第1話 ③

 ホテルでもらったガイドには、この街の有名な建築物や人気のある料理店が写真付きで掲載されていた。写真もあるならのぞみもそれなりに楽しめるだろうと手渡すと、案の定興味を持ったようでそれを無言で見つめていた。


「この街はどこが一番素敵なのかな」

「有名なのは橋みたいだよ」

「橋? どこに書いてあるの?」

「そのページ。この街がまだ独立国家だった時代からあるんだって」

「古い橋なんだ。行ってみたいな」

「川の下流にあるのか……。ちょっと遠いけど、のぞみ歩ける?」

「大丈夫!」


 自分の体力を主張するようにのぞみが力こぶを作る真似をする。私はその頭に手を軽く置いて目的地を目指すことにした。



ホテルから歩いてほど近いところに川が流れている。この地域は日が長いようで、時計の短針は七を過ぎているのに辺りはまだ陽光で満ちていた。川の底で揺れている水草の隙間には魚が時折姿を見せる。それが肉眼で目視できるほどに川は綺麗だった。


「思ったより綺麗な川だ」

「魚だ! 見て麗奈! 魚が泳いでた!」

「あそこの草の下にもっといるよ」

「え? どこどこ?」

「緑の屋根の店があるでしょ。そこからちょっと下を向くと見える」

「ほんとだ!」


 今にも駆けだしそうな勢いの少女の手をしっかりと握る。手元の地図を確認せずとも、川を下れば橋に着くのは分かっていたのでゆっくりとした足取りで散歩に興じた。

 たまに頬を撫でる風が気持ちいい。街に入る前から思っていたが、ここは風が穏やさを運んでくる気がする。住んでいる人たちの表情も明るい。


「ここは自由なんだね」

「そうだね、みんな楽しそう」


 そう言ったのぞみの表情は見えなかった。声色からもその様子はうかがい知れない。のぞみの考えなんて分からない私は、ただ繋いだ手に力を少しだけ込めた。



 しばらく川の流れに沿って歩いていくと、離れたところに目的地が見えてきた。橋はそれなりに距離のある川の両端を繋ぎ、人々を運んでいた。少しだけ傾いた太陽によってできた影は輝く水面をほの暗くさせていた。


「あ、もしかしてあれ?」

「そうみたいだね」


 ガイドに写っている写真と見比べながら言う。実物の方がずっと綺麗だ。私たちのほかにも観光目的の人がいるらしく、写真を撮っている姿がちらほら見えた。


「大きな橋。鉄骨じゃないんだね」

「さっきも言ったけど、独立国家設立前の橋だから古いんだよ。ちゃんと保護されているからまだしっかりしてるんだとさ」

「なんだかあったかい感じがする。コンクリートじゃないからかな」

「あったかい、ねえ……確かにそうかもしれない」


 評判に違わず、街のシンボルの橋は美しかった。暖かな色合いは陽光に暖められて心まで柔らかくなるようだ。橋の向こう側は観光客向けの土産物がたくさん売っているらしく、人の多くはそちらに流れている。


「あ、なんか説明が書いてあるよ、麗奈」

「日本語はある?」

「うーん……多分英語とここの言葉だけかな」

「よし、読んでみよう」


橋の縁に付けられた金属製のプレートに近寄ると、そこにはこの橋の成り立ちと独立国家時代の歴史について端的に書かれていた。期待に満ちたのぞみの視線を感じながら、その内容に目を通す。



 まだこの街が一つの国家だった頃、流れる川を隔てて二人の貴族が街の支配権をかけて争っていた。美しい街並みは内戦により荒廃し、白い漆喰は街の人々の血で汚れた。死体を埋める土地すら足りなくなり、戦死者の亡骸は川に流されたという。

やがて、膨れ上がった犠牲者の数で貴族たちは正気を取り戻し、彼らは協力して街を治めることとなった。その協定の証として、川岸を繋ぐ大きな橋が作られる事になったのだった。橋の入り口にはそれぞれの貴族の紋章が飾られ、平和の象徴としてこの街の名物となっている。景観を損なわないため、そしてかつての戦争の犠牲者を弔うためにも街の環境保全には最善を尽くしているのだ。

 この橋より下流には、内戦が激化した頃の傷跡がいまだに生々しく残っている。建物の壁は銃創によって削れ、木々にはナイフによって犠牲者たちの悲壮なメッセージが彫られているのだ。じっくりと見れば、あなたにも見つけられるかもしれない。



「どうだった? なんて書いてあった?」


 のぞみの笑顔を見ながら、私は複雑な心境を隠せなかった。この街の風景が、凄惨な歴史に美しさを上塗りしているだけのように思えてしまったからだ。繋いでいた手を離して、のぞみの頭に手を置く。きょとんとした表情でこちらを見上げる彼女の綺麗な黒髪を、もやもやとした思いを消すように勢いよくかき混ぜた。のぞみは変声期前の高い声で怒ったような奇声を上げる。


「やだー! 髪の毛ぐしゃぐしゃになっちゃう!」

「ははは」

「笑わないでよ!」

「ごめんごめん」


 むくれて髪を直すのぞみに分かりやすいよう、橋から見える建物を指さした。生成り色の漆喰は一瞬だけ見れば眩いだけの代物だが、注目すると確かにいくつも傷が残っている。


「あそこの建物の壁に、穴がたくさん開いてるでしょ」

「? うん。ネジが落っこちたの?」

「違うよ。あれは戦争の痕なんだ」


 それを聞いて、のぞみはハっとしたように表情を強張らせた。戦争、と聞いて銃弾の痕だと気が付いたらしい。


「じゃあ、ここは平和じゃなかったの?」

「たくさんの人が傷ついて出来た平和だよ。戦争が終わった証にこの橋が出来たんだとさ」

「そっか……」

「どこに行っても同じだ。幸せができる前は必ず誰かの血が流れている」


目を伏せて橋の手すりをそっと撫でると、のぞみが手を重ねてきた。まっすぐにこちらを見つめる瞳は、陽光を吸い込んだ街の漆喰より眩しく見える。


「麗奈、渡ろう。向こうも見に行きたい」

「……分かったよ。行こう」


 この川を見ていた犠牲者たちは一体何を思っていたのだろうか。かつての街に思いを馳せながら、手を繋いで私とのぞみは歩きだした。

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