強くて弱い、人間
カラーパープルにみる、失われたときめきと恥ずかしさ、迷いと憧れ。
思い出したように繰り返し何度もみる映画、それがカラーパープルだった。と言っても最後にみたのは10年以上も前。当時新婚だった私と連れは小さなベッドルームで、小さなアナログテレビに映るケーブル放送かなんかで流れてくるその映像を眺めていた。何度もみた事のある映画。連れはその時初めてみるらしく、隣に座り躊躇なく涙を流し大げさに感動していた。それがおかしくて、私は映画の内容を殆どそっちぬけで連れの横顔を盗み見ていた。
結婚とはなんと暴力的な制度だろう?一緒に居たかったから私はこの結婚という制度を利用したに過ぎなかった。合法的に働けて、無理なく暮らせる、そして後ろめたさもない、それが結婚というものだった。違う国に住む者を好きになってしまったら、準備の出来てない段階で無理をして結婚してしまわなくてはならない。もう一つ決め手となったのが、当時好きだった、インターネットで出会ったあるアーティストがその国に住んでいたこと。何度かメールや手紙でやり取りしているうちに、その人の事が好きになってしまった。でもその人は女性で、私はその人とは(当時)合法的に一緒になる事すらできないし、その人が私の事を好きかなんてわからなかった。近くに居たいと思った。私は自分の事をずるい、欲張りな人間だと思う。その「好き」が、ただの所有欲による「好き」なのかさえもわからなかった。
カラーパープルはまだ幼い少女たちが虐げられ、自分の意見とは別に物のように扱われ、強く生きていく事を描いた映画である。スティーブン・スピルバーグ監督で、アリス・ウォーカーの原作を基にしている。ウーピー・ゴールドバーグやオプラ・ウインフリーのデビュー作でもある。一部、黒人の事を知らない人間が黒人の事知ったかぶりをしたように作って、なんて言われているけれど、人種を抜きにみても為になる、感動できる映画だと思う。
幼い花嫁たちは嫁いだ先から虐げられ、その身を捧げる。教養の無さだとか、意識の低さだとか、認められなかった個性や人間性だとかが、暴力と共に彼女たちを追い詰めていく。でも全ての女たちが弱いままではない。弱い中にも耐える強さが備わっている彼女たちは、周りの人間たちから良い影響を受けながら、自分という権利を主張し始める。人間たちは、決して弱いだけではないと思う。
夫の愛人であるシャグと主人公のセリー。夫の事を好きでもないセリーと、セリーの夫にそれなりの好意を寄せているシャグ。そこには妬みや嫉妬なんて存在しなかった。セリーは美しく聡明で社交的なシャグの事が気になり始め、シャグもあまりにシャイで自分をさらけ出すことを恐れているセリーを助けてあげたいと思う。女同士の友情なんて、いがみ合いと妬み合いだけだなんて思ったら大間違い。その友情には一種簡単にはほどけない絆が存在し、愛情がある。それはすごくピュアな恋の芽生えのようなひと時で、私は幼い頃の一方的な憧れだとか、親しみを思い出そうとしたけれど、切なくなるだけだった。思いを告げられなかったいくつもの淡い恋心は、何よりも美しく、純粋で、そのまま心の中で眠り続ける。それは儚い思い出だけれど、痛みなんかよりも美しく、ある程度美化されたその宝石はいつまでもそこにある。叶わない恋の方が多い世界だと思う。だから人それぞれ、その思い出の中で仕方なく生きていて、それがいいのかもしれない。
心の中では他の人を思い続けてもいいと思う。その人意外にも好きな人がいていいと思う。不誠実と片付けられようが、心の中にしまい込んで誰にも知られる事がないなら、それもいいと思う。心の中までは誰も裁けないし、自由であるべきだ。
そしてもしも、もしもだけれどお互いに好きだったとしたら、それはとても幸せな事だと思う。その恋を取り、今までの生活を犠牲にすることもありかもしれないし、お互いに今までの生活を守り、その思いを封印する事も哀しいけれど美しい。それはその人の価値観なんだと思う。セリーの夫のように、愛人をのこのこ家に招くような人間もいる。夫に愛人がいて、本当はつらいのに気にしていないわ、なんて強がる人もいる。コソコソ浮気を繰り返したり、何人も恋人がいる人間もいる。全てを理解できるわけではないけれど、妥協してそのままの関係を続ける人もいる。私も結局は妥協して、諦めてしまう人間なんだと思う。今までの生活が楽だから。そこから逃げて、新しい生活を始めるのはエネルギーが大量に必要で、今の私には到底無理だと思う。でもセリーは違った。決心は固く、夫を捨てた。捨てたんじゃない、逃げたんでもない、セリーは自立した。
彼女の夫は、まさか自分の妻が自分の元を去るなんて、夢にも思っていなかっただろう。いつまで経っても自分のいい奴隷で、そこに存在し続けると思っていたはずだ。男たちは弱いから、暴力や権力で女や立場の弱いものを言いなりにさせる。そしてこじつける。その暴力を正当化させたがる。認めるのは負けだから、それだけは嫌なのだ。男たちは負けるのや、笑いものにされるのが大嫌いだ。それは私にも一部あって、連れと喧嘩なんかすると、負けを認めるごめんなさいが言えない事が多い。ややこしい事に、世の中にはごめんなさいという謝罪が嫌いな人間も存在するし、ごめんなさいばかり言って誠実感がない人間もいる。本当に人付き合いというのは、何とややこしいのであろう。残された男たちは、頼られていたという幻想を打ちのめされ、自分が彼女たち無しでは何もできない事を知る。本当に愛しているなら、立場は対等であるべきだし、一方的に甘やかしたり、甘えたりすると、どちらかがいなくなった時に不備が生じるのは必然だろう。しかし女たちは、その生じた不備を乗り越えるのも結構したたかにできている気がするし、諦めない。一方の男たちは、ほとんどがふさぎ込み身の回りの事も手付かずになる。酒におぼれたり、鬱になる人もいる。親の代から続くしきたりのような、嫁を虐げるといういいつけ。それは愚かさなんかよりも劣悪で、洗脳という名の暴力だ。それを信じて実行したまでだから、本当は彼らだって被害者なのかもしれない。親の言いつけは正しいに決まっている。
私にとって結婚とは、やはり一緒に住んでみたかったから利用したに過ぎず、そこに燃え上がるような愛情があったかと問われれば、何か違う気がするし、結婚指輪もないし、式も挙げなかったし、新婚旅行なんてのも行かなかった。ただの紙切れ上の契約。めんどくさいものだった。(母親のいうステレオタイプのような、恋愛観や結婚生活なんかを自分なりに実行しようとしたが、うまくいかず焦った事もあった。母親を他人に否定される事が恐ろしかったこともあった。)もしこれから好きな人が現れ一緒になることになっても、今の連れとは面倒なので離婚しないと思う。(まあ一方的に離婚のプロセスをされたら離婚が成立するけど)祖父母も、両親もそうだった。
久しぶりに見たカラーパープル、始終涙腺緩みっぱなしでティッシュの山が出来ました。そして純粋に人を好きになってみたい、初恋もまだなのかもしれないなんて感じがしてしまい、まだまだ私と人間との歩みは始まったばかりで、もっともっと深いかかわり合いがしてみたいと思ったのでした。純愛のような、悲しく切ない物語が脳裏に浮かんで、書き留めておきたくなりました。
*文章の中にやたらと「女」、「男」って決めつけて書いてありますが、私的にはどちらとも人間と書きたかったのですが、意味が解らなくなると思い今回はジェンダーを分けて書きました。多くの女性、多くの男性、というのが正解かもしれませんが、一部の女性、一部の男性がというのがほんとうなのかも。
評論:書評・映画・音楽・その他 まみすけ @mamisuke
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。評論:書評・映画・音楽・その他の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
エッセイ/まみすけ
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 12話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます