7・・・
「あのっ・・・」
「・・・あ、はい」
ついぼーっとしてしまっていたらしい。声をかけられていることに気付かなかった。
「何か、私に用ですか?」
私の目の前にいる人がこの教科書の持ち主なんだろう。同姓同名がいないとは限らないけど、教師がこの人を呼んだのだから間違いはないと思いたい。
「石川美月さんですか?」
「はい・・・」
「そうですか」
あの日窓から見えたのは、この人じゃない。黒髪で大人しそうで、化粧っ気もない。この教科書はきっと彼女のものだ。でも、私を傷つけた人ではない。
落ちた教科書から微かに香った香水。あの匂いは、柔軟剤の匂いとか、そういう心地いいものではなかった。
この人も私と同じような立場なんだろう。
「落ちてましたよ。教科書。名前が書いてあって助かりました」
「あ・・・」
その教科書を見るなり彼女の顔が曇った。
落としちゃった、とか、そういう類のものではないのだろうと確信を持った。だからあの教師は声を出して呼ぼうとしなかった。
気付いてもらえるまで見つめていた。
むしろ気持ち悪い。
「大丈夫ですか?」
硬直してしまった彼女の顔を覗き込む。瞳が潤んでいた。こんなになるまで放っておくのはいけないんじゃないか。そう思ったところで、私には何もできない。
「あ、ありがとうございます。わざわざ持ってきていただいて・・・」
彼女はペコペコと頭を下げた。
「いや、別に、拾っただけなんで」
むしろこちらが謝りたいくらいだ。この教科書を持ってくるまで、彼女は教科書なしで授業を受けていたのだ。拾った時に持ってこればよかったのかもしれない。
「ちょっと待っててくださいっ」
そう言って彼女は教室の中に走って行った。
身長が低いこともあって、なんだか今にも転びそうだ。頼りないな・・・
「あの、これ・・・」
本当にちょっとで戻ってきた彼女は、私の目の前で手を広げた。そこには銀紙に包まれた長方形の小さいものがちょこんと乗っていた。
「チョコです・・・つまらないものですが」
チョコ。ただ教科書を持ってきただけの後輩にお礼までするのか。
隙が多すぎて、そこにつけ込もうとする人はきっと、さっきの女子たちだけじゃない。
こんなにもいい人だけど、優しさだけじゃ人はうまく生きられない。
この世の中には、優しさを純粋に受け取り続けられる人なんてごくわずかだ。そんな人に彼女はきっとまだ出会えていない。
せめてこのチョコ分の優しさは返したいけど。
「ありがとうございます。では」
一礼して回れ右をする。
少し進んで振り返ると、案の定彼女はまださっきの場所から動いていなくて、私の視線に気付くや否や手を振ってきた。
とりあえずまた一礼をする。
自分のことでもなかなかに精一杯なのだけど、他にもやることができてしまった。
私が周りに一目置かれる存在・・・例えばゆずなら、こんな時周りに一声かけるだけで解決できてしまうのにな。
あんな存在に憧れるとは思ってなかったけど、あくまでも役には立つから、羨ましいと思ってしまう。
あんな場所にいる彼でも苦労することがあるのだろうか。
楽だけの人生なんてない。きっと彼も楽と同じくらい苦を感じているのだと思う。ただ私にはそれはわからない。
「坂下、もう授業始まってるぞ」
「わかってます」
廊下で担任とばったりあってしまった。むしろあなたこそ何をしているのだと言い返したい。仕事をしてくれ。
「用事があったので」
「いや、別にサボってるって思ってるわけじゃないからな」
「そうですか」
一応言い訳として付け加えた一文にどうしてそうも焦るのか。授業中に廊下でばったりとあってしまった教師に対する社交辞令のようなものなのに。
「じゃあ今から教室か」
「いえ。着替えなきゃいけないので」
授業終わりにまっすぐきた自分の姿をみる。ジャージ姿のままではさすがに授業を受けることはできない。
「ああ、そうか。じゃあなるべく早く来いよ。遅刻にはしないでおいてやるから」
「?・・・はい」
一礼をして建前程度の小走りで更衣室に向かう。
遅刻にはしないでやると言われても・・・そこまで考えた時に理解した。そうか、次の授業の担当はあの先生か。
遅れた時の言い訳をする手間が省けた。そうポジティブに考える気がした。上から言われたことに関しては少しばかり苛立ったけど。
というか授業が始まったのに三年の教室がある棟を歩いているあの人にも問題はあるのではないだろうか。
振り向くともうあの人はいない。まさに神出鬼没。
放課後に事件は起きた。
「理来!」
HRを終えて下駄箱へ向かっている時に、聞きなれない呼び方で私の名前を呼ぶ人がいた。
「・・・森野ゆず」
帰る時間はクラスごとに少しずつ差があるものの、続々と人が教室から出てくる。当たり前のようにこちらに向かってくる彼に恐怖すら覚えた。
こんなところで目立ってしまったら明日から不登校になれる。
周りの生徒の流れに乗りつつ誰も行かないような廊下へと逃げる。
捕まる前に逃げることにした。
「あれ?理来?」
彼が不思議そうに呟く声を耳に残しつつその場を離れる。
どうして彼が私を追いかけてくるのかその意味はわからない。わかりたくない。天然なのか。自分が周りに及ぼす影響に気づいていないのだろうか。
迷い込んだ廊下のその先に唯一逃げ込めそうな教室があった。
電気がついている。一人にはなれなさそうだ。まぁ、大勢の視線にさらされるよりは全然マシだ。
「坂下ちゃん?」
「すいません・・・少し経ったら出て行くんで」
もう10分ほど経てばほとんどの生徒は学校を出る。その時を狙って帰るしかない。
「いつまでいてくれても大丈夫だけど・・・怪我ではない?」
「はい。それは大丈夫です」
何もないかと言われれば先日の教科書のこことか、全く怪我に繋がることをしていないわけじゃない。でもあまり些細なことで騒ぐと、本当に大きな怪我をした時にきたくなりそうだからやめておく。
「誰かから逃げてるとか?」
「・・・鋭いですね」
「当たっちゃった」
意外そうな顔で見てくる先生。あなたが驚いているのと同じくらい私だって驚いることを忘れないでいただきたい。
数日前は誰かから逃げるようになるなんて思ってなかった。
「ちなみにその人は坂下ちゃんのお友達?」
「友達・・・ではないと思います」
「溜めたねぇ」
ほほ、と上品に笑った先生は私にお茶を入れたカップを渡してお菓子を漁り始めた。
ここでの教諭生活を誰よりもエンジョイしていると思う。他の先生とは担当が被らないから下手な争いごともないだろうし。
唯一の困難といえば先生目当てに生徒が来てしまうことだろうか。まだ20代後半の眼鏡っ娘先生は、密かにファンを生み出し続けている。
その脅威は凄まじいと前に誰かの噂話で聞いた。
ホッと一息ついたところで扉が勢いよく開いた。
「見つけた・・・!」
「え・・・」
振り向くと恐怖すら感じる彼の姿があった。
絶望でしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます