第4話)プノンペンブルース

ポルポト時代の闇がまだ色濃く残り国全体を支配していた2002年、僕はタイ好き仲間のエビスさんに誘われ、初めてカンボジアを訪れた。首都プノンペンは高層の建造物も少なく、見晴らしのよいのどかな光景が広がっていたが、じりじりと身体全体を溶かすように突き刺す直射日光と、街中を走るバイクの大群で舞い散る砂埃が街を覆い、貧困と犯罪の臭いが漂う黄土色の街という印象であった。


プノンペン滞在二日目、現地の人々が集う市場セントラルマーケットへ連れて行ってもらった。フランス統治時代に建てられたという聖堂を思わせる古い建物内は、見上げるほどに高く開放感ある天井を擁したドーム型になっており、構内の中央部にはガラス張りのショーケースに収められた宝石類が整然と陳列されている。


それが本物なのか偽物なのかは分からないが、それを売る商人たちの身なりは明らかに他の人々とは異なり小奇麗で、手にはルビー等ごつごつした色鮮やかな指輪や、金の時計を見せびらかすように装着していて、悠々自適に商いをしているといった様相である。観光客目当ての商売なのだろうか。僕ら以外に外国人の姿は見かけなかったので、ふらふら練り歩きながら商品を眺めていると片言の日本語で話しかけてきたが、その行為は僕にとって怪しさを倍増させるだけであった。


その周囲にはタイよりも更に1ランク品質を落としたような衣料品や生活雑貨、日用品、そして屋台とあらゆる物が雑多に並んでいる。エビスさんは「こんな時代遅れの物はここでしか買えないんですよ…」と半分面白がるように、日本で80年代に流行ったような、どこのメーカーかも分からないような、怪しく陳腐なカセット型ウォークマンやポータブルCDプレーヤー、そして、アジアの歌謡曲やヒットソングを集めた安物のCD集などを値切って買い叩いていた。それはアジアの旅のお供だということだった。


市場の構外に出ると、相変わらず攻撃的な太陽がぎらぎらと周囲を焼くように照りつけている。日陰で一休みし、缶コーラの中身と大量の氷をビニール袋に入れただけのジュースをストローで勢いよく飲んでいると、それを物欲しそうに見つめる子供の姿が視界に入った。サイズの大きな小汚いヨレヨレのTシャツに半パン、サンダル姿の現地の子供たちだ。


まだ半分ほど残っているジュースをおもむろに差し出してみると、恐る恐る近づいてきたように見えたその刹那、僕の手から奪い取るようにジュースをかっさらっていった。瞬く間に他の子供たちが周囲を囲み、「マニー、マニー…」とせがんでくる。「No、No」と拒絶しながらも、僕はどうにもいたたまれなくなり、余っていたリエル紙幣をごっそりばら撒いた。


その様子を鋭い目線で窺っていたのが、子供たちよりもう少し年上に見える数人の少年たちだった。浅黒い肌と垢汚れが入り混じったその顔から窪んだ白い目がギロリとこちらを睨んでいるようにも見える。その集団の脇には、壁にだらりとしな垂れかかり、薄汚れたビニール袋を口に当てている少年の姿が見えた。憂鬱そうな廃人のような少年の表情。


「ヒロ君、危ないからそろそろ行きましょう。彼らはストリートチルドレンで、あれは塗料等のシンナーを吸ってるんですよ。子供とはいえギャングのようなものですから、襲われたら大変ですよ…」


僕は炎天下にも関わらず寒気のようなものを感じ、その場を後にした。


「ちょっと、あれに乗ってみたいですねぇ…」


市場周辺を適当にぶらついた後、僕は暇そうに客を待っている自転車タクシーのオジサンと目が合い、エビスさんに提案した。それは三輪自転車の前部分に荷台のような客を乗せるための椅子が装着された人力タクシーで、ベトナム同様それをシクロと呼ぶのかどうかは知らないが、「季節の中で―THREE SEASONS」という映画(僕の好きな俳優ハーヴェイカイテル主演のベトナムを舞台にした映画)の中で出てくるシクロ運転手の物語が好きで、一度は乗ってみたいと思っていたものだ。


僕らはそれぞれ一台づつ自転車タクシーを貸切り、幾分心地よい風を感じながら、歩くほうが早いのではないかというぐらいのんびりとしたスピードで、プノンペンの街を散策した。王宮周辺まで連れて行ってもらうと、だだっ広い公園内を練り歩き、目前に横たわるメコン川(トンレサップ川)で、現地の子供たちが無邪気に泳ぐのどかな光景をぼんやりと眺めた。


先程市場で見かけた物乞いする子供たち、鋭い目つきのストリートチルドレン、川遊びに興じる子供たち、そして日本人の自分。それが同じ人間で同じアジア人であることに、同じ一生であることに、僕は行き場のない混沌とした思考に駆られ、自分の人生についてあれこれと思いを巡らせた。


相変わらず屋台での食事は敬遠していたので、初日に続き再び中華料理店でお腹を満たすと、エビスさんの提案でスペシャル系のマッサージ店へ行くことになった。昨日の嫌な体験が頭をよぎるが、今日は自分の好みの子を選ぼうと、バイクタクシーに乗り、エビスさん指定のマッサージ店へと向かう。


午後の喧騒をよそに薄暗い店内に入ると、入口のすぐ脇に小さな2、3段の雛壇があり、現地の女性が嬌声をあげながら僕らを出迎えた。そこではカンボジア人とベトナム人が共に働いており、僕は褐色の肌をした幾分おとなしそうなカンボジア人らしき女性を選んだ。価格は3~5ドル程だった(と思う)。昨日と同様、2階の個室に案内されると、汗だくの身体を綺麗にするためにシャワーを浴びる。


この後の流れを何となくながらも承知していた僕は、ベッドに仰向けになり、20歳前後だと思われる女性にマッサージをするように促す。しかし、この店でも教育がなされていないのか、彼女は理解不能な言葉を発し、緊張した面持ちで恥ずかしがるばかりで、まったくマッサージをしようともしない。僕はタオル一枚だけを身にまとった彼女の身体を触り、モミモミと手でジャスチャーを送り「マッサー、マッサー」と告げた。すると、彼女は「キーッ!!」と怒りの表情で僕の手を振り払い、何やらブツブツと現地語で呟いた。


「ああ、やっちまった。また変なのを選んでしまった…」


こういう仕事は初めてなのだろうか。僕は客なのだがマッサージを強要することを諦め、子供を相手にするように今度は優しく彼女の身体に触れてみた。大丈夫そうだ。彼女の黒々とした髪を撫でるようにかき分け、覆いかぶさるように身体を預けて、とりあえず首筋にキスしようと試みる。すると、彼女は「キャッ!キャッ!」と無邪気な笑い声をあげ、くすぐったそうに僕を押しのけ身をよじる。強引にタオルを剥がそうとしても、恥ずかしがって逃げる一方だ。


「ダメだこりゃ…」


雰囲気もクソもないのに無理矢理やっても可愛そうなだけだ。ついに僕は諦め、再び自分の衣服を身に着けると「もう、何もしないよ」と手を振り、彼女に意思表示した。安心したのか、ようやく彼女は固まった表情を崩し、胸元に巻いたタオルの結び目を強く閉じた。このまま終わるのも癪なので、時間つぶしに僕は彼女と会話を楽しむことにした。


「ハウ オールド アー ユー?」


「ハウオー?ハウオーン?」


英語で年齢を尋ねても彼女は、その言葉を理解できていないようだった。僕が彼女を指差し、指を折る仕草をすると、ようやく意味を理解したのか、彼女は両手の指を折り、19歳であることを僕に示した。緊張から開放されたのか、彼女は僕が身につけているTシャツの絵柄を興味深そうに指差し、何やら言葉を呟いていた。


僕が持参していた薄い色のサングラスに興味を示したので、それを手渡すと、サングラスは彼女の低い鼻立ちからずり下がり、怪訝そうに自分の鼻と僕の鼻を交互に触った。それを着けると、自らの視界が薄黒く変化することに驚き、興味を覚えたのか「オー、オー」と不思議そうに、子供のように何度となくサングラスをつけたり、外したりした。僕は彼女が初めてサングラスというものに触れたのだろうかと、カルチャーショックを受けた。


店を出て、エビスさんに事の顛末を話すと、田舎から出てきたばかりの子ならありえる話だとケタケタと笑い転げた。


燦然と輝いていた太陽が西に傾く頃合、宿に帰る途中に、日本人が多く集うというゲストハウスに立ち寄った。エビスさん曰く、そこはドラッグや草を求めて、旅行者や長期滞在者が巣くっている場所なのだという。プノンペンに降り立って二日、街を走るバイクタクシーにいつでも、どこでも声をかけられていたが、彼らは新聞紙を丸めたようなものを片手に持ち、こちらに示してくるのを何度となく見ていた。それは警察が近くにいてもお構いなしのようであった。


半ば公然とドラッグが蔓延するこの国に僕は衝撃を覚えるだけであったが、エビスさんは「バイタクが売っているものは粗悪品で、ここなら上物が手に入るんです」と言い、そのゲストハウスの庭先のベンチで待っていると、ほどなくして管理人らしきドレッドヘアの男が姿を現した。


そのカンボジア人の男は「ここにいる日本人は皆やってるぞ。今、ちょうど部屋に空きがあるからお前らもここに泊まったらどうだい?ここなら安全だよ。俺のブツは○○産に××産など上物ばかり揃えているからな…」と屈託なく笑い、よく聞き取れない訛った英語で自慢話をするように談笑を続けた。


ふと目の前の通りで、子供たちがサッカーに興じているのが目に入った。およそ50m程の道路の両側に空き缶で自前のゴールを作り、およそ10人程の少年たちが擦り切れたボールを無邪気に追いかけまわしている。僕はおもむろに着ていたTシャツを脱ぎ、上半身裸のチームに飛び入り参加した。


自分が彼らと同じぐらいの年頃の時、家の前の舗装されたアスファルトの道路で、友達と球蹴りをしていたあの頃のように童心に返り、何かを忘れようとするかのように、夢中でボールを追いかけた。


沈みかけていた南国の夕陽はいつのまにか消えうせ、気づくと辺りは漆黒の闇に包まれていた。

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