第6話

「医療省大臣?なんでまたそんなところから…言っちゃアレですけどここってそんなに懐暖かくないですよね」

 センター長は見せつけるように大きなため息を吐いて肩を落とす。

「君は変わりませんね、口は災いの元だと教わりませんでしたか?相手が私だからいいものの、その迂闊さは可及的速やかに是正した方がよろしいかと思います」

「はあ、善処します」

 気の抜けた、それでいて日常的な応酬を行なったあとセンター長の瞳にきらりと光が宿る。

「なぜ医療省から手紙が来たか、それは君がいるからですよ。柚堂先生」

 唖然、とは今の俺の顔の状態のようなことを指すのだろう。口周りの筋肉はだらしなく緊張を失い、瞳は不必要に瞬きを要求する。そして思考停止。

「は、私ですか?」

 自分で言うのも何だが今でこそ一研究室の責任者を任されているものの、俺はこれでも結構なヘタレで弱虫で肝心なところで逃げる癖がついたどうしようもない人間だと自負している。自己肯定感より劣等感が勝っているようなタイプの人間。日向より日陰を選び、スポーツより読書を選ぶ典型的な内向型の人間だ。出来るだけ責任を負いたくない。傷つきたくない。そんな思いでここまで生きて来た。今までを振り返って見てもお偉いさんから目をつけられるような悪行は犯した覚えがない。なぜだ。なぜ、俺を、それも、名指しで。

「論文も碌に書かない、書いてもまともに通ったことがない私が日の目を浴びることなど生涯一切無いと思っていたのですが」

「何をおっしゃる。第九研究室の所長さん」

 お前が勝手に昇格させたんだろう俺はヒラのままでいいとあれほど固辞したのに、というどろどろの気持ちはすんでのところで飲み込み、精一杯の念を込めた微笑みを返す。

「あなたの論文に先方が目をつけたんですよ」

 はい、再びの思考停止と筋弛緩。俺の上体は緊張を失いゆっくりと自然な速度で後方に倒れた。しかしソファに腰をかけていたのでただ凭れただけに見えただろう。

「いや、でも、論文が通ったなんて通知は全く」

「おや。私は寝界くんに貴方に渡すように、と頼んだのですが」

「寝界?」

 ──柚堂先生ー、これ、センター長からです、置いておきますねー。

 ──ああ、わかった。

 そういえば少し、いや結構前にそんな会話をしたようなしていないような。

「アレはダメです、用件を正確に伝達できない人間なので」

「貴方が確認しないのも悪いのでは。きっと今頃あのゴミ山のどこかに埋もれているんでしょうね。栄誉ある通知が。ああ、嘆かわしい」

 なんと。俺の部屋の惨状を把握済みとは。さすが上司。さすがセンター長。こんど部屋でコーヒーでもいかが、と部屋に招いてみようか。コンマゼロゼロ食い気味で、結構です、どんな恐ろしい病原菌がいるかわかりませんので誠に非常に心底残念ではありますが今回は丁重にお断り申し上げます。と拒否される未来がうっすら見えていないでもないが。

「通知は後で捜索するとして、やっぱり納得できません。私より有能で有望な未来を期待された研究者の書いた論文がわんさかあったでしょうに」

「しかしあなたの論文が選ばれた。それこそが答えです。よかったですね。やっと所長に相応しくなってきました」

 医療省のお偉いさんとセンター長にサンドイッチされては一研究室の一所長である俺に拒否権があるわけがない。そんなことはいくら逃げまくって来た俺でもわかる。

 しかし面倒ごとは引き受けたくない。やはり辞退というわけには、と弱音を吐こうとしたがセンター長の鋭い眼光に怯んだ俺は、

「とりあえず手紙の中身を拝見させてください」

 前向きに検討する方向で事を進める従順な部下を演じてしまった。


 封を切り、二つ折りにされた手紙を開くと、よく見る公的機関でありそうな文面が並んでいた。

 仰々しい省の判子が押されたその紙の中心部分。そこに俺への辞令が記してあった。短く、簡潔に一文で。


 ──貴君を医療省先端医学研究ユニット万能医療分子パナシーア開発グループ分野長に任命する。


 医療省大臣 鈴井正紘──


「なんですかこのめんどくさそうな名前の羅列」

「だから口を慎みなさいと先程から言っているでしょう」

 すみません、と首をすくめて再び紙面へと視線を落とす。見れば見るほどやる気が削がれていく魔法のような紙だ。だいたいパナシーアってなんだ、パナシーアって。万能医療分子についての論文は書いたが俺はそんな洒落た名前をつけた覚えはないぞ。


 そんな俺の胸の内を感じ取ったのがセンター長がさりげなく説明を始める。


「パナシーア、とはギリシア神話に出てくる医術の神アポロンの孫です。アポロンはもちろん知っていますね。知らなきゃヤブです。そしてパナシーアは癒しの女神で、その名には、全てを癒す、という意味があります。まあ大方そこに因んだのでしょう。外部へのアピールや大々的に発表する際に何か名称がないとやりにくいですから」


 ね、とセンター長の視線がこちらに向けられる。

 ああ、わかってはいたがこれは必敗だ。


「わかりましたよ、もう何も言いません」

「それはよかった。では正式に引き受けてくださるという事でよろしいですね」

 その語尾には有無を言わさぬ圧がかかっていたが俺はそれに気づかないふりをして頷いた。

 では、先方には私が連絡しておきます、とセンター長が席を立ったので慌てて

「本人である私が連絡した方が良いのでは?」

 そう問うと、

「いえ、ご心配には及びません。そうか、いい忘れてましたね。形式的には私への依頼という事になっているんです。ですので、誰かに何か訊かれたら私に依頼が来た、という形で情報伝達をお願いします」

 そうですか、と引き止めようとした手を引っ込めた。

 形式的にはセンター長への依頼?それならなぜわざわざ俺に持ちかけたんだ。あ、そうか、そうだった先方が俺をご指名だからか。

「ではあちらに連絡後、詳細が明らかになると思うのでそれまで待機していてください、と言ってもいつも通りにしていていただければそれで良いのですが」

「まあ、先行研究が中断になれば別段やることもないですしね」

「研究中断の件も先方からの連絡後正式に第九に宛てて指示を出しますので」

 わかりました、と席を立って深々とお辞儀をする。

「君からそんな畏まったお辞儀をされるとは、天変地異でも起こるんですかね」

「俺を一体なんだと思ってるんですか、片岡教授。いえ、今はセンター長でしたね」

 軽く息を吐くように微かに口角を上げたセンター長は手で、もう行けと表した。

 そして俺は扉の前で再びお辞儀をして部屋を辞した。


 これが、五年前のこと。

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