5
アユタの旋毛の近くの髪の毛を切りながら、キリエは気を取り直して訊いた。
「旅をしていらしたと言う事ですが、アユタ様はこれまで、どの様な所へ行かれたのですか?」
「聞きたい?」
「是非
「そうだなあ……」
アユタは顎に手を添えて考える素振りを見せてから、ぽつりぽつりと見て来た物や出会った人々の話、耳にした話を聞かせてくれた。
どこかの山に住んでいる、猿の様に身軽な赤ら顔の人々。
広い広い水原だと言う海。
山間の土地を拓いて里を作った人々の額には角があり、彼らは鬼と呼ばれるそうだ。
金や水晶の採れる山。
旅をしながら予言をして歩く女性。
熊より大きな白い犬。
大蛇を封じた湖。
神話の息衝く村。
此処より遥かに西と南に行った所にある、多くの人々が住む都……。
山の生活以外を知らないキリエの貧困な想像力ではアユタの話すものの全てを頭の中で再現は出来なかったが、見た事の無い世界を思うと胸がわくわくした。
頭部の髪の毛を手に取って、キリエは息を吐いた。
「アユタ様は、本当に、色んな所へ行かれているのですね」
「今話した以外にも色々あるから、また時間がある時に話してやるよ」
「本当ですか?」
「勿論」
アユタは気安く請け負った。思わず顔が綻んでしまう。
「嬉しいです。でも、お話が聞けるのもいいけれど、私もアユタ様が言う所へ行って、自分の目で見てみたい」
「行けば良いじゃないか」
アユタは頭は正面を向けたまま、目だけでちらりとキリエを見る。
「キリエは?」
「私ですか?」
「ああ。いっつもここで同じことの繰り返しじゃ、気が滅入るだろ。山を降りてさ、どっか行ったりしないの? 麓に村もあるんだし、そこで誰かを手伝ってどっかに行ったりさ。話だって聞けるだろ」
「いいえ。私はこの家に来てから、山を降りて何処かに出掛けた事はありません」
「……嘘だろ?」
「本当です」
「ずっと?」
「はい」
キリエ回答に余程驚いたらしく、アユタからの返事が途切れた。
そんなに驚く事があるだろうかと、髪を切りながら首を傾げる。
「私はおかしい事を申しましたか?」
「おかしいってか……」
アユタは少し言い淀んで、頷く。
「本当に、出掛けたことないのか?」
「たまに山に入ったり、麓の村の近くに行く事はありますけど、本当に山を出た事はありません。村へも入りませんし。一日も居らずに戻ります」
「そっか……」
アユタはあぐらをかいた膝の上に肘を載せて、頬杖をついた。
少し頭の位置が変わったので、キリエもアユタに会わせて膝を進める。
アユタは何か考え込むようにしながら、キリエに訊ねた。
「キリエがどこにも行かないのは社が……社にあの剣がある所為か?」
「それもあるかもしれません。暗くなる前には戻って来る様に、剣から離れる事の無い様にと婆様に言われておりましたので」
「ふーん……」
アユタは頷いたものの、何か釈然としない様子だった。
会話が無くなったので、キリエは何時の間にか止まっていた手を再び動かし始める。
しかし幾らもしない内に、アユタがキリエに問い掛けた。
「ならさ、キリエ、あれを持って行けば、キリエは俺に付いて来るか?」
「……えっ?」
聞き間違いかと、髪を切る手を止めて聞き返した。
キリエの手が止まったのに気付いて、アユタが振り向く。
悪だくみをする様な顔で笑っていた。
「俺があの剣を社から持って出て行く。あれから離れちゃいけないならキリエも当然、付いて来る。それで俺と一緒に色んな所を旅すれば良いさ。きっと楽しいよ」
アユタの提案に開いた口が塞がらなかった。
目をまんまるく見開いて、たっぷり驚いてから、やっとの事で声を絞り出す。
「……そんな事、考えた事もありませんでした……」
「良い考えだろ?」
アユタは得意気に笑って見せた。
「でも駄目です」
「なんでだよ」
「剣は社で祀るものですから」
「そう決まってるのか?」
「決まっている……のだと思います。多分。分かりません。持ち出されたところを見た事がありませんので」
「……へえ、そうか」
アユタはそれきり口を噤んで、質問をしてくることは無かった。
恐らく訊いてもキリエが答えられないであろう事を察したのだろう。
仕上げとばかりにうなじの髪の毛に取り掛かるキリエに、あーあ、とアユタが声を漏らす。
「良い考えだと思ったんだけどな」
「凄い発想だとは思いました」
「だろ? まあでもそうなると結果としては、俺はこの社からキリエとあの剣を盗んだって事になるんだろうけど」
「悪い事はいけません」
「じゃあ剣を持って自分から俺に付いて来る?」
「それとこれとは話が別です」
「そいつは残念」
「アユタ様、あまり無茶ばかりおっしゃらないで下さい。怒りますよ」
「良いぜ、怒ってくれよ。キリエに怒られるんなら、むしろ嬉しい」
「ええ?」
まさか怒って欲しいと返されるとは思っていなかった。
困って情けない声を上げる。
それを聞いてアユタが大きく吹き出し、そのまま声を立てて笑い始めた。
アユタが笑う理由が分からずぽかんとしているキリエに、目尻に浮かんだ涙を拭いながらアユタが訊ねてくる。
「ごめん、本気にした?」
「え……っ? え?」
「悪い悪い、本気にされるとは思わなかった。冗談だ、あんま気にすんな」
「からかわないで下さい!」
声を大きくして抗議するが、アユタは全く堪えた様子も無く、また明るい笑い声を上げた。
アユタの笑顔と笑い声に、怒っているのが馬鹿らしく思えてしまってキリエは握った拳を解く。
アユタと話していると、キリエの心は忙しい。
笑わされたり、わくわくしたり、怒ったり、からかわれる事もしょっちゅうだ。
なのに、不思議とアユタを嫌いはなれない。久しく一人きりだった所為か、誰かと話すのは楽しかった。
けれど、話す相手がアユタだからこそこんなに楽しくて嬉しいのだろう。
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