第9話)クメールルージュの残骸
「こんなアジアくんだりまで来て、俺はいったい何をやってるんだ…」
この国に初めて足を踏み入れた当初は衝撃の連続だったが、カンボジア滞在も数日が過ぎると、僕は心に余裕ができて来たのか、物思いにふけることが多くなった。でも、それは決まって昼過ぎの時間帯で、スレイラがいなくなり、ホテルで一人になった僕は、窓辺の椅子に腰掛け、ぼんやりと眼下に広がるプノンペンの光景を眺めながら、自分の人生について思いを巡らせた。
「友人のTに頼んで、彼が働く会社にでも入れてもらうか?いやいや、東京でテレビ関係の仕事はもう無理だ…。いっそのこと田舎に戻って、地元のテレビ局で働くってのはどうだろう?そういえば同郷のHさんが、もし福岡に戻ることがあれば系列局なら仕事先を紹介してくれるとか言ってたなぁ。いやいや、でも、それじゃあ、同じことの繰り返しだ。でも俺には大した取り柄もない、手に職も何もない。そんな俺が日本に戻って今後、何ができるっていうんだ。そもそも、俺はいったい何をやりたいんだ?何者になりたいんだ?どんな人生を歩んで行きたいんだ…」
自分の置かれた日本での現実に目を向けると、焦燥感ばかりが脳内を駆け巡り、答えが行きつく先はどこにもなかった。ただ、頭の中に飛び交うハエを追い払うように、その思考を捨て去り、のんびりと目の前に広がる牧歌的な空間に身を任せた。
「知り合いが、昨晩から来てるはずなんですよ。ヒロ君、ちょっと会いに行きたいので付き合ってくれませんか?」
ある日の午後、置屋村から戻ったエビスさんが僕を誘いに部屋を訪れた。聞くと、その知り合いは毎月数回カンボジアに足を運んでいるようで、それは決まって週末にかけて3日間ほどの滞在ということだった。
「ヒロ君、彼に会ったら、ビックリすると思いますよー。すごい強烈なキャラの持ち主ですからー(笑)」
「そ、そうなんですか…?」
これまでプノンペン滞在中に見てきた日本人たちは、皆それぞれ圧倒的な個性を身にまとった面々だったので、どんな人物なのかはある程度予想ができたが、あのアパートの一室を訪れた時の衝撃は僕の想像を遥かに凌ぐものだった。
定宿から15~20分ほど歩いただろうか。ゲストハウスや食堂が軒を連ね、夕暮れ時になると屋台が通りに並ぶ、幾分栄えたエリアから少し歩いたところに、その男の仮住まいはあった。それはアパートというよりは鉄筋マンションのような建物で、見るからに富裕層が住むコンドミニアムといった雰囲気を漂わせていた。エビスさんを先陣に彼の部屋へと足を向ける。
エレベーターを降り、部屋のブザーを鳴らし続けて、数分ほど経過した時だった。ゆうに100キロを越すであろう、巨漢の男が半裸のパンツ一丁姿で、面倒くさそうにドアから顔を覗かせた。顔や身体からは大量の汗が噴き出るように流れ出している。男は黒縁のメガネをかけ直し、我々をしげしげと見つめる。すかさず、エビスさんが「○○さん、お久しぶりですー!」と満面の笑みで挨拶を投げかける。怪訝そうな顔をしていた男の顔がようやく緩み、僕らを部屋へと招き入れた。
室内は15畳以上はある広々とした空間で、暗がりの中、青く光るブラックライトが天井から怪しげなムードを演出している。黒を基調とした特大のキングサイズベッドの脇には、シンプルな黒い革張りのソファーとガラステーブルが整然と配置され、テーブルの上では瓶ビールやウイスキー等の酒類のほかコーラの空瓶が散乱している。大型テレビと共にホームシアターと音響システムも整っており、室内にはズンズンと身体を振動させるウーハーと、大音響のディスコミュージックが鳴り響いていた。
行為中に押しかけてしまったのだろうか。幾分乱れたベッドに人の気配を感じ目をやると、黒いシーツの中から幼い顔立ちをした女の子が顔を覗かせた。「ほら、あいさつしなさい!」、巨漢の男が日本語でその女の子に命令するように告げると、彼女はむくっと起き上がり、はにかみながら両手を合わせて「コンニチワ…」と僕らに挨拶をした。中学生ぐらいの年頃なのだろうか、小柄で華奢な幼い体つきに、ピンク色をしたワンピースタイプの可愛いパジャマを身につけている。
「いやーお久しぶりですねー。私はこちらの友人と今10日間ほど遊びに来てるんですが、今日はちょうど週末なので、○○さん来てるかなーと思いましてね。最近も頻繁に来てるんですかー?」
久々の再会を喜ぶようにエビスさんが男に尋ねる。
「そうですね。最近はほぼ毎週来てますね。金曜の仕事を早めに終わらせてJALの深夜便に乗れば、翌日の午前中にはプノンペンに来れますからね。それで土曜、日曜と過ごして、帰りは日曜の深夜便で月曜の早朝着、それからまた仕事ですから大変ですよ…」
汗だくの巨漢男はエアコンがガンガンに効いた室内でメガネを曇らせながら、自慢げに語る。
彼の職業は医者だという。「じゃあ、診察用具なんか使って変態プレイでもやってるんですかねぇ?」と冗談ぽく僕が突っ込んでみると、彼は当然とばかりに、ソファーに置かれていた黒のレザーカバンから聴診器と白衣を取り出し、ニンマリ不適に笑い、得意そうに僕らに見せつけた。
彼が口にする言葉は、躾けとか、教育とか、自分都合の話ばかりで、「アジアの片隅に囲っている無垢な少女を自分色に調教し、いずれ成人したら結婚する…」といったような野望を、唾を飛ばしながら延々と語った。
どんよりと重く湿っぽい陰鬱な空間―。黒縁メガネの奥に潜む闇を感じさせる汗だくの巨漢男と、無邪気に寄り添うカンボジアの少女。映画好きの僕は、コーエン兄弟のバートンフィンクのような世界観、じめじめとした不気味な場面をふと連想してしまい、この男はいつか変な事件でも犯してしまうのではないか…と悪夢のようなイメージに襲われた。
巨漢男の部屋にしばし滞在した後、ホテルへ戻る途中、エビスさんが僕をとある安宿に案内した。キャピトルゲストハウスという名前のプノンペン界隈では有名な宿のようだ。一階にある食堂では置屋村で見かけた日本人の親父たちがテーブルを囲み、その日の反省会を兼ねた宴会に興じていた。
夕暮れ時を迎えた通りには屋台が並び、現地の人々が行き交い、鶏の焼ける匂いにつられて野良犬たちが辺りを彷徨っていた。
プノンペン滞在も終盤になった頃だったろうか。ある日の午後、スレイラが部屋を後にし、一人になった僕は観光がてらトゥールスレンに足を向けてみた。定宿の前にたむろするバイタクの親父に「行ってみないか?」と誘われたからだった。そこがポルポト時代に処刑場として使われた虐殺博物館であることぐらいはガイドブックの情報で知っていた。ただ、わざわざ足を運ぼうとは思わなかったのだ。
のんびり走るオンボロバイクに揺られて、何分ぐらい走っただろうか。ドライバー親父と雑談しながら向かったので全く覚えていない。ただ、僕の記憶はトゥールスレンに到着した時に目にした独特の光景しか残っておらず、どれぐらいそこに滞在し、どのようにホテルに戻ったのかもよく覚えていない。ただ、あの建物の中で実際見て、肌で感じた戦慄の数々が写真のように切り取られ、おぞましいアルバムのように一枚一枚、記憶の奥にしっかりと刻まれている。
周囲には民家が点在していただろうか。バイタクから降り立った僕の目に飛び込んできたのは、ぎらぎらと照りつける太陽の下で不気味に佇むコンクリートの建物、そして、敷地内を厳重に覆うように張り巡らされた有刺鉄線だった。その物々しい雰囲気に圧倒されながらも、バイタクの親父に背中を押され、一人、敷地内へと足を向ける。入場料は払っただろうか、どのようにして入ったのかも覚えていない。僕の記憶は目を覆いたくなるような残虐な場面へと飛んでいく。
ローシーズンだからか人気も少なく、乾いた空気としーんとした静けさの中、無造作に開放された廃校のような空間。元は教室であった室内には、実際に囚人が繋がれていたベッドや足かせが置いてあり、壁には拷問された囚人の死体写真が生々しく貼られている。水攻め、電気ショック、撲殺といった惨たらしい情景が描かれた説明絵画とともに拷問器具が当時の形のまま展示されている。
数多くの骸骨が粗雑に収められたガラスケース、建物内のあちこちには血痕が残り、重苦しい気分を倍増させる。処刑された人々のおびただしい数の顔写真が並べられており、その前に立ち、一人一人の表情や視線に目を向けると、諦めたように一点を見つめる空虚な黒い瞳の奥、その白黒写真の世界の中に引きずり込まれそうな錯覚を覚えた。
大量虐殺を犯した組織クメールルージュを率いた男、独裁者ポルポトの像は、館内の片隅でぞんざいに置かれていた。
僕が生まれた70年代に起きた惨事、当時をリアルに体感させる生々しい展示の数々に、憎悪、虚脱、哀悼といった様々な感情に襲われた。それは小学生の時、修学旅行で広島や長崎の原爆資料館を訪れた時に感じた戦慄と同様のもので、はだしのゲンや火垂るの墓に初めて接した時のような、得も言われぬ、おぞましい何かに身体全体を覆われているかのようだった。
僕は使い捨てカメラを持参していたが、そこで写真を撮ることなど出来なかった。
校庭だったであろう中庭に出ると、バイタクの親父が待つ出入口へ、力なく歩いて戻る。
振り返り、再び建物の全貌を眺める。異様な光景と静けさの中、急に吐き気を催した。
こみ上げて来る異物を我慢できずに、通りの脇へと駆け出し、しゃがみこむ。
親父に背中をさすられ、僕は見てきた全てを吐き出すように、嘔吐した。
よだれを拭い、ふらふらと立ち上がると、燦然と輝く太陽が容赦なく僕の顔に降り注いだ。
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