで広大な地面に、暗い大穴でも開いたかのように、街明りの向こうに闇を落としていた。
広島を過ぎたあたりで、時間はすでに午後の8時をまわっていただろうか?
何も考えずに出てきたので、中学の入学祝いに買ってもらった腕時計さえ、持って来るのを忘れていた。
もちろん着替えも持ってきてはいないし、財布の中にはキップを買ったおつりの、ほんの数千円しか残ってはいない。
こんなんで東京に行って、何をしようというのだろう?
きっと警察に捕まって、熊本に送り返されるのがおちだ。
そしてまた、今までと同じような日々が?
「……………帰れるわけ…………ないよ」
自由席の上で、私は膝を抱えて泣いた。
私には、もう帰るところがない。
そのことに気付くと、急に足場がなくなってしまったような不安感に、心が押しつぶされそうな気がした。
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