6・・・
「坂下・・・さん」
「・・・なんですか」
勢いで呼んでしまったものの、ほぼ初対面の人に呼び捨ては失礼だろうから、誤魔化すように一応’さん’とはつけておく。とまぁ、こんなところだろうと思う。
呼んだ相手はわかっていた。
最近私に話しかけてくるようになるきっかけのあった男子なんて限られてるに決まってる。
ただ名前は忘れつつある。
確か森っぽい・・・森野か。下の名前はなんだったっけ。
保健室を出て、もう少しで外に出れるというところで今一番会いたくない人に会ってしまった。私の心は雨模様・・・
「一緒に帰ってもいいですか?」
「どうして?」
「帰りたいから?」
「・・・勝手にしてください」
元々テンションの高い人ではないんだろう。
ずっと低いトーンで懇願するような眼を向けてくる。まるで及川先生のようだ。私がいつかは折れると知っているかのような。
靴を履き替えてそのまま正門を出ると、後ろから小走りで追いかけてきた。
この状況を誰かに見られなければそれでいい。そう思うしかない。
「坂下さんは__」
「呼び捨てでいいです。気持ち悪いので」
「じゃあ・・・理来」
「・・・」
そうきたか。
呼び捨てっていうのはあくまでも苗字のことで。名前を呼ばれると親しくなってしまっている気がして落ち着かない。
ただ呼び捨てと言ってしまった以上なかったことにもできない。
・・・完全に追い込まれた。
「理来も名前で呼んでよ」
「名前・・・」
「ゆず」
「・・・ゆず」
「うん」
彼はきっと、朝のニヤリと笑ったことは例外で、基本的に無表情。クールってやつなのだと思う。
でもたまに気付くか気付かないか微妙なくらいの小さな笑みを見せる。
名前を呼んだときも、小さく笑った。
私は弱いのかもしれない。ギャップというやつに。
彼と親しくなってしまえば今以上の仕打ちに合うんだろう。きっとそれは私が想像している範疇かもしれないし、想像以上の可能性だってある。
それでも無視はできなかった。
一度関わってしまった人を邪険にできない。以前誰かに「お前は人が良すぎる」と言われたことがある。あれはきっと今を指しているのだと思う。
「ありがとう。すぐそこなので、じゃあ」
「うん」
彼の家がどこかもわからないので、ある程度のところで一度ここでいいと言ったものの、「ここで返してもし何かあったら後味悪いから」と言われ、さすがに人の迷惑にはなりたくないと思い、結局家の近くまで送ってもらってしまった。
あれはきっと彼の優しさだったのだろうけど、なんと卑怯な優しさだ。
こっちが罪悪感に苛まれただけだ。
手を振って来た道を戻っていく彼の背中を目で追いかける。
「やっぱり」
こういう人に限って家が真逆だったりするものだ。
明日、担任あたりに彼の家の場所を聞いてみよう。唯一の部員なのだからそれくらいは知っているだろう。
「ただいま」なんて独り言は言わずに、おとなしく家に入る。
アパートの一室。
私を待っている人は、いない。
「おはよう」
「何でいるの」
「一緒に行きたかったから?」
質問の返しを疑問形にするのは彼の癖なのだろうか。
森野ゆず。
彼はなぜか私を昨日送り届けたところで待っていた。
昨日の様子からして彼の家はここから遠い。にも関わらず、いつ家を出るかもわからない私と時間を合わせずに登校しようとするチャレンジ精神。そこは認めよう。
いつ頃から待っていたんだろうか。
ストーカー的行動に対する怒りなんかよりも、私はそんなことが気になってしまった。
「迷惑・・・だった?」
「・・・」
まただ。あなたは何が悲しいの、と尋ねたくなるような眼。私はそれに弱いというのに。
確かに、迷惑といえば迷惑だ。私は間接的ではあるものの、彼と接触したことで被害を受けている。でも決してそれは彼のせいじゃない。そうわかっているからこそ、彼を否定しきれない。
「一緒に登校することは別に構わないですけど。集合場所、ここじゃなくて他の場所にしませんか?」
「うん」
彼は小さく笑った。幸せそうだなぁ、と思った。
彼の微笑みには、周りを巻き込んでしまう何かがあると思う。
私にはその笑顔が、眩しい。
周りの反応は思った通りだったと思う。
私と彼に接点があったことに驚く人もいるだろうし、昨日の彼女みたいに私に敵意を向けてくる人もいる。むしろ後者が圧倒的に多い。
私は誤魔化せなかった。というか、誤魔化せるような相手がいない。
例えば彼が私とのことを聞かれて、そういう仲だという話を否定してくれれば一番早い解決の仕方になるのだと思う。私が何を言ったところで、きっと誰の心にも響はしないし、かき消されてしまって終わりだ。
だから当然、こういうことだって起こる。
「いた・・・」
上から何かが降って来たと脳が理解して行動に移そうとした時にはもう時すでに遅し。頭にクリーンヒットした。
地面に落ちたそれは私の目がおかしくなければ教科書だった。
中庭にいる私に二階の窓からこれを投げつけるにはなかなかの腕が必要だと思う。まずなぜ教科書を使おうと思ったのか。落ちた時の形、速度によってはなかなかの凶器になりうる。
本鈴がなった。
私は体育なのでこのタイミングで中庭にいても問題はない。
地面に落ちた教科書を一瞥する。持ち主は真面目な方らしく、しっかりとクラス名前番号が記されている。
このタイミングで移動していたということはこれから始まる授業への移動だったはずだ。教科書がここにある今、持ち主は急いで取りに来て授業に遅れる。もしくは教科書を諦めて忘れ物を自己申告して説教されるか。この二択だろう。
窓際にはもういない。
後者であってくれるならばここで急いで退散する必要はない。できれば会いたくない、私を傷つけたであろう相手と。私だけじゃない。きっと相手だって自分のことを悟られたくないだろう。
まあ、名前の書かれているものを投げつけてしまった時点で自分だと主張しているようなものだけど。
”三年二組 石川美月”
三年ってことは先輩だ。
教室まで持って行ってあげようかな。体育担当の先生に報告しよう。先生が持っていくことになるかもしれない。ある程度その生徒がしごかれるようなことになった時は・・・その時はその時だ。
結果、授業が終わってから届けに行くように言われた。
『落ちてきた?・・・そうか。いい、授業が終わってからにしろ』
あの間はなんだったのか。もしかしなくても何か勘付いた?
そうだとしても口を挟んでくることはないんだろうな。そういうことに教師は干渉したがらない。私が先生だったとしても、関わろうとは思わないからしょうがない。
三年生の教室がある階に着いたところで一旦足を止めた。
異世界に迷い込んだ気分になる。進路を気にしない様子で廊下でたむろする人たちを見ていると、なんだか憂鬱になってくる。
視線を少し上げて、教室の扉にかかっているプレートから、二組のものを探す。
運のいいことに、その教室からはちょうど教師が出てきた。
「あの、」
「ん?一年か、どうした」
「石川美月さんって、いますか」
その人は、「んー」と考えるそぶりを見せながら教室を覗き込んだ。
「石川に用があるのか」
「これ落ちてたんで渡したくて」
そう言って教科書を見せると、先生の表情が変わった・・・気がした。
教室の一点をじーっと見つめ、数秒たってから、こちらに手招くように手を振った。
「すぐ来る」
それだけ言って、先生はどこかへ行ってしまった。先生が渡すという手もあったのでは。今となってはもう遅い。
教科書裏の名前を見る。
なんだか、違う気がした。
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