第10話)カンボジア夢幻の10日間

ふと、あの時代、あの年に訪れたカンボジアに思いを馳せ、断片的だが心を大きく揺さぶったプノンペンでの記憶たちが、フラッシュバックのように蘇ることがある。


砂埃を巻き上げ執拗についてくるバイクタクシーの群れ、セントラルマーケットで見かけた廃人の目をしたストリートチルドレン、ドラッグと犯罪の臭いが蔓延するディスコ、売春置屋村スワイパーでの衝撃、虐殺博物館トゥールスレンでの悪夢、薄汚れた安宿と隣接する小学校の牧歌的な光景、そして、言葉少なくとも濃密な時間を過ごしたカンボジア人女性スレイラとのめくるめく官能の熱帯夜……。


それまで何度かタイに足を運んでいたが、街並み、商業施設、治安、想像しうる人々の生活と、どれをとってもタイを訪れた時に感じた印象とは異質のものだった。いや昔のタイも同じようなものだったかもしれないし、日本だって江戸末期や明治、大正時代まで遡れば同様の光景が広がっていたのかもしれない。


ただ、僕はのどかだが混沌とした猥雑な空間と、そこに潜む闇、危険、貧困など、ポルポト時代の爪痕をまざまざと見せられ、ぬくぬくと平和な日本で育ち生活してきた自分と、同じ時代で、同じ一つの人生であることに、重くどんよりとしたカルチャーショックを覚えた。


あれ以来、カンボジアのプノンペンには足を向けていない。近年では外資系の進出と共に街並みも発展し、都市化が進んでいるようだが、あの鬱屈した暗黒時代の最後を体感したことは、僕のその後の人生に少なからず影響を与えていることも確かである。


滞在期間はたったの10日間であったが、それは暗澹たる熱気に侵された甘く濃密な記憶でもあり、今となっては夢か幻のようにも感じる10日間であった。


プノンペン滞在最後の夜、僕はスレイラに別れの時が来たことを告げた。


彼女は滞在二日目のディスコで出会ってから、毎晩のように僕の部屋を訪れていた。ある程度、荷造りを終えたバックパックを指差し、バイバイと手を振り、別れの意思を伝える。彼女はいつものように訳が分からないといった表情で、はにかんだ微笑を投げ返してくる。持参していた地球の歩き方(カンボジア版)を手に取り、巻末にあるカンボジア語の用語集を指でなぞり、彼女に指し示す。


「チョムリアップリア(さようなら)」


「オークン(ありがとう)」


ようやく思いが伝わったのか、スレイラは眉間に皺を寄せ、困ったように神妙な面持ちで何か呟いていた。僕は湿っぽい空気になるのを避けるように、持参していた使い捨てカメラを手に取ると、それをスレイラのほうへと向けた。


当時カメラというものに全く興味がなかった僕は、自分が写真に納まることも嫌いだったし、デジカメすら所有していなかった。ただ、タイなど海外へ足を運ぶ機会がある時に限り、俗称バカチョンカメラと呼ばれる最大36枚撮りの使い捨てカメラを近所のディスカウントショップで購入し、ちょっとした旅のお供にした。全て撮り終えれば、現像代が安価な現地のカメラ屋で写真にし、それを他人にあげたり、自分の思い出にしたりした。カメラ付き携帯もまだ一般に普及していないような時代だった。


「ジーコ、ジーコ、ジーコ、、、カシャ」


カンボジアに足を踏み入れてから、ほとんどシャッターを切っていない使い捨てカメラをスレイラに向ける。写真を撮られた経験が少ないのか、彼女は戸惑うように緊張するような固まった表情を浮かべた。「スマイル、スマイル!」と僕が笑顔を促し、フイルムを巻いてはシャッターを切り続けると、恥ずかしそうに目尻を下げ口元を緩ませた。


ようやく数枚を撮り終えたところで、彼女は僕の手からカメラを奪うように取り上げると、それを小脇に隠すような仕草を見せ、カンボジア語で何か訴えかけてきた。「このカメラを私に頂戴…」とでも言っているらしかった。だが、フイルムの残り枚数を表示する文字はまだ半分ほどしか刻まれていなかった。


「Camera No Finish!」と手を振り、それを彼女に伝えようとしたが、スレイラは窓の外を指差し、「今から街に出てどこかのカメラ屋で現像して…」とでも訴えかけているようだった。


「もう夜も遅いし、店も閉まっているよ。そもそも、どこにカメラ屋があるのかも分からないし、スレイラは知ってるの?」


僕はそのようなことを伝えるために、片言の英語と身振り手振りで彼女に意思表示したが、どこまで理解してくれたのか、彼女は幾分潤んだ鋭い目つきで僕を見つめ、それを返すまいと、駄々をこねる子供のようにカメラをギュッと小脇に抱えなおした。このカメラ自体が欲しいのだろうか、それとも自分の写真が欲しいのだろうか。訳も分からず戸惑っていると、彼女はようやく諦めてくれたのか、カメラを僕に返してくれた。


そして、スレイラは首から提げていたネックレスをおもむろに外し、僕に見せた。


それはシルバー製というより市場等で売られているような安物のアクセサリーといった感じで、ペンダントトップには女神のような女性の姿が刻印されている。その小さなチャームを彼女が指先で弄ぶと、それは開閉式のロケットペンダントであった。


中には浅黒い顔立ちをした高齢の男性らしき、色褪せた写真が小さく切り取られ収められている。その写真の人物はスレイラの父親のようで、彼女は淡々と手で首を斬るポーズを僕に見せた。


彼女の父親もまたポルポト時代の悲しき犠牲者の一人なのだろうか。返答しようもない絶望に似た感情に胸を苛まれていると、彼女は僕の胸元を指でつつき、それからペンダントを指し示した。


僕の写真もロケットの中に入れたいと言ってくれているのだろうか。僕は財布の中に保管していた、カンボジア入国時のビザ(査証)用に撮っていた証明写真の残りをスレイラに手渡してみた。すると彼女は嬉々とした表情を見せ、その数枚の小さな写真を全て僕から奪い取ると、ベッドに寝転がり、大切そうにずっと眺めていた。僕はそんな彼女がいじらしくなり、自分への好意に対する嬉しさと切なさで胸が一杯になった。


それまでは終始シャイで受身な態度を取っていたスレイラだったが、本当に最後の晩だと感じてくれたのか、その日は、それまで以上に僕に寄り添い、何度となく僕を求めてきた。


深夜になり寝入ってしまった僕がベッドでモゾモゾする気配を感じ、ふと目を開けると、暗がりの中、隣に寝ていたスレイラが目に涙を浮かべ、じっと僕を見つめていた。彼女の顔を優しく手で拭い、抱きしめてあげるぐらいしか、僕に出来ることはなかった。


スレイラは大きく垂れ下がった目をくしゃくしゃに歪ませながら、僕との別れのために泣いてくれた。それから僕らは眠ることなく朝を迎えた。


言葉も通じない彼女、携帯など持っていない彼女、連絡先すらも分からない彼女。僕はスレイラに「またその内、会いにくるから…」と告げたが、同時に「もうカンボジアへ来ることはないだろうし、彼女とはもう二度と会うことはないだろう…」と非情な心が呟いていた。


翌日早朝、エビスさんが激しくドアを叩く音が、残酷にも僕らの別れを告げる合図となった。


ホテル前のバイタクにスレイラを乗せ、彼女を見送る。


別れの時はあっという間に訪れ、瞬く間に過ぎ去っていった。


感傷的な二人を切り裂くように、熱帯の烈しい朝の日差しがじりじりと突き刺していた。

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