アジア逃避行編

第2話)バンコク再訪

2002年の晩秋、東京でのサラリーマン生活からドロップアウトした僕は、タイ好き仲間のエビスさんに誘われるまま、再びアジアへと足を向けることになった。自分探しの旅というよりは、行き場のない日本から逃げ出すように、僕はタイ行きの航空チケットを購入した。奇遇なのかエビスさんも丁度まとまった時間が取れるというので、僕らはタイ~カンボジアとおよそ2週間の旅を計画した。待ち合わせ場所は当時僕がよく利用していたバンコクの安宿街だった。


1990年後半~2000年初頭にかけて、僕が一人でタイを訪れる際にバンコクの宿泊地としてよく利用したエリアが、バックパッカーの聖地カオサンロード、そして、サイアム周辺だった。バンコクの中心地であるサイアム地区には、当時からサイアムスクエアとマーブンクロンセンター(MBK)というショッピングモールがあり、屋台や食堂のタイ飯というものに拒絶反応を示していた僕は、そこで当たり障りのない食事をとったり、現地で着用する使い捨て感覚の衣料品、お土産を買う際などに重宝した。


道路を挟んだMBKの脇(BTSナショナルスタジアム駅前)に小さな通り(ソイ)があり、10軒にも満たないゲストハウス(安宿)が周囲の喧騒をよそにひっそりと営業していた。宿代はエアコン付でも当時400~500バーツ程と安く、僕と同じような欧米系の貧乏旅行者をちらほら見かける程度だった。当時利用していたエアインディア等の格安航空便が深夜ドンムアン空港に到着すると、僕は空港の敷地外まで歩き、中々メーターを押さないぼったくりタクシーと数台格闘(交渉)しながら、何とかMBKまで辿り着き、ようやく飛び込みで宿探し…というのがお決まりのパターンであった。


当時はまだインターネットの情報も乏しく、僕が唯一頼りにしていたのはバックパックにしのばせた一冊の地球の歩き方(タイ版)のみで、頭上を走る高架鉄道BTS(スカイトレイン)の乗り方も分からず、ましてや現地タイ人に交じって市内を走る小汚いバスに乗る勇気などあるはずもなく、ただ迷子になりながら、ひたすら街を歩き、なんとなく宿周辺の地理を覚えるという、何とも臆病な旅行者だった。宿の近くにあるタイシルク王、ジム・トンプソンの家は昼間の暇つぶしに格好の観光スポットだった。


「いやぁ、ヒロ君、お久しぶりです!今は仕事を辞めたばかりで色々と思い悩むことも多いでしょうが、今回は僕が全てアテンドしますのでアジアを満喫しましょう。きっとカンボジアも気に入ってくれると思いますよ!」


「そうですね、ありがとうございます。ま、せっかく来たんだし、とにかく楽しみましょうか…」


久々に降り立った南国の気だるい空気とエビスさんの柔和な笑顔は、僕の沈んだ気持ちを幾分和らげてくれた。現地で再会を果たした僕らは翌日、カンボジア行きの航空券を買うためにカオサンロードまで足を延ばし、それからエビスさんの所用があるというヤワラート(チャイナタウン)へとタクシーで向かった。タイ語を話せるエビスさんは手馴れた感じですぐに一台のタクシーを捕まえると、運転手は当たり前のようにメーターを押した。


ヤワラートは僕がそれまで見てきたバンコクの他の地域とは異なり、ごちゃごちゃとした活気に溢れたエリアだった。目抜き通りには派手な看板の中華料理店と金行(ゴールドショップ)が建ち並び、行き交う多くの人々と車で雑然とした様相を呈していた。整然とした横浜の中華街よりも異国情緒を漂わせる空間だった。


大通りから伸びた小さな通りには屋台が密集し、生活雑貨、衣料品、電気街など大小様々な店が所狭しと軒を連ねている。通りは四方八方、更に小さな道へと繋がりクネクネと迷路のようにできており、一歩道を間違うといつの間にか生活感漂う民家エリアに足を踏み入れてしまうほどだ。これはその昔、移住してきた華僑たちが有事の際に敵や政府などから逃げたり、目をくらませるためにわざと作られたもので、世界を渡り歩いてきた先祖たちの知恵なのだという。


炎天下、行き交う人々の熱気に溺れ、衣服は汗でびしょびしょになり、目が回るほど多い店と商品群に辟易する僕をよそに、エビスさんは勝手知ったる現地人のように僕を連れまわし、サンペンレーンという市場にある行きつけの店で、カツラや業務用のマネキン、ビール会社のロゴが入ったセクシードレス、ドンキで売っているような宴会で使えそうなクリスマス向け衣装、そしてミサンガなどをテキパキと大量に大人買いした。


「こ、こんなに沢山買って一体どうするんですか?こんなもの日本で売れるんですか?」


「インターネットオークションで売るんです。どれも日本では意外に需要がある商品ばかりなので、いい小遣い稼ぎになるんですよ。こうやってタイに来る機会があれば必ず一日はヤワラートに来て買い付けしてるんです」


へぇー、そういう世界もあるのかと、それまでサラリーマン生活しかしたことがない僕には、自分で物を売って商売するなど考えもしなかったことで、驚きとともに、ホントに売れるのか?という疑い半々であった。それからエビスさんは市場内にある配送業者で手際よく全ての荷物を梱包し、日本の自宅へ送る手続きを済ませると、付き合ってくれたお礼にと中華レストランで蟹をたらふくご馳走してくれた。


「さぁ、いよいよ明日からはカンボジアですので、今日は早めに宿に戻って明日に備えましょう!」


僕は猛暑の中、一日中連れまわされた疲労感と、アジアの安宿で一人たそがれている自分に「俺は一体何をやってるんだ…」と言いようもない孤独感に苛まれる一方で、まだ行ったこともないカンボジアへの期待感に思いを巡らせ、シンハービールを飲みながら、いつの間にか眠りについた。


部屋の天井では壊れかけたファンがカタコトと安っぽい音を刻み、古ぼけたテレビからは陳腐なタイ歌謡曲が呑気に流れ続けていた。

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