第18話)パタヤに巣くう男たち
男に出会った翌日のことだった。朝遅く、ベッドの中でもぞもぞする気配を感じ目を覚ますと、隣で寝ていたクンが眉間に皺を寄せて「ナーウ、ナーウ」と寝起きの僕に訴えかけてきた。「ナーウ?Now?今?」、何を言っているのか訳も分からず僕が戸惑っていると、クンは面倒くさそうな面持ちでエアコンを指差す。
「You Cold?寒いの?」、英語で尋ねても彼女は「ナーウ」を繰り返すばかりだ。どうやらタイ語で寒いと言っているらしいと判断した僕が、壁に装着されたリモコンで冷えた室内の設定温度を上げると、クンは少し機嫌を損ねた様子でタオルを手に取り、シャワー室へと消えていった。
クンと知り合ってから、ホテルで二人きりになると、このようなことは度々あった。タイ語が話せない僕は片言の英語で会話するしかないのだが、クンの英語力はまさに必要最低限といった初級レベルで、ほとんどが意味不明のタイ語をごちゃまぜにして話しかけてくる。僕は彼女が英語で話しているのか、タイ語で話しているのか、まず判断しなければならず、理解できないことが多かった。
初めて夜を共にした日もそうだった。翌朝「ヒーユ、ヒーユ」とお腹を押さえて連呼するクンに、僕が?を浮かべていると、「アンクリー、アンクリー」と今度は英語らしい言葉で説明しようとする。「アングリー(怒ってる)?いや、ハングリー(腹が減った)と言っているのか」と理解するまで時間を要することが多々あった。その都度、うんざりしたような表情を浮かべるクンを見て少し悪いなと思い、僕は一つ一つカタカナでメモしてタイ語の単語を覚えるようになった。
シャワーを浴び、衣服に着替えたクンが腹が減ったというので、近くに食事に出かけた。泊まっていたホテルはソイハニーインという通りにあり、少し歩くとソイブアカオと呼ばれる安宿が建ち並ぶ幾分賑やかな通りに出る。ゲストハウスとでも言うのか、その手の安宿は1階部分が食堂になっていることが多く、タイ料理のほか欧米人向けの朝食メニューがあるのでよく利用した。適当な店に入り、僕はアメリカンブレックファースト(食パン、ベーコン、目玉焼き、オレンジジュース、食後にコーヒーのセット)を頼み、クンはお粥のようなタイ飯を食べていた。
食事を終えると、クンが「ゴー・ホーム」と僕に告げてきた。ああ、家に帰るのかと「オーケー」と返答すると、「ユー・ゴー?」と重ねて尋ねてくる。僕を彼女の住まいに連れて行こうと誘っているのだろうか。アパートなのか、ここからどれぐらい離れているのか、どんな所に住んでいるのか、すぐに興味を覚えた僕は、さして昼間にやることもないので、軽返事でその誘いに応じることにした。感情の起伏が激しい子供のような性格のクンが喜んでいる様子だったので、僕は嬉しくなり意気揚々と会計を済ませた。
バイタクでも使うのかと思っていたが、食堂を出てクンはブアカオ通りを闊歩し始めた。住まいのアパートはこの辺にあるのだろうか。車二台がようやく通れるぐらいのさほど広くない通りでは、乗り合いタクシーのソンテウやバイクが群れをなすように砂埃を巻き上げながら行き交い、通りを歩く人は簡素な恰好をした長期滞在者らしき欧米人や、バックパックを背負って宿探ししているような欧米人ばかりだ。午後の烈しい陽光とそれを浴びたアスファルトからの照り返しで、またたく間に大粒の汗が身体から噴き出してくる。
10分と歩かずにクンは通りに面したセブンイレブンに入った。丁度良かったと二日酔い気味の身体にスタミナドリンクとミネラルウォーターを購入する。店前の軒先で水分補強がてら休息していると、クンの友達のガイが現れた。電話で待ち合わせでもしていたのだろうか。その辺から歩いてきた感じを見ると、近くに二人で住んでいるアパートがあるのかもしれない。ガイはアディダスの文字列を並べ替えたようなコピー商品らしき小さなボストンバックを手にしている。今からどこかへお出かけでもするのだろうかと僕が関心を寄せていると、クンが再び「ゴー・ホーム」と僕に向けて告げた。
クンとガイの二人はその辺に屯しているモトサイに声をかけ、何やら交渉している。そして、僕を手招きして呼び寄せた。全く状況が掴めない僕にクンがあやふやな言葉で説明したところによると、どうやら三人一緒にどこかへ行こうとしているようだった。たまらず僕が「Where We Go?」と尋ねると、再び「Go Home」と返してくる。まさかそのホームというのは彼女たちの田舎という意味なのではないか?とようやく理解し、そのホームというのは一体どこなんだ?と尋ねると、「ラヨーン」という言葉が返ってきた。
えっ、えー!?今から田舎に帰ろうとしていたのか。それにラヨーンってパタヤからどれぐらい離れているんだ!?僕は以前に恋していたタイ人女性ジョイがウドンターニーという東北地方の出身だったこともあり、パタヤの夜の街で出会う女性たちは遥か遠くの田舎から出稼ぎに来ているのだと勝手に想像していたので、じゃあ、もし田舎に行くんだったら一旦ホテルに戻って簡単な荷物を持って行かなければ、それに泊まりになるんだったら着替えも必要だし、とにかく、こんな身軽な感じでついて行くわけにはいかないと、あれこれ不安が込み上げてきた。クンは早くしろと急かすような態度で、僕をバイタクへと促す。
「こんにちはー!どうかしましたかー?」
まさにグッドタイミングと言うべき丁度いい時に、現れたのは昨晩カラオケで出会った男だった。リュウという名前の日本人長期滞在者だ。
「いやぁ、実は彼女たちが今から田舎に帰ると言うんで、僕も一緒にどうかと誘われているんですよ。それでついて行こうかどうか今ちょうど考えていたところで…」
すると、男はクンに何やらタイ語で話しかけ、しばらくすると、僕に通訳するように告げてきた。
「なんでも今から二人で田舎に帰るらしいよ。日帰りの予定だって。夕方頃にはパタヤに戻ってくるって言ってるけど」
「ああ、そうなんですか。すみません、ありがとうございます。それで田舎はラヨーンっていう所らしいんですが、パタヤからどれぐらいかかるか分かります?」
「ラヨーンだったら、パタヤから車で片道1時間~1時間半ぐらいだと思うよ。多分、ソンテウかタクシーでもチャーターして行くんじゃない。おそらく一緒について行ったら、その交通費を全部払わされると思うけどなぁ」
「***** *****?」 僕との会話に何かを感じた男が、再びクンに何かタイ語で問いかける。そして、もはや通訳者のように僕に説明してくる。
「乗り合いの車で行くから片道150バーツぐらいだって言ってるよ」
「ああ、それぐらいだったら別に払ってあげても大丈夫ですよ。日帰りで4~5時間ぐらいなら、ちょっと観光気分で行ってもいいですし。どうしようかなぁ……」
「でも分からないよ、後でタクシーで行こうと強請ってくるかもしれないしね。それに日帰りだって言ってるけど、多分、家族とか友達に会ったりして、色々と向こうで金を使うようなこともあるだろうけど、君にお願いして色々と払わされることになるかもしれないよ。うーん、俺は一緒について行くことはあまりお勧めできないかなぁ。まあ、もちろん君次第だけど」
「ああ、そうなんですか…」
財布の中には両替した数千バーツが入っている。交通費を全て支払ったとして、食事か何かで使うことはあっても1,000~2,000バーツ程度なら別に構わないか。まあ、それぐらいなら観光がてら行くのも悪くはない。僕はある程度の出費を覚悟した。
「まあ、でも、1,000バーツか2,000バーツぐらいまでなら大丈夫なので、行ってみようかなぁ…」
ふと呟くように僕が言うと、突然、男の背後からもう一人、知らない男がその場に割って入るように現れ、僕に向けるように自分の意見をつらつらと並べ始めた。
「あのさー、さっきから聞いていて、ちょっと悪いんだけどね。君が一緒にいる子ってバービアで働いてる子なんだよねー。それは一夜限りで楽しむものでさー、一緒に家について行っても色々散財するだけでね、あとで面倒くさいことになると思うよ。それだったらさー、今晩は違う子を別の店で探してさー、楽しんだほうがいいんじゃない?お金はそっちのほうに使ったほうが賢明だと思うけどなー。どうせ君もパタヤの夜遊びが好きなクチなんだろう?そんな若くして一人でパタヤに来てるんだからさー」
「まぁまぁ、シェフ。落ち着いてくださいよ。でも、シェフ。ああ、ごめんね、彼シェフというあだ名なんだけど、シェフが言ってることも、まあ、まんざら間違ってないと思うよ。彼は若い頃からアジアを放浪しているような人でね、ちょっと変わってるんだ、ごめんね」
「は、はぁ、、、」 全くここは日本でもないのに大きなお節介だなぁ。と内心では思いながらも、僕は彼ら二人からの押されるような会話に影響されるように、クンとガイの二人について行くことが面倒くさくなってきてしまった。それを察したのか、あるいは僕を待ちきれなくて諦めたのか、クンとガイは怪訝な視線をこちらに向けながらバイタクに乗り、走り去ってしまった…。
「あー、行っちゃったねー。まあ、いいんじゃない。それで、俺らは今から昼飯にでもと出てきたところだったんだけど、もうご飯は食べたの?よかったら一緒にどう?」
「いえ、さっき彼女と食べたばかりだから大丈夫です。僕は一旦ホテルに戻ります。すみません、色々と面倒かけて、ありがとうございました」
「いやいや、大丈夫だよ。俺らはすぐそこの通りにあるホリデイっていうホテルにいるからさ。また何か困ったことがあったらいつでも来てよ。それで君はどこのホテルに泊まってるの?」
「ハニーインという通りにあるシーブリーズというホテルです」
「ああ、あそこか。いいところに泊まってるね」
「そうですかね。では、色々とありがとうございました。また、、、」
「ああ、またねー」
二人の男たちは嵐のように現れ、去っていった。独りぼっちになり、どっと疲れが沸いてくる。僕はホテルへは戻らずに、パタヤビーチまでふらふらと歩いていき、いつものように適当にビーチチェアに収まるとシンハービールを頼んだ。
バイタクでの去り際にクンがこちらに向けていた呆れるような鋭い眼つきを思い返し、申し訳なかったなという反省と共に、まあ、別にどうでもいいか、もう会いに行くのはよそう、という思いに包まれた。それにしても、あの男といい、一緒にいた連れの男といい、二人はいったい何者なんだ。僕は再び、言いようもない孤独感に苛まれていた。
夕暮れ時までぼんやり海で過ごし、ホテルに戻ると、シャワーを浴びて、しばし仮眠する。
クンはもうラヨーンから戻って来ただろうか。いや田舎に帰ってるんだから、もしかしたら今晩は一泊するかもしれない。またあの男たちに会うかもしれないし、クンの店はやめておこう。どこか他の店にでも行くか。そうだ、エビスさんと一緒に行った近くのソイ10辺りでのんびり呑むか。夜になると、どこか気晴らしに出かけたい気分になり、宿近くのバービアにふらっと足を向けた。
星空天井の下、剥き出しのコンクリートに並べられた石造りのテーブル席にだらり腰を据えて、酒を煽る。寄ってきた数人の女性たちに酒を奢り、定番ゲームに興じ、久々に飲み騒いだ。数時間もすると、すっかり酔いが回り、僕は周囲の様子などどうでもよくなるぐらい御機嫌に酩酊していた。
「こんばんはー!酔っ払ってるみたいだけど大丈夫ー?」
聞き覚えのある声を耳にし、振り返ると、あの男が僕らのテーブルを覗き込むようにして現れた。連れの男も一緒だ。
僕はまた面倒くさいことになりそうだと不安に駆られながらも、酔いどれの身体を起こし、「こんばんは」と二人に告げた。
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