第3話)カンボジア暗黒時代
翌日早朝、ドンムアン空港からカンボジア行きの空の便バンコクエアウェイズに乗り込むと、およそ1時間とあっという間にプノンペン国際空港に到着した。カンボジアの現地通貨はリエルというらしいが国民の信用度が薄く、USドルがメイン通貨として流通しているというエビスさんの情報に従い、両替はタイ側で済ませていた。
もはや添乗員のようなエビスさんに導かれるままに入国手続きをする。ドル払いでビザ(査証)を取得し、最後の荷物チェックの際、無愛想な入国審査官に何やらイチャモンをつけられた。浅黒く強面のオッサンは僕のバックパックの中に手を差込み、ごちゃごちゃと雑にかき混ぜながら、よく聞き取れない訛った英語で文句を言っているようにも見える。どっと冷汗をかき焦った表情で「What?」を連呼する僕を、先に通過したエビスさんが助けに戻る。
数分間のすったもんだの末に無事入国を終えた僕がいったい何だったのか?とエビスさんに尋ねると、「何でもいいから、彼らはとにかく揉め事を装ってワイロ(小金)を欲しがるんですよ…」と経緯を教えてくれた。タイ以上にこの国では先が思いやられるなと僕は思った。
ひと気も少なくガランとした空港から外に出ようとすると、今度は出入口の自動扉付近に、凶暴そうな二匹のドーベルマンを従えた迷彩服姿の軍人二人が僕らをジロリ舐め回すように待ち構えていた。刺すように強烈な視線を感じながらも平静を装い、こわばった表情で彼らの脇を通過する。ようやく構外へ出ると、タイよりも一層のんびりとした光景が目の前に広がっていた。
僕らを視界に捕らえ、瞬く間に10人近くの男たちが駆け寄ってくる。俺の客だと言わんばかりに男たちはワイワイ、ガヤガヤとせめぎ合い、僕らに圧力をかけてくる。手馴れた感じのエビスさんは、その中から幾分ひとの良さそうな男を選び、「プノンペン市内までバイクタクシーで5ドルで」と自ら言い値を告げて、すぐに交渉を成立させた。それが相場なのか、高いのか安いのかも分からない僕が現地事情を尋ねると、「彼らのような低層階級は月収で数10ドル稼げばいいほうなので、5ドルはいい稼ぎなんですよ」とエビスさんは答えた。
僕らはそれぞれ一台づつバイクタクシーの後部座席に乗り、空港を後にした。南国の乾いた木々と一本道がひたすら続くのどかな景観の中、ありえないスピードで疾走するバイクに跨り、僕はアジアの風と景色を楽しむ余裕もなく、ただ大きなバックパックが落ちないよう、とにかく振り落とされないよう、あれこれ手の収まりどころを探りながら、必死にバイクにしがみつくだけだった。
タイのトゥクトゥクやモトサイよりも幾分高いのかなと、5ドルという運賃に少し疑問を感じていた僕だったが、およそ30分以上が経過し、ようやく街らしきエリアに入り、エビスさん指定のホテル前まで辿り着いて、その理由が分かった。「いやぁ、なかなかの距離でしたね…」。僕は予想以上の長距離移動に疲れ、ふらつきながらバイクから降り、エビスさんに告げる。Tシャツは汗で滲み、ベタベタとして気持ち悪い顔をそのTシャツで拭うと、汗に混じった大量の埃が泥のように茶色い染みとなり、白い衣服を更に汚した。
エビスさんが定宿としていた中華系の中級ホテルは、年季を感じさせるコンクリート造りの建物で一泊10ドル程だった。うだるような暑さと辟易する移動の疲れから、ようやく落ち着けると、案内された部屋へと向かう。あちこちにひびや亀裂が入った壁、薄暗い廊下、みすぼらしい恰好の怪しげな長期滞在者、ここの住人なのか娼婦らしきパジャマ姿の女が気だるそうな表情で部屋のドアを半開きにして僕らの様子を覗っている。
部屋に入ると、薄汚れた毛布が一枚敷かれただけの簡易ベッドと、安宿の定番とも言える14インチ程の箱型テレビ、たいして冷えないオンボロ冷蔵庫などが、味気ない室内で無造作に配置されている。重要な水周りを確認すべく浴室に向かうと、水だけのシャワー、貯水タンクの中が剥き出しになった小汚い便器に面食らう。滞在期間中、ちょろちょろと水の勢いはなく、ポンプを直に手で触り調節しないと流れない、このトイレに何度となく悩まされた。
「ヒロ君、部屋はどうですか?大丈夫ですか?」
「は、はい、何とか…」
汚れきった身体をシャワーで洗い流すと、先に身支度を終えたエビスさんが部屋を訪れた。この価格でこのレベルは良いほうなのだと諭され、外に出ると、さっき空港から送ってもらったバイクタクシーのドライバーがニヤリ微笑み、僕らを待ち構えていた。
「マイフレンド、どこに行くんだい?」
「いや、ちょっとそこまで買出しがてら、近所を散歩するだけだから…」
エビスさんは答えたが、彼はバイクに跨り、僕らが歩く横を並走して付いてきた。ホテルを出て大通りに出ると、砂埃を巻き上げ、何台ものバイタクが僕らの横をゾロゾロと付いてくる。「ミスター、どこに行くんだい?」、「ガンジャ(マリファナ)は要らないか?」。手を振り断りのジャスチャーを返す暇もなく、また一台、次の一台と、鬱陶しい勢いで攻勢をかけてくる。
数分歩いたところに「Big-A」という、タイのBig-Cを丸々パクった様相のスーパーがあった。中に入ると外見とは異なり、みすぼらしい田舎の生活雑貨店のように、在庫に乏しい商品群が貧相に陳列されているだけだった。賞味期限が怖いのでパン類には手を出さず、腹持ちのいいチョコレートやビスケット等のスナック菓子と水、ジュースに缶ビール、そして部屋のドアに施錠するための南京錠を購入する。
それからエビスさん行きつけの中華料理屋に行き、ようやく昼飯。一品1~2ドル程で、頼んだチャーハン、麻婆豆腐とも問題ない味付けだった。スーパーに続き、ここでも支払いはドル払いだったが、お釣りで初めて現地通貨のリエルを手にする。皺くちゃになり薄汚れた大量の札束と、そこに書かれている数字(桁数)に驚いたが、大した額ではなかった。リエル紙幣での支払いは拒否されることが多く、何かのチップ用にとっておいて、その他に使い道は殆どないのだとエビスさんに教えられた。
再び砂煙の舞う通りを練り歩き、うんざりするほど街を走るバイタクに声をかけられ、宿へと戻る。ホテル前の木陰では、先程のバイタクが子供たちとじゃれ合っていた。「ま、まだいるのか…」、「おお、マイフレンド、どこかに連れて行こうか?」。もう空港まで戻る気はないのか、僕を乗せてきてくれた痩身の親父はもはや僕の専属ドライバーになったかのようだった。
買ってきた食料を部屋におき、再び街へと繰り出す。ホテル前にたむろしていたバイタク、そして僕専属と化した親父に声をかけ、エビスさん指示の元、疲れを癒しに古式マッサージへ連れて行ってもらった。
店から適当にマッサージ嬢をあてがわれ、2階へと上がる。なぜか一人一部屋とアパートの一室のような個室に案内された。渡されたマッサージ用の簡易服に着替えようとすると、僕についた女性はニヤニヤと微笑み、シャワーを浴びてこいと言う。
「No、No、さっきホテルで浴びてきたから大丈夫」と伝えても、僕の英語が全く通じていないのか、その色白の女は執拗に僕をシャワー室へと促そうとするので、「ああ、目の前で着替えられるのが恥ずかしいのか」とシャワー室に入り、簡易服に着替えると、ようやくマッサージが始まった。
しかし、足先から始まったマッサージは、ちゃんと教育を受けていないのか全く気持ちよくなく、はっきり言って下手くそで、何だか足をさすられているだけのようなレベル。まぁ、しょうがないかと、僕がウトウトし始めると、ふと彼女の手が太ももまで伸びてきて、「ミスター、ミスター」と強請るように顔を近づけてきた。これはスペシャルを催促してきているのだと察知した僕は「No!No!」とマッサージ嬢を制しようとするが、彼女はただ「ミスター」と囁き、足を撫で撫でするだけであった。
仰向けになった僕に、自らの胸の谷間を見せつけ、甘い吐息を吹きかけるように誘いの言葉をかけながら、油断すると僕の股間を触ってくる。それを僕は拒絶する。そんな取り止めもない安っぽいコントのようなやり取りが続き、結局、僕は指定の1時間を待たずに、ろくにマッサージを受けることもなく、自ら終了宣言し、部屋を出た。
受付のある1階に降りると、他のマッサージ嬢たちがニヤニヤと僕らを出迎えたが、すっかり機嫌を損ねた彼女が何やら言葉を発すると、その場は微妙な雰囲気になり、僕は居心地悪くエビスさんを待つだけであった。
1時間が経ち、ようやく降りてきたエビスさんに事情を話すと、「それは災難でしたねぇ。どうせだったら抜いてもらえばよかったのに…」と言われたが、カーテンを締め切った薄暗い個室に二人だけという空間で、怪しげに誘ってくる女に僕は性欲などなく、ただ脅威しか感じなかった。一方のエビスさんは、きちんと古式マッサージを受けて満足した様子だった。
こうして僕にとって初めてのカンボジア、プノンペンでの滞在は幕を開けた。いろんな出来事がいちいち衝撃すぎて、日本で仕事を辞めたことなど、はるか昔の出来事のように、全てを忘れさせるほどの異空間であった。
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