第17話)パタヤロンリーナイト

「日本はもう寒くなっているんだろうか…」


大通りに面したカフェの軒先テラスでぼんやり日本に思いを馳せ、煙草を吹かしていると、目の前に一台のソンテウが滑り込んできた。バックパックを肩に担いだ数人の欧米人が、パタヤに到着した喜びの声を口々に発しながら、弾けるような笑顔で、その乗り合いタクシーから降りてくる。


「Hiー!What's Up Manー?(やぁ、調子はどうだい?)」


その様子を眺めていた僕と目が合ったヒッピー風の男が陽気に挨拶の言葉を投げかけてくる。無理やり取り繕ったような笑顔を送り返す。そこは僕が泊まっている宿近くにあった中級ホテルで、1階部分がロビー兼インターネットカフェになっている。深夜遅く眠れずにふらっと部屋を出て、24時間営業だったので入った店だった。


愛想のいい清楚なタイ人女性の従業員がいて、勧められるままにお得なインターネットパッケージ券を購入してしまった。「1週間の有効期限内で**時間利用可能」みたいな接続パスワード付の紙切れだ。とは言っても、特にインターネットで調べたい事もなく、時間を持て余した僕は、無料でサービスしてくれたコーヒーを手に、軒先で無気力に煙草を燻らせるだけだった。


日本を飛び出してから久しぶりに、というか今回旅先で初めてメールをチェックした。恐る恐るホットメールにログインしてみると、迷惑メールばかりで誰からもメッセージは受信していないようだった。日本では自分はもう忘れられた存在なのかもしれないと孤独感を抱きながらも、弟から連絡が来ていなかったので少し安心した。


僕が日本を離れてタイに来ていることは誰にも教えていなかった。いや、渡航前に唯一連絡を取り、事情を伝えていたのが実家にいる弟だった。両親にはまだ仕事を辞めたことすら伝えていない。東京で一人暮らしをしていた僕は、田舎の両親とは余程のことがない限り、電話連絡は取っておらず、1~2ヶ月に一度ぐらいの頻度だった。


仕事を辞める前に何年かぶりに帰郷し、もしかしたら会社を辞めるかもしれないと伝えていたが、親父から懇々と諭されていたので、まさか本当に辞めているとは思ってもいないのだろう。


「もし、父ちゃん母ちゃんから俺と連絡がつかないと不審に思われるようなことがあったら、兄貴は仕事を辞めて、海外に行っているとでも伝えておいてくれ。その時はメールに連絡してくれ。ばれるまでは絶対に言わないでくれよ。頼む…」


僕は事情を知り驚く弟にそれだけ電話で伝え、メールを送信しておいたのだった。


誰かがバービアの鐘を鳴らしたのだろうか。視界に入ってくる通りの向こうから、男女入り混じった乾杯のどよめきが聞こえてくる。パタヤを彩るピンクネオンは闇夜を迎えても相変わらずそこかしこに灯り、街は眠る気配を感じさせなかった。


エビスさんが帰国し独りになってからは、盛り場へ足を向けることも少なくなった。ソイ7のバービアで知り合ったタイ人女性、クンに会いに酒を飲みに行くことはあったが、その店だけで、飲み歩くことはなくなった。


昼間ふらりとパタヤビーチまで歩いて行き、ビーチチェアに腰を落ち着けると、湧き上がってくる焦燥感を振り払うように酒を呑む。炎天下じりじりと照りつける太陽に思考を溶かしてもらうように我が身を晒す。


目の前に横たわる地平線を虚ろに眺めていると、波間を漂う船が人生の象徴のように感じられ、ちっぽけな自分の人生が今後どのように流れていくのかなど大したことではないように思われた。ただ、何か大きな力によって生かされている自分というものを感じるだけだった。


さして目的もない、とりとめのない日々は、しばらく続いた……。


ある晩、久しぶりにクンの働く店に足を向けた。エビスさんが居るときは、いろいろとタイ語で通訳してくれていたので場持ちしていたが、彼が帰国し独りになると、クンとの会話も弾まなくなった。タイ語が話せない僕は、彼女と片言の英語で会話していたが、クンの英語力も高が知れていて、言葉が通じないもどかしい時間が増えることになる。バービアでの定番ゲームも回数を重ねるうちにつまらないものになるだけだった。


その埋め合わせとなったのが、クンの友達で同じ店で働くガイだった。タイ語で「海老」という意味合いのクンに対し、ガイとは「鶏肉(チキン)」という面白い組み合わせだった。歳も同じである二人は同郷の幼馴染らしく、共にパタヤに出てきて、パタヤでは一緒に住んでいるとのことだった。エビスさんが帰国してからは、そのガイが席を共にすることが多くなった。


その晩、クンに強請られ、僕は二人を連れ出して遊びに行くことになった。ペイバー(連れ出し料)は一人200バーツなので大した額ではない。頭に溜まったモヤモヤを払拭したかった僕は、久しぶりに誰かと飲み騒ぎたい気分であったし、何より退屈そうにしているクンを喜ばせてあげたかったのだ。


二人に連れて行かれたのは、僕が泊まっているホテルからさほど遠くない場所にある小さなカラオケ店だった。薄暗い店内に足を踏み入れると、客層は見るからに水商売系のタイ人女性が大半を占めており、こじんまりとしたソファーのボックス席で酒盛りをしながらカラオケに興じている。


店員は若いタイ人男ばかりで、胸元をはだけた黒のワイシャツを着用し、茶髪の頭は鶏冠(とさか)のように派手にセットされ、僕にはそれが漫画ドラゴンボールに出てくるスーパーサイヤ人のように見えて仕方がなかった。よく見るとうっすら顔にメイクをしている輩もいて、客席を行き来しては、お酒を作ったり、女性客の隣に座り一緒に歌を歌ったり、日本でいうホストクラブのような雰囲気を漂わせていた。


誰かお気に入りの店員でもいるのだろうかと、僕はクンとガイの様子を窺っていたが、二人はいつものようにSPY(ワインクーラー)を頼み、男たちには目もくれずにカラオケに夢中の様子だった。タイの流行歌なのだろうか、他の客の順番を無視するように次々と曲をリクエストし、カラオケボックスでマイクを奪い合う女子高生のように、嬉々としてカラオケに勤しんでいた。


つまらなそうにする僕に気を使ったのか、「あなたも歌いなよ」と分厚い冊子を渡されたが、それは当然のようにタイ語ばかりで意味不明だった。もちろん日本の曲などなく、巻末のほうに英語の曲が少しだけ掲載されていたので、僕はその中から大好きな歌手であるエリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」を歌ってみた。当然のように二人は知らない様子で、場はしらけた空気が漂うだけだった。僕は二人の歌に耳を傾けながら、暇を持て余すようにハイネケンを何度となく口に運んだ。


「こんにちはー、日本の方ですか?」


店に入って小一時間ほど経った頃だろうか。うるさい店内で突然日本語を耳にし、ぼんやり眺めていたカラオケモニターから慌てて視線を戻すと、知らない男が我々のソファー席の前に立っていた。白いNYのキャップを目深にかぶり、薄暗い店内でギラギラした鋭い眼光を向けてくるその男を見て、僕は「こいつは何者だ!?」と心の中で身構えた。


不信感を覚えるような僕の曖昧な表情をくみ取ったのだろうか。その男は「俺はそこにいる二人の知り合いでリュウと言います」と流暢な日本語で自己紹介してきた。なんだ日本人だったのか。僕はその男の彫りの深い顔立ちから、怪しいタイ人か、どこぞの外国人なのではないかと勘違いしていたのだった。


どうやら退屈そうにしている僕を気遣って、クンとガイの二人が彼を電話で呼び出したようだった。僕は人見知りの性格もあり、自分が旅行でパタヤを訪れていることを簡単に伝えたが、その男の身なりや風貌から滲みでる正体不明の雰囲気から、どうしても懐疑心を拭うことができず、挨拶もそこそこに適当にあしらうように会話を終わらせた。


その男はずうずうしくも僕らの席にどっかり腰を据えると、近くにいたボーイにハイネケンを頼み、クンとガイの二人と何やらタイ語で話し始めた。二人は見る見るうちに明るい表情になり、楽しそうに三人で談笑している。「いったい彼は二人とどういう関係なんだ?それに彼が頼んだ酒も僕が奢らないといけないのだろうか?」


僕はせっかくの時間を邪魔されたような気分になり、面倒くさいことになったと、仏頂面で三人の様子を窺いながら酒を煽る。再び男が声をかけてくる。僕の表情を繊細に読み取ったのか、彼は弁解するように、二人が働く店によく飲みに行っているだけで特に男女関係のようなものはないこと、そして、タイに長期滞在しているのだと僕に告げた。


「ああ、そうなんですか…」と僕は話を遮るように相槌を打つ。すると彼は「ここは日本のホストクラブみたいな店だから、あまりお勧めできないよ。こんな店に連れてきて、こいつら最悪だなぁー」とクンとガイの二人を批難するような言葉を言い放った。


「まあ、大丈夫ですよ…」と僕は返答したが、心の中では「別にそれがどうしたっていうんだ、全く大きなお世話だ」と呟いていた。


それから、その男に水を差されたような形になってしまったカラオケの宴は興醒めに終わった。僕が会計を全て支払うと、彼が自分の飲んだ分を渡してきたので、僕はそれをぞんざいに受け取った。もう二度と会うこともないだろうと、適当に別れの挨拶を交わすと、クンを連れてホテルへ戻った。


男に指摘されたように、あの店は確かにホストクラブのような雰囲気を呈していた。僕は都合のいい客のようにクンとガイの二人にうまく利用されただけなのだろうか。僕は少なからず自尊心を傷つけられたような感情にとらわれたが、所詮旅行者なのだから別にいいではないかと自分を納得させた。


しかし、その日を境に、僕のクンに対する想いは、男が発した言葉に影響されるように醒めていくばかりだった。


そして、最悪な第一印象となったこの男との奇妙な出会いこそが、その後、僕のタイ移住を加速させることになるのだった。

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