第二話 霧の町のロープウェー

第2話 ①

 赤い屋根が綺麗な街を出てから数日、私たちの前にようやく目的地が見えた。列車やバスを乗り継いできた身体はもう限界に近い。


「あー……のぞみ、やっと着いたよ」


 へとへとに疲れ果てた私の喉から出た声はあまりに情けなかった。隣で亀のような歩みを見せているのぞみを見れば、彼女はすっかり憔悴しきっている。表情筋すら疲れたのか、もはや無表情だ。


「……つい、た……?」

「今日はやっとベッドで寝られるよ……」

「ねる……寝たい……」


 のぞみの足取りは以前アルコールに充てられた時よりも酷くふらついている。彼女が転ばないように最後の体力を振り絞って手を繋いだ。街に着いたら最初に見つけたホテルに入る。絶対にすぐ寝る。思考能力が低下した脳味噌ではもうそれしか考えられず、棒のようになった足を鞭打って必死に動かした。



「部屋なら空いてるが、ちょっと高くつくな。大丈夫か?」

「ぜひそこでお願いします……」

「ははは。お嬢ちゃんたち、随分疲れてるみたいだな。案内するぜ」


 新しい街の入り口に近いホテルは、ガタイの良い男性が経営していた。英語も堪能で、訛りの酷い英語を必死に解読する労力を考えると正直とてもありがたい。決して赤い屋根の街にいたホテルの青年を指しているわけではない。


「のぞみ、ベッドだよ……寝れる……洗濯物は明日やろう……」

「うん……」

「あんたら、どうしてそんなへとへとなんだ? ここらなら電車が通ってるだろう」

「夜行列車は間違えて隣の駅で降りてしまったんです……それで、近くを通っていたバスと電車を乗り継いできたんですけど、随分かかってしまって」

「あっはっは! そりゃ大変なわけだ! ここらは山道が多い上に狭い道路しかないからさぞ疲れただろう!」

「おっしゃる通りです……」

「何日くらいいるつもりなんだ? この時期は旅行客も少ないから長居しても大丈夫だが」

「決めてないんですけど、とりあえず五日ほどは……」

「はいよ。じゃあこの部屋だな。うちは古いからカードキーじゃないんだ、すまんな」


 男性が差し出したのは柄の長い鍵だ。カードキーが主流となっている最近のホテルには珍しい。私はそれを受け取ると、失礼にならないよう頭を下げた。男性は早く休みな、と手を振ってくれたので、ありがたく立ちながら寝そうになっているのぞみを抱えて部屋に入った。


「荷物は明日片付ける……今日は寝る……」


 荷物を投げ捨ててそのままベッドに飛び込む。のぞみはのろのろと荷物を部屋の隅に置いてから音もたてずに毛布に潜り込んだ。本当なら風呂に入れてあげたいところだが、それすらも億劫だ。やわらかい毛布とシーツの匂いを顔で感じながら、急速に重たくなる瞼を閉じて私は眠りについた。意識が途切れる直前にのぞみが何かを呟いたような気がしたが、私には聞こえなかった。



 何か音が聞こえる。細かな水が地面に打ち付けられるような音だ。ゆっくりと目を開けると、目の前には入眠する前と同じ部屋の光景が広がっていた。音の正体が掴めずに緩慢な動作で辺りを見回してみるが、気になるものは見当たらない。

 そういえばのぞみはどこだろう。重い身体を起こして隣のベッドを見れば、そこはもぬけの殻。シーツと毛布の間に手を差し入れてみれば、まだほんのり暖かかった。つまり、彼女は起きて間もないという事だ。そこまで考えてから気が付いた。そうか、今のぞみがシャワーを浴びているのか。


「あ、麗奈起きた」


 備え付けのタオルで髪の水気を拭き取りながら、のぞみがバスルームから顔を覗かせた。疲れが取れたのか、昨日の死にそうな無表情とは打って変わり随分とすっきりしている。


「のぞみおはよう、早起きだね」

「全然早起きじゃないよ。もうお昼だもん」

「え、嘘」


驚いて窓を眺めるが、見える風景は真っ白だ。よく見ればカーテンは掛かっていない。


「うっわ。何これ? 霧?」

「うん。ワタシが起きてからずっとこう」


 恐る恐る窓に近付いて外を見てみるが、見事なまでに白い世界しか広がっていない。


「昨日のうちにここに着けてよかった。この霧の中を歩いて街まで来れたか分からないよ」

「迷子になりそう」

「ほんとだよ」


 布団から出て、昨日投げ捨てた荷物からシャワーを浴びるのに必要なものを取り出した。大きな欠伸をこぼしてからバスルームに向かうと、のぞみが大判のバスタオルを手渡してくれた。


「ん、ありがとう」

「ここのシャワー、お湯出るまでに時間かかるから」

「そりゃ目が覚めそうだ」


 僅かに落胆するが贅沢は言えない。いい香りのするバスタオルを抱えて、私はシャワーを浴びるべくバスルームの扉を閉めた。


 シャワーのあまりの冷たさに叫んだ私の声を聞いて、のぞみが部屋で一人笑った。

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