f−1/2 お姉ちゃん
- 27年前 -
「まったく、どうしていつもいつも、こんな点しか取ってこれないのっ?」
「……………………………………」
「お姉ちゃんがあなたと同じ年には、いっつも100点とって帰ってきたのよっ!」
そんな母の剣幕を、私は涙目で萎縮しながら聞いていた。
きっと今の母は、鬼のような顔をしているに違いない。
そう思うと、顔を上げて母の顔を見ることさえ恐ろしかった。
私が小学校3年生の頃、母は私の学校のテストの成績を見る度、いつも額に青筋をたてて怒ってばかりいた。
その日も、算数のテストの成績が60点だったのを知った母は、私を台所の冷たい床に正座させて、延々と説教を続けていた。
「いつも勉強しなさいって、あれほど言っているのに」
「だ………………だって…………」
「だって? だって何っ?!」
「……………………………」
きつい口調で聞き返す母に、返す言葉がなくて、私は黙ってうつむき、手の甲で涙を拭った。
大声で泣きたいのに、母が恐くて声を出して泣けなかった。
私だって、勉強を一生懸命にやっていた。
でも、どう頑張っても、どんなに勉強しても、成績はあまり上がらなかったのだ。
私の頑張りを、母も知っているハズなのに、どうしていつも私ばかり怒られるのだろう?
60点だって、私にしては上出来な方だった。
なのに、どうして?
(きっとお母さんは、私のことが嫌いなんだ。私はお母さんの本当の子供じゃないんだっ!)
いつの頃からか、私はそう思うようになっていた。
ずっと幼い頃、父が冗談で『おまえは近所の橋の下から拾ってきた』と言っていたのも、あれはきっと本当のことなんだ、と。
そう思うと、無性に悲しかった。
でも、幼い自分には、どうしたらいいのか分からない。
ただ、何もできないまま、母の逆鱗に脅えるしかなかった。
私が唇を噛みしめ、ずっとこらえていると、
「もう、そのくらいで勘弁してあげてよ」
おつかいから帰って来た姉の浜野雅子が、母を諌さめるように言った。
ー 浜野 ー
それが私、烏丸恭子の本当の名字だ。
今は訳あって本名を名乗ってはいないが、その理由は後々説明しよう。
当時、姉は小学校6年生で学級委員、成績優秀な典型的優等生だった。
母にとっては自慢の娘であり、私にとっても優しい大好きな姉であった。
姉の姿を見るや、私は、
「お姉ちゃ〜んっ!!」
姉の胸に飛び込んで、堰を切ったように泣き出した。
ずっと我慢していた涙が、あふれるように流れて止まらなかった。
「よしよし、お姉ちゃんからも、お母さんに謝ってあげるから、もう泣かないで、ね」
姉の言葉が嬉しくて、私は涙を拭った。
「雅子………、でも恭子ったら、またこんな成績なのよ」
「恭子も一生懸命に勉強してるよ」
「だって雅子ぉ………」
姉の言葉に、今度は母の方が萎縮した。
「お母さんが、そんなにガミガミ言うから、恭子も勉強に集中できないだけなんだよ。今夜から、私が恭子の勉強をみてあげるから、もう許してやって」
「し、仕方ないねぇ」
母は渋々納得し、私は姉の腕の中で声を上げてもう一度泣いた。
「お母さんなんか、大っきらい…………」
その夜、姉に算数の宿題を見てもらっていた私は、無意識にそう呟いていた。
昼間に母に怒られたことを思い出し、いつの間にか涙目になっていた私は、言うつもりはなかったのに、その一言が口をついて出てしまったのである。
そんな私に姉は、
「そんなこと言っちゃダメだよ。母さんだって、何も恭子が憎くて言ってるんじゃないんだから。もっと勉強して、賢くなってほしいから、きびしく言ってるだけなんだよ」
そう姉は言うが、私には信じられなかった。
「そんなことないもんっ! きっとお母さんは、私なんかいなくなった方がいいって思ってるんだっ! 死んじゃった方がいいって思ってるんだっ!!」
泣き顔を姉に見られたくなかった私は、ベッドに飛び込み、布団を頭から被って叫んだ。
すると、おもむろに布団を姉に引きはがされて、驚いて私が顔を上げると、
「恭子のバカッ!」
悲しそうな顔で、姉は私を叱った。
そして、私の頬を姉の平手が叩いていた。
「お………………お姉ちゃん…………」
見上げた姉の顔は、すごく悲しそうだった。
叩かれたのは私なのに、叩いた姉の方が私よりも、ずっと痛そうに見えた。
何故か姉の心の痛みが、そのときの私には、頬の痛み以上に伝わってきた。
「そんなこと言わないで…………ね」
叩いた自分の手を、もう一方の手で押さえて言う姉に、
「お姉ちゃん………………ごめんなさい」
私は申し訳なくて涙をポロポロと流した。
7月に入り、私達の小学校ももうすぐ夏休みといった時期、私はまだ何となく、母に対して気まずい気持ちを抱いたままだった。
それでも姉は、そんな私の気持ちを察して、いつも私に優しく接してくれていた。
「恭子はいいなぁ」
「え、何が?」
学校からの帰り道で、姉と一緒に歩いていると、姉はため息まじりに私を見つめ、
「だって恭子は、体育得意でしょ?」
「そ、それほどでもないよ……………」
何となく気恥ずかしくて、私はうつむいて答えた。この時期の体育の授業は、学校のプールでの水泳になる。
姉は水泳が苦手なのだ。
「私なんか、昨日のプールの時間、何て言ってサボろうかと、ずっと悩んでたくらい。結局サボれなくって、水の中でバシャバシャ暴れるくらいしかできなかったのよ」
姉は肩を落とし、トホホ顔で言った。
後で知ったのだが、姉は幼い頃に、近所の川で溺れかけたことがあったのである。
それ以来、どうしても水に入ることができなくて、かなり苦労していたらしい。
そうとも知らず私は、胸を張り、
「私なんか、カエル泳ぎで10mも泳げるもんねぇ!」
「すごいすごい」
「えへへへ」
自慢気に言う私に、姉は苦笑いをうかべて、私の頭をなでてくれた。
気を良くした私は、
「じゃあ、夏休みに私が、お姉ちゃんに泳ぎ方を教えてあげるよ」
「そう、ちょっと恐いけど、楽しみにしてるね」
笑顔で答える姉の顔は、とても楽しそうだった。
でも、結局はその約束を果たすことは、できなかった。
※※※※※※※※※※※
「先生っ、恭子先生ってばぁっ!」
いつの間に眠ってしまったのだろう、窓枠に寄り掛かったまま、私はすっかり眠り込んでしまっていた。
よだれを垂らして、窓枠の跡を頬に残した私が振り向くと、浴衣姿のサワちゃんが、心配そうにこちらを見つめていた。
「あ、ゴメン。すっかり眠っちゃってたみたい」
「何かあったんです? 涙、出てますよ」
「え?」
慌てて頬を触ると、たしかに濡れてる。
眠って姉のことを思い出し、寝ながら泣いていたのかもしれない。
「先生?」
「ううん、何でもないのよ。ちょっと目に埃が入っただけだから」
目じりを拭い、作り笑顔でごまかすと、サワちゃんもようやく安堵の表情になり、
「よかった。もしも先生に何かあったら、実家のお姉ちゃんに、何て言われるか、想像しただけで………………ああ、恐ろしいっ!」
「明子って、そんな子だったかしら?」
サワちゃんの姉、明子のことを思い出す。
中学校しか卒業していない私が、今も当時のように、気兼ねなく付き合える当時のクラスメートだ。
実は当時、明子のクラスでのあだ名が『サワちゃん』だったので、私はその妹の彼女をそう呼んでいるのである。
「お姉ちゃんは外面がいいんですよ。昔は恭子先生の前でブリッコしてたに違いありません! 猫かぶりの明子って、親戚じゃ有名なんですからっ!」
「明子が聞いたら何て言うかしらね?」
「あ、あ、せ、先生、今の内緒ですからね。お姉ちゃんに会っても、言わないでくださいよ〜っ!」
「アハハハハ…………」
彼女の慌てように、私はさっきまで泣いていたことも忘れて笑った。
サワちゃんのそういったところが、昔の明子にそっくりで、話しているだけで学生時代のことを思い出してしまう。
本当に、その頃の私は……………
「それより先生」
「ん、何?」
サワちゃんが、急に笑顔になって私に話しかけてきた。
彼女がこの笑みを見せるときは、いつもロクなことがないのだが?
「さっきフロントで聞いたんですけど、この近くの神社でお祭りがあるらしいですよ」
「え、お祭り?」
「はい。まあ、お祭りって言っても、縁日の夜店が何軒か並ぶ程度らしいですけど」
………お祭り、縁日、夜店……………
その言葉に、私の心の奥にあった辛い記憶が、一瞬脳裏をかすめた。
………お姉ちゃん………………
あの日も、近所のお祭りの縁日の夜だった。
あの日から私の人生は、大きく変わってしまったのだ。
「……………先生?」
急に黙りこくった私を心配して、サワちゃんが再び心配そうに声をかけた。
「どうかしたんですか?」
「う、ううん、何でもないよ、何でも」
「顔色が悪いですよ」
「そ、そう? きっと仕事の疲れのせいよ。やっぱりもう歳かなぁ?」
「ま、そんなときは気分転換ですよ。早速、お祭りに行きましょ!」
満面の笑みのサワちゃん。
すでに彼女の顔は緩みまくっていた。
菓子類が主食の彼女のことだ。きっと夜店でお菓子を買いまくる気に違いない。
「ね、ね、行きましょうよぉ〜♥♥♥」
私にすがりつき、甘えるように猫なで声で言う彼女に根負けし、
「分かったわ。じゃあ、夕食の後でね」
あまり気乗りしなかったが、断る理由も思いつかない私は、渋々彼女の提案を承諾した。
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