第1話 ⑥
この街に来てから一週間。ホテルの従業員が教えてくれたレストランで美味しい食事を頂き、美しい景観の中を散歩し、言葉の伝わらない現地の相手とのやり取りを楽しんでいたらいつの間にか飛ぶように時間が過ぎていた。消耗品も補充し終え、とうとう今日はチェックアウトの日だ。
洗剤のフローラルな香りが漂う洗濯物を鞄に詰めた。ホテルの浴室に置かれていたアメニティも持ち帰っていいとのことだったので、遠慮なくいただくことにする。
「麗奈、こっちは準備できたよ」
「リカルドさんにもらった瓶はどこに入ってるの」
「ワタシのリュックの横ポケット!」
「水筒と間違えて飲まないようにね」
茶化すように言うとのぞみは分かりやすくふくれっ面を作った。
「そんなことしないもん。お酒は大人にならないと飲んじゃいけないんだよ」
「真面目ね。大丈夫、のぞみがそんなことしないって分かってるよ」
よいしょ、と声を上げて鞄を持てば、いつもと同じ重みが私の腰を襲う。まだ若いと思ってるけれど、案外老いの歩みは早いのかもしれない。
「麗奈、次はどこに行くの?」
「まったく決めてないなぁ……。のぞみはどんなところに行きたいの?」
私が尋ねると、のぞみは頭を捻って唸り始めた。しばらく無言を貫いていたが、ようやく言葉を絞り出し始めた。
「えっと……人がいっぱいいるところ。それで、ご飯が美味しくて、景色が綺麗なところ。面白い建物があったらもっと嬉しい」
「なるほどね。チェックアウトの時にあっかんべえのお兄さんに何か聞いてみようか」
「そうする!」
よほどあのホテルの従業員を気に入ったのか、のぞみはぴょんと飛び跳ねてその喜びを表した。私はその様子を見て、部屋を出る最後の準備をする。
「のぞみ、忘れ物チェックしよう」
「分かった」
「クローゼット」
「忘れ物なし!」
「タンスの中とか」
「チェックオッケー!」
「引き出しは?」
「大丈夫!」
「トイレ」
「何にもないよ!」
「よし。チェック終わり。じゃあ出よう」
のぞみがその矮躯に不釣り合いな重たいリュックを背負うのを手伝い、今度こそ準備は終わった。部屋を出てホテルの受付に向かうと、そこでは運よく件の従業員が事務作業に勤しんでいた。
「おはようございます。チェックアウトをしたいのですが」
「あ、おはようございます! もう行かれるんですね」
「お兄さん! あっかんべえ!」
「あはは。お嬢さんおはよう。アッカンベー」
爽やかな微笑みを浮かべた青年は、のぞみのあいさつに楽しそうな返事を返した。私は彼に宿泊分の金額を支払い、カードキーを返却する。手続きは滞りなく終わり、金をレジに仕舞い終えた青年に笑顔を送った。
「いいホテルでした。予約なしの宿泊でこんなに良くしてもらったのは久しぶりです」
「それは良かったです。またお越しくださいね。今度はすこし割引しますから」
「はは、それはありがたい。機会があれば是非」
「なになに、お兄さんなんて言ってるの?」
「また来てねって」
私の隣で服の裾を引くのぞみに彼の意図を伝えると、のぞみは満足したのかにっこりと笑った。
「ねえ麗奈、また会おうねって英語でなんて言うの?」
「あぁ、それなら」
と、私は簡単な英文を彼女に教える。口の中でもごもごと何度も繰り返し練習して、のぞみは意を決したように従業員の青年に向き直る。その様子を見て、彼はわざわざカウンターから出てきてくれた。
「えっと、また、あおうね?」
「ありがとうお嬢さん。英語、とっても上手だね」
「なんて言ったの?」
「英語が上手だねってさ」
本当に? と聞き返すのぞみの顔はいつになく輝いている。春の陽だまりに似た暖かさの笑顔だ。
「そうだ。次の目的地が決まってないんですけど、何かいいところってありますか」
「旅をなさっているんですか? それなら、そうですね……ここから少し離れていますが、僕の故郷がいいところなんですよ。とても小さな地区ですけど、古城の跡地やロープウェーなんかもあるんです」
それは面白そうだ、と純粋に思った。詳細を聞けば、わざわざ私の端末に地図を送信してくれた。
「ありがとうございます。これからそこに向かってみます」
「いえいえ。お役に立てたのなら何よりです。楽しんでいってくださいね」
そう手を振る青年は、のぞみに向かってある言葉を渡した。
「お嬢さん、ジャアネ!」
「! お兄さん、覚えてたの?」
「……あれ? ジャアネはまたね、という意味じゃありませんでしたっけ」
「あってますよ。のぞみは覚えていたことが嬉しいそうです」
青年に伝えると、彼は照れたように頭を掻いた。
ホテルを出る直前に振り返ったのぞみが、名残惜しそうに手を振った。
「のぞみ、次はここに行くことにしたよ」
「うん、わかった。麗奈についていくよ」
街の外の整備された道を歩く。
端末に表示された地図を道しるべに、私とのぞみは次の目的地を目指した。
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