第5話)プノンペンベイビー


「パンッ!パパンッ!!パンパンッ!」


カンボジアの首都プノンペン―ぎらぎらと照りつける太陽と舞い散る砂煙に覆われた熱帯地方の昼下がり、ホテル近くの中華料理店でエビスさんと点心つまみにアンコールビールを飲んでいると、店の外から耳をつんざくような乾いた破裂音が鳴り響いた。


その刹那ビクンッと身体が反応し、音が聞こえたほうへ咄嗟に目を向けると、店員が一面ガラス張りの入口へ駆け寄り、外の様子を不安げな表情で窺っていた。思わずつられて僕も席から立ち上がろうとすると、エビスさんと店員に手で制止された。


「い、いったい何事なんですか!?」


「今のは恐らく銃声ですよ。しばらく危険ですから、ここでじっとしていましょう…」


時は2002年、至極平和な日本から旅行者気分でこの国を訪れていた僕には、その状況がさほど飲み込めず、半ば野次馬程度の感覚であったが、常に柔和な笑みを浮かべているエビスさんは、いつになく真剣な表情で淡々と語り始めた。


独裁者と恐れられた男ポルポトについて、彼が率いた組織クメールルージュ、カンボジア内戦、耳を疑う拷問の数々に大量虐殺、、僕が生まれた70年代にこの国で起こった惨事。そして20年以上時を経た今現在もその爪痕は国全体に色濃く残っていること。民主化を果たしたとはいえ、まだ10年程しか経っていないという現実…。


歴史の教科書で習うはずもない近代史に僕は自分の無知を恥じるだけであった。


プノンペンに足を踏み入れた初日の夜、ホテル前にたむろしていたバイタクの親父とビールを飲みながら、片言の英語で雑談していた僕は、ほろ酔い加減も手伝って、ホテルに面した大通りとは逆側に伸びる小さな通りがどうなっているのかとふらり夕涼み気分で散歩しようとして、バイタクの親父に止められていた。


「ちょっとそこまでだから大丈夫だよ…」と点々と繋がる街灯を頼りに暗がりの中、数百メートル歩いたところで、ライフルを肩からかけた軍服姿の男に遭遇し、急に僕は怖くなり、足早にホテルへの道を引き返した…ということがあった。


「この国では危険ですから夜間出歩いてはダメですよ!」


「もし強盗に襲われるようなことがあったら決して逆ってはいけません!両手を挙げて手持ちの金を全てあげてください。(=何かあった時のために数十ドルの紙幣を常にポケットに入れて持ち歩くこと)」


「この国では安価で銃が手に入るし、金のためなら外国人は簡単に殺されてしまいます。数十ドルで人殺しを雇えるような国ですから…」


ゆったりと流れる牧歌的な南国の光景と、殺伐とした瞬間が入り混じり交錯する空間。僕は滞在わずかにして、この国の現実を思い知ることになった。少し前に日本人旅行者が現地人とのトラブルで殺されたというニュース話を聞き、それは特別ではない日常の延長戦上にはらむ危険なのだということをはっきりと痛感した…。


滞在二日目の夜9時を回った頃だっただろうか。エビスさんがディスコに行きましょう!と僕の部屋を訪れた。「夜間外出するのは危険だと言ってたじゃないですか!?」と僕は突っ込んだが、「大通りを行くだけだから大丈夫ですよ」とエビスさんは答えた。


当時有名だったのがマティーニとマンハッタンという2軒のディスコで、僕らは宿から近いマンハッタンに行くことにした。ホテル前のバイタクは危険だから嫌だと初め渋っていたが、運賃を多めに払い、一台で3人乗りして行くということで交渉は成立した。


昼間の喧騒とは異なり、夜の街はひっそりと静まり返っている。バイタクは誰にも止められてはなるまいと主張するかのように、暖灯の光でオレンジ色と化した大通りをスピードを上げてひた走った。バイクの真ん中に跨った僕は運転手の背中に身を潜めるように、周囲の様子を窺いながら、振り落とされないようにしがみつくだけであった。


10分と走らずに目的地のディスコに到着した。周囲を照らす色鮮やかな装飾をまとった豪華なホテル(ホリデー)に隣接するようにそのディスコはあった。「後は知らないから、帰りは自分たちで帰ってこいよ」と運転手に突き放されるような言葉を投げられ、バイクから降り立つと、ディスコ前には屋台風の食堂が軒を連ね、欧米人や現地人で小さな賑わいを見せていた。


エビスさんに従うままにディスコ正面の屋台に入り、簡易テーブルの椅子に腰を落ち着ける。「ここで軽く飯でも食べて様子を見ましょう」と、エビスさんは僕でも食べられそうな麺類など数種類のカンボジア料理を注文し、瓶ビールで乾杯した。


周囲に座っていたフリーの娼婦らしき女性たちが艶かしい視線を投げかけてくる。白く塗りたくった厚化粧の顔と濃い赤の口紅が屋台の蛍光灯に照らされ、その場と不釣合いな様相で浮かび上がり、誘うように怪しげな笑みを投げかけてくる。目のやり場に困った僕は、ディスコのほうへと視線を移し、ぬるい瓶ビールを何度となく口に運ぶ。


屋台の奥に腰掛けていた店員らしき男と何やら親しげに話していたエビスさんが、ようやく席に戻ると、手に持った錠剤入りのパッケージを僕に見せてきた。


「これが通称×(バツ)です、ぶっ飛びますよ~。それでこっちがカマグラというバイアグラのような薬です。良かったらヒロ君もどうぞ、一緒に楽しみましょう!」


半分に砕いた錠剤を手渡され、僕はエビスさんに言われるままに、それを口に含みビールで流し込んだ。それから30分もすると、アルコールの酔いも手伝ってか、僕の視界は少し開けたように、変化したように感じた。


「じゃあ、そろそろディスコに行きましょうか!」


エビスさんに連れられ、いよいよ目の前のディスコへと足を向ける。ゲートをくぐると、待ち構えていた警備員らしき男たちに囲まれ、身体検査を受ける。持参していた使い捨てカメラを没収された。荷物を預かる剥き出しのロッカーにはカメラ等の撮影機器のほか、ナイフに拳銃、ライフル銃といった武器類が陳列されているかのように無造作に保管されていた。僕はギョッと目を剥き驚愕したが、エビスさんは目もくれず勝手知ったる常連のように店内へと足を滑らせた。


憩いの場のようなスペースを抜けると、徐々に重低音の振動が大きくなり、ハイテーブルがそこかしこに置かれたバーらしき暗がりの空間が現れた。ビール片手にハイチェアに腰掛けた欧米人たちの視線を感じながら、どんどん奥へと進んでいく。


耳を突き破るように刺激する大音響と身体全体に響き渡る重低音ビート、赤青緑と色鮮やかなレーザー光線があちこち飛び交い、天井から吊られたミラーボールがその光を反射させ、周囲を包み込む。中央に位置するダンスフロアでは密集した人々が頭を振り、腰を揺らし、UPテンポのリズムに合わせて、熱狂の渦を巻き起こしていた。


ただただ場の雰囲気に圧倒された僕は、ビール片手にダンスフロアの周りをうろうろと歩き回る。


空いていた席にようやく腰掛け、その熱狂した集団を眺めていると、すぐに二人の現地女性が僕らの前に現れた。それはマッサージ屋で見たような幼い風貌の女性たちとは全く異なり、シンプルな衣装で着飾った見るからにセクシーな大人の雰囲気を漂わせる女性二人組であった。


僕は上下真っ白の衣服を身にまとった長い黒髪のスレンダーな女性に目を奪われた。浅黒い小顔にはうっすら自然な感じで化粧が施されており、印象的なつけまつ毛と少し垂れ下がった大きな目に見つめられ、僕の心臓は不規則なリズムを刻んだ。


「あれっ、ヒロ君、彼女のこと気に入ったみたいですねぇ?」


「は、はい、分かりますか。この黒い子、僕のタイプです…」


もう一方の女性は見るからに日本人受けしそうな色白の肌の持ち主で、その顔立ちも日本にいておかしくないような容貌だ。しかも、彼女は片言の日本語を操り、プロの売春婦のようでもあった。色白の彼女はベトナム系カンボジア人で、僕が気に入った色黒の子は100%カンボジア人だということだった。僕への付き合い半分なのか、エビスさんはあまり好みではないが一緒に連れ出しましょうということになった。


外に出ると、再びディスコ前の屋台に行き、皆で食事を取る。エビスさんについた色白の女は中々のやり手で、「幾らくれるんだ?一晩30ドルでどうだ?」とホテルに戻る前にチップの交渉をしてきた。エビスさんは20~30ドルが相場だと言い、結局、お互い20ドルということで交渉は成立した。


それぞれのカップルが各々一台づつのバイタクに乗ると、僕は酔いも手伝ってか、密着して座る現地女性と一緒ということに安心してか、ここまで来た時の緊張感などすでになく、意気揚々とディスコを後にした。


僕はエビスさんにもらった錠剤と酒ですっかり酩酊し、カマグラのせいでギンギン状態が続く中、一晩中、何度となく彼女を抱き続けた。それが僕が今まで唯一肌を合わせたカンボジア人女性、スレイラとの初めての夜だった。

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