第2話 経理部の出雲くん
その日は今にも雨が降り出しそうなほど、厚い雲がかかった天気だった。
「どうしたの?」
「あ…」
声をかけられ振り向けば、大きなゴミ袋をふたつ抱えた女性の姿。
手伝いを申し出てひとつ受け取ると、人懐っこい笑顔が見えた。
「ありがとう!新入社員の子でしょ?優しいね!」
「いや、俺なんて…そんな…」
階段を下りながら肩を落とす出雲を、彼女はジッと見つめて口を開く。
「なんかミスしちゃったの?」
直球だ。
そのぶん出雲の心に刺さり、ぽろりと本音が出てしまう。
「はい…。操作を誤って、先輩のせっかく作った伝票を削除してしまったんです」
「よくわかんないけど、新入社員のミスは上司のミスだから大丈夫だよお」
「でもあんなに時間をかけて打っていたのに…」
「先輩怒ってた?」
「いえ、そんなこともあるよなあって…。それがまた申し訳なくて…」
出雲は真面目だ。
優秀な大学を出た彼は、その勤勉さと頭の良さを買われてこの会社で経理として雇われた。
入社してからも、愚直ともとれるほどの生真面目さを発揮してきた。
それでも人間である以上、誤りが生じることはいくらでもあるものだ。
「なら大丈夫だよ!私、研修終わってすぐ遅刻したことあるし、先輩のパソコンにお茶かけて壊してめっちゃ怒られたこともある」
「!?」
「取引先の人と飲んでる時に気持ち悪くなって目の前で吐いたことあるし、目が覚めたら道端で寝てたときもあるよ」
「そ、それはお酒を控えた方が良いのでは…」
「みんな同じような失敗なんていくらでもしてるから、失敗の一つや二つむしろ共感してくれるって!あっ、ちゃんと誠心誠意謝罪するのは大事だけど」
「は、はい…」
一階に着いて、彼女の足がぴたりと止まる。
「ここまでで大丈夫!ありがとうね」
「はい…」
出雲がゴミ袋を渡す時、彼は自身がとても名残惜しいと思っている事に気がついた。
「経理部の出雲邦明と申します…お名前をお伺いしても良いですか?」
「出雲くんね!営業部の
そう言ってゴミ集積所に消えていく彼女の背中を、出雲はいつまでも見送った。
その心は感動に包まれていた。
「…晴間さん…」
(女性が、あんな恥ずかしい嘘をついてまで、俺のことを励ましてくれた…)
ちなみに結子は嘘偽りない真実のみを口にしていたが、真面目な彼はこのとんでもない話がまさか事実だとは思わなかった。
後輩ができた今では出雲のミスも大したことではない。
しかし新入社員だった彼にとってその重圧は過大なものには違いなく、彼女の言葉は本当に嬉しかった。
大いに勘違いしたはじまりではあったものの、出雲邦明は晴間結子に恋をした。
「晴間先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよー!ウンウン!」
ちっとも大丈夫そうではない返事が戻ってきて、出雲が頭を抱える。
今日は彼女の契約が取れた事への祝賀会だった。
会社で親しい人間が有志で集まり、結子をお祝いした。
感動の涙を流しながらお酌を受ける彼女に、出雲の心も温まったものだが、どうも飲みすぎてしまったらしい。
「早くみんなのところに戻りましょう」
「うん!あっちだよね」
「逆方向です」
二次会でカラオケに移動した後、結子はびたりと動かなくなった。
どうやら完全に酔いつぶれたらしく、仕方がないのでソファーに寝かせておいたのだが、突然フラリと立ち上がり部屋を出ていった。
それを見ていた出雲はお手洗いにでも行ったのだろうと思っていた。
ところがいつまで経っても戻ってこない。
女性に見てきてもらおうとしたものの、盛り上がっている部屋に水を差すことは憚られ、とりあえず出雲ひとりで探しに来た次第である。
「そっちじゃありません。エレベーターに乗ってください」
「は〜い」
ずるずると結子が指示に従う。
(まだ歩けるから良かったと思っていたが、歩けるほうが面倒なのでは…)
あちこち回って確認したところ、なんと違う階の違う部屋で、どこかの会社の飲み会に混ざっていたから驚きだ。
同じく完全にへべれけになった中年のおじさん達と仲良く肩を組んで歌を歌っていた。
大慌てで部屋に入り謝罪を述べながら彼女を連れ出したが、なかなかどうして酔っ払いの世話は大変である。
「あ、この部屋です…あれ?」
先刻まで自分たちが居た部屋はもぬけのからで、すでに清掃が入っている。
(しまった!)
出雲も結子も自分の鞄を持って外に出てしまったので、帰ったと思われたのかもしれない。
泥酔した結子を連れて帰る予定だった
「……」
床と一体化している女性を残されて、捨て置くなどできない真面目な彼は目の前が暗くなる感覚に陥った。
「どうしてこんなことに…」
「ふぁー…」
飲み屋が続く街を結子を背負って歩きながら、出雲がつぶやく。
結子を背負う時、少なからずドキドキしたのだが、残念ながら今の彼女からは酒とタバコと加齢臭のおじさんの香りがする。
タバコと加齢臭は先程仲良く歌っていた人から移ったものだろう。
それでもその暖かい体温を感じて嬉しくなってしまうのだから、恋とは恐ろしい。
2年前、結子に恋した出雲青年だったが、営業部と経理部は会社の階も離れていれば、関わりも少ない。
仕事も忙しく行動することもできないまま、月日が経ってしまった。
そんな結子は今では第一線で活躍する花形の営業マン。
まだ若く社歴も短い自分など相手にされないだろうと卑屈になり、今回を最後に諦めるつもりで珍しく参加した飲み会だった。
「終電…なくなっちゃいましたね…」
「ふぃー…」
この時間のこの辺りのタクシーは乗客を乗せていることが多く、少ない空車も酔っ払いの乗車を嫌ったようで無視されてしまった。
(でも、乗ったところで晴間先輩が説明できなきゃ家には帰れないんだよな…)
それでもこのままずっと彷徨うわけにもいかない。
覚悟を決めて、出雲は近くにあったビジネスホテルの扉を開けた。
「お部屋はシングル2つですか?ダブルでよろしいですか?あいにくツインベッドのお部屋は埋まってしまっていますが…」
ロビーでスタッフにされた質問に、出雲が口ごもった。
普通ならシングル2つにすべきところかもしれない。
今ならば結子は大人しく寝てくれるだろうから、1人で部屋に放り込んでも大丈夫だろう。
でも思い出して欲しい。
彼は、結子に恋心を持っていたのだ。
こんなに振り回されても、未だほかの男じゃなくてよかったと思える程度にはこの状況を楽しんでいるのだ。
(でもそれは男としてどうなんだ?すべき時ではないだろう。彼女は俺に不信感を持ってしまうかもしれないし、俺も堂々と彼女の顔を見れなくなってしまう)
悩んだ末に彼が下した結論は。
「俺の馬鹿…!」
ダブルベッドの部屋で、出雲邦明はシャワーを浴びていた。
(何を期待しているんだ俺は!最低じゃないか)
自責の念にかられながらも、心の底ではこの選択を後悔していない自分が憎い。
また結子が勝手に部屋を出て他の部屋に行ってしまう可能性もあるからと、必死に自分に言い訳をする。
「床で寝よう…」
いろいろな理由で疲れた顔になった出雲が風呂から出た。
結子がベッドの上に降ろした時と同じ位置にいて、とりあえず安心する。
「……」
(少しぐらいなら…)
スヤスヤ寝ている顔を見て、その顔がもっと見たくなって手を伸ばす。
次の瞬間、結子の目ががばりと開いた。
「えっ!?」
「三角絞め!!」
結子がなにかを叫ぶと同時に、出雲の身体がそちらへ持っていかれる。
出雲の首に足をかけて、そのまま締めていく。
みちみちと嫌な音がした上、呼吸が苦しくなってきた。
プロレスや総合格闘技で見たことがある技だ。
「いだだだだだ!!死ぬ!」
「むむむむ…ふう。勝った!」
満足したのか、出雲の首を固めていた足が緩む。
慌てて足を外し、なんて危険な生き物なんだと思いながら首をさすると、引っ張られたせいで自分の身体がベッドの上にきてしまったことに気がついた。
下にはぼーっとした目でこちらを見上げてくる結子の姿。
「いやいやいやいや、駄目だ駄目だ」
大慌てでベッドから離れようと身体を動かすが、結子が動く方が早かった。
出雲の頰からちゅ、と可愛らしい音がする。
「え」
「痛かった?ごめんね」
その場所がどんどん熱くなってくる。
夢にまで見た結子の唇は、想像よりもずっと柔らかかった。
「……」
(俺は、この恋を終わらせるつもりだったのに)
出雲が両手をついたまま、結子の瞳をまっすぐに見下ろす。
ぎしりとベッドが音を立てた。
「俺、こんなことしたら、諦められなくなると思います」
結子は明日、今日のことを覚えているだろうか。
少し迷ってから口を開く。
「責任とってくれますか?」
「うん!とるとるゥ〜」
絶対にとる気のない軽い返事を聞きながら、それでも理性が打ち負けた出雲が、結子に体を重ねた。
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