第8話)プノンペンデイズ

「カーン、カーン、カーン、カーンー、、、」


乾いた熱帯の風に流された金属音が小気味よく響いてくる。初めはその音色から近くに寺でもあるのかなと思ったが、僕が寝泊りしている安宿のすぐ脇には小学校があった。鐘か銅鑼のようなものを叩いているのだろうか。毎日、決まって昼頃になると、このチャイムと子供たちの騒ぐ声で起こされるようになった僕は、窓辺に置かれた椅子に腰掛け、寝起きの缶コーヒーを飲むのが日課のようになった。


運よく角部屋の3階だったこともあり、窓を開けた視界はプノンペンの小学校と運動場の全体を見渡せる丁度いいサイズで、その光景を楽しむのに申し分ない角度で見下ろすことが出来た。昼休み、体育の時間、そして下校時と運動場で戯れるカンボジアの子供たちをのんびり観察する。それが日本と同じような光景であることに安心し、ただ癒されるように、その空間をぼんやりと眺め続けた。


ホテルの部屋のあちこちからは、真昼間から情事の声や怪しげな奇声が鳴り響き、薄暗い廊下では紫色の煙が立ち込め、鼻をツンと刺激する異臭を漂わせている。ホテルを一本挟んだ敷地の向こうでは、子供たちの無邪気な光景が平然と広がっている。窓辺に座り、昼間からビールを飲みながら、僕はそのギャップに異常な世界を感じながらも、熱帯の空気にドロドロと侵されるように酔いしれていた…。


「ドンッ!ドンッ!ドンッ!」 ドアを激しく叩く音、エビスさんだ。


プノンペン郊外に佇む置屋村スワイパーを訪れたあの日の夕方。ホテルに戻ると、ディスコで出会った女性スレイラが僕に会いに部屋を訪れていた。置屋での衝撃の体験とぐったりした疲れも吹っ飛んで忘れてしまうほど、僕は再会の喜びに胸を躍らせた。シャワーを浴び、彼女とじゃれ合っていると、エビスさんが部屋を訪れた。


「ヒロ君、面白いから、ちょっと僕の部屋まで遊びに来てくださいよー!」


スレイラを部屋に残し、同じフロアにあるエビスさんの部屋を面倒くさそうに訪れる。カーテンを閉め切った薄暗い部屋のベッドの上で、スワイパーで見た先程の女の子が無邪気にテレビを見ながら、ケタケタと笑い転げていた。ベッドの上には大量のお菓子がばら撒かれている。エビスさんは市場で購入したポータブルCDプレーヤーでアジアのPOPソングを流し、カンボジア産の煙草をくゆらせながら、その光景をニコニコと眺めていた。


「す、すごい光景ですねぇ…。このお菓子の山、さっきスーパーで買ってきたんですか?」


「そうです。先ずはこうやってねぇ、喜ばせて、安心させてあげるんですよー」


「まさか、もう、終わった、なんてことは、ないですよね…」


「はい、もうやり終わりましたよ。彼女の×××全く問題なく受け入れ体勢OKでしたよ。あれはもう結構な数、経験してるんじゃないですかねぇ」


「い、痛がったりしなかったんですか…?」


「いえいえ、大丈夫ですよ。でも、快感はまだないんでしょうねぇ、くすぐったがるばかりですよー」


僕は、目の前のベッドで胡坐をかき平然とした表情でテレビに見入っている小さな女の子を見つめ、胸がキュッと締めつけられるような、言いようもない切なさに駆られた。


子供はいないが日本に奥さんがいるこの男は、「20歳位の若い時期にタイを知り、頻繁に通うようになり、タイ人女性との恋に溺れたこともあった」と僕に語ったことがある。とはいえ、酸いも甘いも全て経験してしまった故に行き着いた先なのか、彼はタイのパタヤでは頻繁にオカマを連れ歩いていた。ドラァグクイーンやスーパーモデルみたいなレディーボーイが好きだと言い、自分よりも遥かに身長が高いオカマをとりわけ好んだ。


そして、プノンペンの置屋村では幼い少女を連れ出した。彼は「ロリを連れ出すのは遊び半分ですよー」と平然と笑った。僕はすっかり勘違いしていた。おそらくエビスさんは正真正銘の変態なのであろう。彼はいつも持ち歩いている恵比須顔の仮面の奥に、悪魔のような冷酷な微笑を携えていた。


僕は、それ以降、二度とスワイパーへ足を向けることはなかった。


「コン、コン、コン、、、」 遠慮がちに小さくドアを叩く音、スレイラだ。


プノンペン滞在二日目に行ったディスコで出会ってから、彼女は毎晩、僕の部屋を訪れるようになった。熱帯の強い日差しがようやく傾き、穏やかな西日になる夕刻時、約束もしていないのに、彼女は毎日欠かさず僕に会いにホテルへとやってきた。片言の英語で語りかけても通じない、もちろん文字など読むことも出来ない彼女、そして、タイ語もカンボジア語(クメール語)も全く話せない僕、二人の間では約束事の会話すら成り立つことはなかった。


僕は唯一持ち歩いていた地球の歩き方(タイ版)に続き、この旅に出る前に新たにカンボジア版を購入し持参していた。その本の巻末にある簡単なカンボジア語(クメール語)の用語集を見ながら、スレイラとの会話を試みたが、それは大して役に立つことはなく、僕らはお互いあやふやなボディーランゲージで時を過ごした。僕が滞在期間中に覚えた言葉は「チョムリアップスオー(こんにちは)」と「モイ、ピー、バイ、(1、2、3)」ぐらいだった。


二人で部屋にいる時の専らの暇つぶしはテレビ鑑賞だった。カンボジアの番組は少なく、ほとんどがタイの番組をそのまま垂れ流している感じで、中でも僕のお気に入りとなったのは唯一の日本番組、プロレス中継だった。カンボジアで人気があるのか、専門番組らしきチャンネルがあり、初めは何となく見ていたのが、いつの間にか、僕はアジアの片隅で全日本プロレスに熱狂していた。


1990~2000年頃の日本で放映されていた試合だろうか。部屋に備えられた14インチ程の古ぼけた箱型テレビの中では、プロレス四天王と呼ばれた男たちの熱い格闘が繰り広げられていた。高校時代の同級生や予備校時代の友達にプロレス好きが数人いた。僕は全く興味がなかったが、彼らはプロレスラーの男くささやプロレス興行としての魅力を熱く語り、同じぐらいの熱さで長淵好きでもあった。


彼らが口にしていた記憶の中の名前と、安宿のブラウン管の中で戦う男たちが一致する。いぶし銀のテクニック派「三沢光晴」の渋さ、とにかく熱い男「川田利明」のラリアット連打、力自慢と無尽蔵のスタミナを誇る「小橋建太」、そしてジャイアント馬場みたいな「田上明」。延々と熱闘時代の流れを追うように垂れ流されるプロレス中継を見続けていると、その物語性あるプロレスラーたちの戦いの数々に魅せられ、僕はアジアの安宿で一人はまっていた。


女性であるスレイラもなぜかプロレス番組を見るのが好きで、四天王に対抗する仮面レスラー「ハヤブサ」が特にお気に入りだった。身軽な忍者のようにトップロープから華麗に舞い降り、技を繰り出す姿に二人で歓声を上げた。スレイラは田舎のヤンキー娘のように拳をあげて、僕にじゃれついてきた。夜は飽きもせず何度となくスレイラを抱き、一晩中、その甘い空間に溺れ続けた。


疲れ果てて、いつの間にか眠りにつくと、決まって朝遅く~昼頃にかけて起床し、スレイラは一旦家へ戻る。そして夕刻時になると、服を着替えた彼女は再びホテルの部屋を訪れる。そんな日々が続いた。


化粧をしていない素顔のスレイラは日本では見かけないほど浅黒く茶褐色の肌をしており、スレンダーな細身の体つきにスラリと伸びた首、その上には黒い長髪の小顔を乗せ、印象的に垂れ下がった大きな黒い瞳に見つめられると、僕は陥落するだけだった。僕が何度か経験したことがあるタイ人女性に比べ、更にしっとりとした潤い感ある肌触りに魅了され、僕は愛犬のように彼女の身体にまとわりついた。


一方、エビスさんは相変わらず一人でスワイパー通いを続けているようだ。スレイラがホテルを訪れるようになってから、僕とエビスさんは一緒に行動することが少なくなった。エビスさんは常連さんたち同様、毎日、朝一から置屋村に出勤しているようで、昼過ぎ宿に帰還すると、決まってその日の報告がてら僕の部屋を訪れた。夕方頃から、スレイラと一緒に3人で食事に出かけたり、市場を散策したりして、プノンペン滞在をのんびりと過ごした。


ある日、起床後のブランチを食べにスレイラとセントラルマーケットへ出かけた。その後、彼女はいつものように服を着替えに一旦家へと戻るので、しばしの別れとなるのだが、その日はバイタクを呼んで帰ろうとするスレイラをふと呼び止めた。運転手に行先を告げ、いざ彼女が帰ろうとしている場所は市場からどの方角で、どんな道を通り、プノンペンのどの辺りにあるのか、一体どんな所に住んでいるのだろうか、といった好奇心が一瞬の内に頭に巡ったからだった。


僕はスレイラと一緒について行きたいという思いを、身振り手振りで示した。初めは訳も分からずポカンとしていた彼女だったが、僕がバイクの後ろに同乗しようとアピールすると、首を横に振って拒否した。それでもお願いすると、しばらくして、諦めるような表情で恥ずかしそうに頷いた。僕はスレイラを真ん中に乗せて、バイクの最後尾に跨った。


セントラルマーケットの裏側に伸びる道へと進んだバイクは、すぐに舗装されていない赤土のデコボコした道へと入る。周囲には民家さえもあまり見当たらない自然道をのんびり直走る。15~20分ほど走っただろうか。そこは村とも集落とも呼べないような場所で、荒れ果てた道路の脇に生い茂る雑草の中、ポツンと建てられた高床式の簡素な木造家屋がスレイラの家だった。僕にはそれがゲゲゲの鬼太郎の家のように見えた。


スレイラの現実を知り、生活を想像し、感傷的な気分に陥りながらも、なぜか彼女を愛おしく感じた。

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