第1話 ⑤

「なんか、頭ふらふらする」

「大分経ったけどまだダメそう? 少し休もう」


 リカルドに持たされた土産を眺めながら、私はふらふらと覚束ない足取りののぞみと手を繋いだ。店の奥にあった蒸留酒を作る設備を見せてもらったのがついさっきの話だ。興味深い機材の数々や美味しい酒に私は心躍らせていたが、のぞみには少し早すぎたらしい。



 青年が案内した先には、銅板で出来た装置がいくつも置かれていた。件の蒸留酒の材料は、ワインを作る過程で生まれたブドウの残りかす。これに熱を加えてアルコールと香りを蒸発させたものを蒸留して生成するというのが彼の説明だ。

 この店で取り扱っている蒸留酒は全て熟成させずに、蒸留したものをすぐ瓶に詰めているらしい。そのため同じ蒸留酒で、樽で長い年月寝かせるウィスキーとは異なり色が水のように透明になる。ワインが飲めなかった農民がブドウの残りかすで作ったのが起源となる、とリカルドは語った。


「うちは大量生産できるように階層型の窯を使ってるんだ。じっくり手を掛けて少しずつ作る方法もあるけど、うちの作り方でもこの酒はそれなりに美味いんだよ」

「お兄さんはお酒好きなの?」

「大好きだよ。俺はこの酒を食後のコーヒーに入れて飲むのがお気に入りなんだ」

「コーヒーにお酒を入れるの? 聞いたことないよ」

「そうなのかい? 割とポピュラーだと思ってたけど。君のお母さんはそういう風に飲まないのかい?」

「お母さん?」


 のぞみが眉間に皺を寄せて私とリカルドを見比べた。何と答えたらいいのか分からない、という表情をしている。わざわざ詳しい事を彼に説明する必要はないだろうと思い、私はため息をついてのぞみの頭に手を置いた。


「リカルドさん。私はのぞみの母親じゃないですよ」

「おや、それは失礼。確かにあなたは母親にしては少し若いかな」

「ちょっとした事情がありまして」


 別段驚いた様子も無く、リカルドは肩をすくめるだけだった。特に詮索しようとする素振りも見せない。


「麗奈は私のお母さんじゃないけど、私の家族だよ」

「素敵な家族だね。レナはとっても優しそうだ」

「うん」


 頭の上に置かれた私の手に触れながら、のぞみがうなずいた。リカルドはそれを目元を緩ませながら見ている。私は彼のさっきの言葉が気になって、声をかけた。


「それでリカルドさん、あの、その蒸留酒ってどんな味がするんですか」

「気になるかいレナ? よかったら試飲していきなよ」

「いいんですか? それならぜひ」

「もちろん。ノゾミにはアルコールの入ってないワインをあげるよ」

「やった!」


 するり、と私の手を抜けてのぞみがリカルドの横に走っていく。なんとなくそれを寂しく思いながら私も彼らの後を追った。



 製造所を抜けると、そこには小さな部屋があった。中は物が雑多に詰め込まれているが、どこか生活感にあふれている。


「ここは俺と親父の休憩所なんだ。ここでコーヒーを飲んだりしながら酒を造っているんだ」

「なんだか秘密基地みたい」

「俺のとっておきの場所さ」


 陽気にウィンクを飛ばして、リカルドは棚から色々と取り出し始めた。適当に座ってて、という言葉に甘えて近くの木製の椅子に腰かける。のぞみの前には空のワイングラスが、私の前にはエスプレッソカップが置かれた。


「先にノゾミのワインを出すね」


 そう言いながらリカルドが撫で肩のボトルの栓を抜く。ほとんど音を立てずに抜かれたコルクの匂いを軽く嗅いで、リカルドがそれをのぞみに手渡した。のぞみはそれを不思議そうに眺めて、真似をするように匂いを嗅ぐ。特に何も分からなかったようで、さらに首を傾げるだけとなった。


「お兄さん、どうしてこれの匂いを嗅いだの? なんかいいにおいする?」

「コルクが痛んでると中身がダメになってる時があるんだ。そうすると変なにおいがするから分かるんだよ。お客様相手に悪い品を出すわけにはいかないだろう?」

「へー……」


 分かったのか分からなかったのか、のぞみはまたコルクを鼻に近付けてふんふんと鳴らした。

 グラスに注がれたのは、見た目だけで判断するなら赤ワインそのものだ。ちょっと貸して、とのぞみからグラスを受け取って軽く回したが、アルコールの匂いはとんとしない。空気中に漂っているアルコール臭の方がよっぽど強いくらいだ。


「麗奈、飲みたい」

「ん、どうぞ」

「ありがと。いただきます」


 のぞみは壊れ物を扱うようにそっとグラスを傾け、中身を口に含んだ。気分はすっかり大人だ。


「どう? 美味しい?」

「なんか、ぶどうジュースより苦い? 甘くない? そんな感じがする」

「甘味料を多く含んでる市販のジュースよりずっと美味しいと思うよ」

「かっこいい味! ワタシこれ好き」


 うっとりした表情でちびちびと赤い液体を味わう。普段とは違う飲み物を味わえてうれしそうだ。

旅の途中は水ばかり飲ませてしまっているが、少し考えを改めようかと思った。荷物はあまり増やしたくないのだが。


「さてレナ。先に酒だけ味わってほしいんだが、君はお酒に強い方かい?」

「日本ではほとんど飲めないからちょっと分からないですね……全く飲めないことは、たぶんないと思いますが」

「それはよかった!」


 そう笑いながらリカルドが開けたのは、背の高い細身の瓶だ。手元のショットグラスに少しだけ中身をこぼし、リカルドがそれを私に差し出す。


「召し上がれ」


 ありがとう、とグラスを受け取って中身を少し飲んでみた。

 微かなブドウの香りを嗅ぎ取ったと思った瞬間、爆発するようなアルコールが鼻を突き刺した。舌がひりひりするほどの刺激にたまらず咳き込む。何だこれは。

 目を白黒させて咳をする私を見てのぞみは驚き、リカルドは声を上げて笑った。


「ちょっと強かったかな? 三十八度なんだけれど」

「ちょっとどころではなく、これは」

「美味いだろ。うちの自信作なんだ」


 同じものを一気に煽って笑っていられるリカルドを見て思わず苦笑いが出た。


「アルコールが強くてびっくりしました。火が出そうです」

「最初はみんなそう言うんだ。そのうち慣れるよ」

「随分と強いんですね」

「毎日ここで仕事してればこうもなるよ。味見とかしょっちゅうするからね」


 私はもう一口、今度は慎重に酒を舐めた。呼気が燃えるような感覚に襲われながらも、かぐわしいブドウの香りは確かに確認できる。飲み方さえ間違えなければちゃんと美味しいと思えるのかもしれない。

 奥が深い、とショットグラスを振って透明な中身を眺めた。グラスを透かした向こうではのぞみとリカルドが和やかに会話を重ねている。そののぞみの頬がいつもより色づいているのを見て、ふと彼女に声をかける。


「のぞみ、もしかして酔ってる?」

「酔う?」

「もしかして空気中のアルコールに充てられたかな」


 のぞみの顔を覗き込めば、どこか機嫌のよさそうな笑顔が浮かんでいる。私とリカルドは互いに顔を見合わせた。


「そろそろ外に出ようか」

「そうですね。のぞみ、外行くよ」

「うん」


 状況がちゃんと掴めずに惚けた顔をしたのぞみの手を引いて立ち上がらせる。その手はすこし暖かかった。



 店を出ると、もうすっかり日は暮れていた。気が付かないうちに長居をしていたようで、その旨を謝罪するとリカルドは慌てたように首を振った。


「長い事付き合わせてしまったのはこっちだよ。とっても楽しかった、ありがとう」

「こちらこそ、貴重な体験をありがとうございました。今度またこの街に来たときはぜひ寄らせてもらいます」

「楽しみにしてるよ。あ、良かったらこれもらってくれないかな」


 リカルドが差し出したのは、封の開けられていない小瓶だった。中身を聞けば、さっき試飲させてもらった蒸留酒だそうだ。


「旅をしているって言ってたから、一番かさばらない大きさを見繕ったんだけどどうかな」

「ありがとうございます。少しずつ飲ませてもらいます」


 小瓶を受け取ってから、私はまだのぞみの耳に翻訳機のイヤホンが引っ掛かっているのに気が付いた。ぼーっとしているのぞみからそれを外して、私がつけていたものと一緒に手渡す。


「これ、とても便利でした。すごいですね」

「あぁ、すっかり忘れてたよ。今日の会話はいいサンプルになりそうだ」

「お役に立てて何よりです」

「助かったよ。これで大学のレポートも何とかなる」


 照れ笑いを浮かべて、リカルドが翻訳機を手の中で転がした。

リカルドはそれをズボンのポケットに入れると、しゃがみこんでのぞみと同じ高さまで目線を持ってきた。彼女の頭を優しく撫でてこの国の言語で何かを言うが、翻訳機を通していないそれは、私とのぞみには理解できなかった。


「それじゃ元気でねレナ、ノゾミ。おやすみ、良い旅を」

「リカルドさんもお元気で。おやすみなさい」


 英語で言葉を掛け合い、私たちはホテルまでの道を歩き始めた。リカルドはしばらく、私たちに手を振っていた。


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