第5話
「
自分の名を呼ぶ声に意識を浮上させる。目を開いて最初に見たものは今日講義をする予定の資料だった。
疲れも相俟って読み込んでいるうちに寝入ってしまったようだった。しかし幸い、手から資料が滑り落ちるようなことはなかったようだ。
「講義20分前ですよ」
そう言いながら
「お疲れのようですね、最近家に帰ったのはいつですか……」
「二…いや、三週間ほど前かな」
「こんな所に泊まり込んでたらいつか精神を病みますよ」
「ご忠告をどうも」
こんな所。寝界が皮肉と自虐を込めて放ったこんな所というのは、この研究室のことで、私の半自宅のような場所のことだ。研究員一人一人に割り当てられた全面ガラスで区切られた部屋は、私のところだけ群を抜いて散らかっていて、傍目にも此処を自室として使っているようだ、ということがわかる。
「しかし、忙しくなったのは事実ですからね。まったく、なんでこんな弱小研究室に白羽の矢が立ったんだか…」
寝界が、全面ガラスの壁に映し出されたテレビを見遣る。そこには、医療省(旧厚生労働省)大臣が身振り手振りで何かを話している姿が写し出されていた。消音になっているので何を言っているかまではわからない。
「原因が何かと問われれば僕は真っ先にあの大臣を…」
「こら寝界、此処ではそういうことは言わない」
はぁい、すみません、と肩をすくめてコーヒーに口をつける寝界を見ながら、私自身も映し出された画面を見ながら、センター長室に呼び出された日を思い出した。しかし、回想にふける暇もなく画面端に表示された時刻を見て急いで立ち上がる。
「もう10分前だ、行ってくる」
いってらっしゃい、と陽気に送り出す寝界の言葉を背中に受けながら足早に同敷地内の大学へと向かった。
センター長室に初めて足を踏み入れたあの日、私はよくわからない緊張感で胃や心臓や頭に痛みを感じていたのをよく覚えている。学校で悪事を働いて校長室に呼ばれる子供のようだな、と思った反面、子供時代の私は今と変わらずいい意味で大人しく悪い意味で消極的だったためその様な経験はないなという思いの方が大きかった。
この時代に珍しい重厚な木の扉を二、三回ノックし、一拍おいてどうぞ、と声をかけられるまでたぶん数秒もからなかったと思うがとてつもなく長い時間ドアの前に立ち竦んでいた気になった。
「失礼します、第九研究室の柚堂です。何か御用でしょうか」
押して開くタイプの扉をあまり見なくなったなと思っていたがこんなところで見ることになるとはなどと、緊張で凝り固まっている中悠長なことを考えてしまう部分があるのだからまだ大丈夫だろう。
「急に呼び出してすみません。研究の方は大丈夫ですか」
こちらに背を向け、黒い革椅子に深く座り込んでいたセンター長が向き直る。
「ええ、大丈夫です」
事実だけを簡単に述べ、詳細は省いた。
口が裂けても成果を得られませんでした、などとは言えない。
センター長に促され、目の前のソファに座る。
「実は折り入ってお願いがありまして」
「お願いですか」
この時の私にひとつ忠告するならば、センター長の瞳をみつめるな、と言いたい。二秒ほど見つめてしまったが最後、もう逃れることはできない。狙いを定めた肉食動物が草食動物に飛びかかるように。
「ええ、まあ、単刀直入に言えば新しい研究の提案なのですが」
「新しい…今取り掛かっているものと並行ですか?」
「いえ、提案を呑んでくれるならばそれ一本で進めていただきます」
しばらく、ソファに沈み込んだり溜息を吐いたりもっともらしく悩んでから、「わかりました、受けましょう」
「柚堂先生ならそう言って頂けると思っていました」
すまない、寝界。私の軽率な返答が今の私の部屋の惨状や、研究室を半自室として使う上司が存在する原因になってしまった。
「詳しく内容をお聞かせ願えますか」
センター長は、引き出しから分厚い書類が入った封筒を取り出す。この部屋は一世紀前で時間の流れが止まっているように感じた。
今はARコンタクトレンズを装着すると、景色にメーラーや、ニュース、天気などを表示し、AR上で実際に作業することが可能になり、前世紀PC上で作業していたことが全てコンタクトレンズひとつでできるようになった。その機能を使って書類を送信するのが基盤となっているこの時代にデッドメディアをまだ使う人間がいたとは。
「なぜこの時代に形のある書類で、と思いました?これは先方からの要望なんです。AR上での取引はしないでくれ、とね」
「先方……これはセンター長からの提案ではないんですか」
思えば、私はこの時すぐさま断ってカオスな自室に戻るべきだった。
「ええ、まずは封筒の裏を見てみてください」
渡された封筒の表にはセンター長の名前が刻字されており、裏面には「医療省大臣
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます