第48話)次なるターゲット?駐在妻を狙え!
「ヒロ君が言ってたソフトってタイには売ってない珍しいやつなんでしょ?それを持ってるパタヤ在住の日本人なんてよく探し出したよねー。さすがコンピューター職人のゴウ君!」
「いやー、やめてよ、その言い方。そんなに大したことじゃないよ。インターネットでパタヤ関連のサイトを閲覧していたら、たまたま見つけただけだから」
「いえいえ、僕が使っていたのと同じソフトを持ってる人がまさかパタヤにいたなんて驚きですよ。ゴウさん、ホントにありがとうございます。でも、その人って駐在員の奥さんなんですよね?見ず知らずの僕らに簡単に貸してくれますかねぇ…」
「まあ、訊いてみないと分かんないんじゃない?その人、○○さんとこの常連みたいだし、店に行って色々探れば何か分かるかもしれないからさー。とりあえず飯食いがてら行ってみようか?」
「はい、そうですね。何とかうまいこと借りられればいいんですが……」
嬉しいことに、僕が欲しがっていたホームページ作成用のソフトを所有している人物が見つかった。それも同じパタヤに住む日本人であることに僕は驚喜した。ゴウさんはネットサーフィンしていたら偶然見つけただけだからと謙遜したが、僕にとっては全く考えもしなかった棚ぼたの情報だった。そして、その人物がどうやら駐在員の奥さんであること、さらに僕らがTシャツ製作でお世話になった日本料理店の常連らしいことが分かった。それならば彼女をオーナーから紹介してもらえるかもしれないと、僕らは甘い期待を抱くことになったのだった。
さっそくリュウさんと僕は彼女の正体を探るべくその店に食事に出かけた。オーナー氏に諸々の事情を説明し、奥さんのことを尋ねてみる。「ああ、それは多分△△さんのことじゃないかなぁ」とオーナー氏はすぐに誰だか合点がいったようだった。なんでも彼女は古くから付き合いがある常連さんの一人らしく、パタヤ在住歴も10年以上と長いようだ。また現地に住む駐在妻たちの中でも古株の部類に属することから皆のリーダー的存在であることが分かった。
さらに、よくよく話を聞くと、彼女はその辺にいるような普通の駐在員の奥さんではなく、俗に言う"奥様(おくさま)"であることが判明した。実は某大手日系企業の現地支社の社長婦人であるらしい。そんな大そうな人物に狙いをつけていたのかと、目の前に立ちはだかる大きな障壁を僕は感じたが、有難いことにオーナー氏が間に入って代わりに話を訊いてくれることになった。オーナー氏によると、その奥様は気立てのいいサバサバした性格の人なので、パソコンのソフトを貸して欲しいという程度のお願いなら聞いてくれるのではないかという話だった。
しかして、それから数日後、店を訪れた奥様にオーナー氏が僕らのお願い事を相談してくれ、ついに了解を得ることに成功した。僕は何かを成し遂げたような心地よい気分に包まれた。オーナー氏から連絡先をゲットすると、すぐにリュウさんが電話をかける。そして、奥様から「いつでも借りにいらっしゃい!」という有難き言葉を頂戴したのだった。
リュウさんは、数日後の午後に奥様の住まいがあるナクルアのコンドミニアムに直接取りに伺うという約束を取りつけた。すぐにでも借りに行けばいいのにと思ったが、その数日にはリュウさんなりの考えがあった。よく行く日本料理店のオーナーから紹介されたとはいえ、同じ日本人だとはいえ、海外において素性もよく知らない現地に住む日本人の我々(しかも若者男性)と接触を持つことは、駐在員である旦那さんからすればあまり好ましくない話である。それに奥様の旦那さんは某大手日系企業の現地支社社長という大そうな肩書きを持つ人物なのである。
となれば、決して粗相があってはならないし、我々の存在を怪しまれてはならない。それにせっかくの機会である。出来ることならばこれを機に少しでもお近づきになれれば最高だ。そこまで緻密に計算するあざとい目論見がリュウさんにはあったのだろう。だからリュウさんは手土産を用意するための時間を考慮していたのだった。手土産は何がいいのかもリュウさんの頭の中にすでにアイデアがあるようだった。仲介役を買って出てくれたオーナー氏から、旦那さんが大の格闘技好きで、ボクシング通だという話を聞いていたのだ。それは自分の専門分野であるリュウさんにとって嬉しい接点だった。
「ボクシング・ムエタイ関連の格闘技グッズで、ツインズ(TWINS)とかウィンディ(WINDY)ってブランドがあるの知ってる?タイで有名なメーカーなんだけど、どっちかのボクシンググローブを買ってきてさー。それにウィラポンあたりからサインを書いてもらって、旦那さんにプレゼントするのがいいんじゃないかと思ってるんだけどねー」
「ええっ、それは格闘技好きには堪らない贈り物でしょうね。でも、ウィラポンってあの辰吉戦で有名なボクサーですよね?そんな簡単にサインなんてもらえるんですか?」
「バンコクにウィラポンが所属してるジムがあるから、そこに行けばすぐに会えるよ。俺も昔よく遊びに行ってたからさー、大丈夫だよ。でも遠征とかで不在の場合もあるから、どうしようかと迷ってるんだよね。わざわざバンコクまで行って会えなかったら最悪だしさー」
そういえば、リュウさんからウィラポンと一緒に撮った写真を見せてもらったことがある。彼はそれをいつも財布の中に入れて持ち歩いていた。リュウさんが以前バンコクでボクシング関係のプロモーターの仕事を手伝っていたことは聞いていたので、その話は信憑性があった。結局、リュウさんはウィラポンに会えない可能性を考慮したのか、バンコクに行くのは止めて、僕をパタヤ郊外にあるジムへと連れ出した。
そこはスィーヨットンという名前の名物オーナーが運営するパタヤで有名な格闘技ジムだった。半ば屋外施設のような簡易的な造りのジムで、日中の炎天下、褐色の肌をした上半身裸の男たちが大汗をかき、掛け声をあげながらミットを打ち、足蹴りを繰り返して練習に励んでいる。リュウさんはこれまで何度も足を運んだことがあるようで、バイクで乗りつけると、すぐに顔見知りのトレーナーたちにワイ(合掌)をしながら挨拶して回った。
敷地内にはオーナー宅も併設されており、ムエタイジムの隣にボクシング専用の特設リングがあった。そこで専属のトレーナーと汗を流しているのが、当時のWBA世界スーパーフェザー級王者、ヨーサナンだった。一目見ただけでも惚れ惚れするような黒々とした筋骨隆々の体躯で、引き締まった下半身の上には、見事に割れたシックスパックの腹筋、分厚い胸板と大きく膨れ上がった上腕筋が、その存在を大げさに主張しているかのようだ。盛り上がった背中の筋肉に覆われた太い首の上に、野生的かつ精悍な小顔のマスクがついており、まさに理想的とも言うべき見事な逆三角形のプロポーション。彼は他とは次元が異なる圧倒的なオーラを放っていた。
リュウさんはヨーサナンが練習に励む姿をリングのそばでじっと見守り、練習が一段落したところで彼の元に歩み寄った。挨拶がてらのワイ(合掌)をしながら声をかける。予め購入しておいたツインズのグローブと油性マジックを差し出し、「日本人の友人が君のファンでプレゼントしたいんだ」とリュウさんが事情を説明してサインを強請ると、ヨーサナンは嬉しそうな笑顔を浮かべて、快くそれに応じてくれた。これは格別の贈り物になるに違いないと僕は確信した。
約束の当日、僕らは正装とまでは言えないながらも襟つきのシャツと長ズボンを着用し、手土産のサインつきグローブを持参して奥様に会いに行った。そこは閑静な街ナクルアの中でも特に高級リゾートホテルやハイソなコンドミニアムが建ち並ぶ海岸沿いのエリアだった。周辺をバイクで徘徊しながら一軒ずつ確かめるように探し見て回る。程なくして奥様に言われた名前のコンドミニアムは見つかった。周囲に建ち並ぶ高層ホテル群に比べると背も低く幾らか古く見えるが、それは西洋風の堅ろうな造りの建物で、敷地内の随所に南国植物が生い茂る、落ち着いた佇まいのコンドミニアムだった。
さっそく敷地内に進入しようとすると、すぐに入口の警備員に止められた。どうやらニケツのバイクで乗り込もうとしたことから如何わしいタイ人にでも間違えられたようだ。「我々は日本人で、ここに住んでいる△△さんという友人を訪ねてきたんだ」とリュウさんが説明したが、流暢とも言えるタイ語がかえって警備員の警戒心を強めたようで、「IDカードかパスポートを見せろ!」とぞんざいな態度で返された。その対応に幾分腹を立てた様子のリュウさんは、それに応えず、携帯を取り出して奥様に電話をかけた。
「わざわざゴメンなさいねー。警備員に止められちゃったんでしょう?よくあることなのよー」
数分もしないうちに、奥様が小走りしながら我々の前に姿を現した。
社長婦人と聞いていたので、さぞかし派手な化粧と高級ブランド服に身を包んだようなセレブな雰囲気の奥様が登場するのだろうと僕は勝手に想像し、半ば緊張しながら身構えていたが、実際はシンプルなワンピースを身にまとった化粧っ気のない愛想のいい奥さんだった。今、会ったばかりの正体不明の我々に対して不信感のような素振りを全く見せることもなく、屈託のない笑顔を浮かべて挨拶してきた奥さんに僕は好意的な第一印象を抱いた。
「突然すみません、ご無理なお願いをしてしまいまして…」
リュウさんが改まった態度で挨拶し、僕も一緒に頭を下げる。
「いいのよ、別に大したものじゃないから。こちらでいいんですよね?」
奥さんは手にした紙袋をリュウさんに手渡した。すぐに僕が中身を確認する。
「はい、これです。本当にありがとうございます。わざわざお時間を取らせてすみませんでした。すぐにお返ししますから…」
「そんなに急がなくてもいいから、その際はまた連絡くださいね。お昼時は大抵、家にいますから。あれだったら○○さんのお店に預けてもらっても構わないですから」
「はい、ありがとうございます。それで、その○○さんからご主人が格闘技好きだと伺いまして、ソフトをお借りするお礼といっては何ですが、よろしければこちらをお渡しください。ボクシング現世界チャンピオンのサインつきグローブです。誰のサインかは中にメモ書きを入れてますので。多分、ご主人ならお分かりになるかと思います」
「あらっ、それはすごいわね。わざわざ気を使わせてしまってすみませんねー、ありがとうございます。きっと主人も喜ぶと思います。ところで暑い中、立ち話もなんだから、よろしければ部屋にあがって少しお茶でもいかがかしら?」
「いえいえ、そんなご主人の不在時にお邪魔するのも失礼ですから。またソフトをお返しする際にご連絡いたします。この度はありがとうございました」
「あら、そう、それじゃあ、よろしくお願いしますね」
その晩、奥さんから改めて手土産のお礼の電話がリュウさんの携帯にかかってきた。格闘技好きの旦那さんがプレゼントを殊のほか喜んでくれたようで、ぜひ僕らに直接会ってお礼と話がしたいと、会食の誘いを受けた。それから数日後、僕らは一役買ってくれたオーナーの店に伺い、夫妻と食事の席を共にして色々とご馳走になった。リュウさんは大手企業の現地支社長である旦那さんにも何ら臆することなく、いつもと変わらない態度で僕らの話をし、自らのボクシング話を嬉々として語った。旦那さんは僕が想像していた以上の格闘技通で、二人は聞いてもよく分からないマニアックな選手の格闘技談義に花を咲かせていた。
奥さんはその様子を見て苦笑いするばかりで、僕は頼もしきパートナーであるリュウさんの存在をただ誇らしく感じるだけだった。
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