けれどそれも一瞬の事だった。

瞬きをするとアユタは平時と何も変わらない、明朗な少年の姿でそこに座っていた。


今のは何だったろう。跳ねた胸の鼓動を聞きつつ、アユタに一歩、にじり寄った。

近付いて見てみても、先程の様な翳りは見えない。

思い過ごしだったのだろうか。

キリエに気付いたアユタが目を向けた。


「どうした?」

「いえ……」


キリエは目を逸らしかけた。

しかし何も無いのに近付いたと言っては不自然だろうか。

そう考えて視線を泳がせると、そこにアユタが持っていた小刀が見えた。

そう言えばアユタは髪を切りたいのだったと思い出し、再び顔をアユタに向ける。


「よろしければ、私が髪を切りましょうか」

「良いのか?」

「もう家事は終わりましたから」


アユタは少しばかり逡巡したが、頷いて刃を差し出した。


「じゃあ、頼む」

「かしこまりました」

「髪の毛と一緒に耳を切ってくれるなよ」

「頑張ります!」


意気込んで答えたキリエに、アユタは笑った。

そこに翳りは無かった。いつもの明るい笑みだったので、安心してアユタから刃を受け取った。



アユタを縁側に座らせて、キリエは水を汲んだ桶と手拭いを用意した。

身体に付いた髪の毛を拭き取る為だ。

別に無くても良いのだが、幼い頃に婆に髪を切ってもらった折に、細かい髪の毛が襟の隙間から中に入ってしまい、それが取れない痛痒さに泣いてしまった事があってから、手元にそれらが無いと落ち着かなくなった。

言わばキリエの習慣だった。


準備を終えて戻るとアユタが上に来ていた着物を脱いだ。

外の寒い風がそのまま吹き込んでくるのにも構わず、素肌を露出させる。

それを見てキリエは息を呑んだ。

恥ずかしかったのではない。

そもそも着替えさせる際に一度見ている。

理由はあまりにアユタの身体が痛々しい様相を呈していたからだ。


以前は突然の闖入者、しかも病人という事で頭が一杯で大して気にも留めなかったが、アユタの身体には無数の痣があった。

治りかけらしく大抵は黄変していたが、黒ずんでいる箇所もあった。

これでは眠っている時でも痛かった事だろう。

腕にも切り傷や擦り傷を負っていたが、そちらは赤黒い瘡蓋になっている。

傷だらけのアユタに言葉を無くすキリエの視線を辿ったアユタが、自分の身体を見下ろして、ああ、と声を漏らす。


「なんか汚いよな。悪いもん見せてごめん。まあ、もう少ししたら治って消えるし、勘弁してくれ」

「少し驚いただけです」


勘弁も何もアユタは悪い事はしていないのだから、謝る必要など無いではないか。

しかしそれを何と伝えればよいのかと迷っている内に、アユタは縁側にさっさと腰を下ろしてしまった。

キリエは伝える機会を失って、仕方無く何も言わずアユタの背後に膝立ちになる。

鞘から刃を出して恐る恐るアユタの髪の毛を手に取り、一房、切った。

緊張しながら、更に切る。


暫くの間、髪を切る音だけがしていた。

アユタは後ろを振り向く事も無く、大人しく座って少し顔を俯けている。

筋肉で引き締まったアユタの首は、筋と骨で浅い窪みが出来ていた。

アユタの肌を傷付けない様にと気を払いながら、キリエはアユタに訊ねてみる。


「……アユタ様は、此処へいらっしゃる前は、何をなさっていたんです?」

「前に言ったろ? 旅だよ、旅」

「こんなに傷だらけになる様な旅だったのですか?」

「それは、まあ……うん、そう」

「本当、ですか?」

「うん。半分は」


あっさりとアユタは頷きかけるが、しかし途中でキリエに髪を掴まれているのを思い出した様で、僅かに顎を動かすに留めた。


「以前もそうおっしゃっておりましたね。半分って何ですか」

「もう半分は言えないって事」

「言えない様な事ですか?」

「いやだって、恥ずかしいじゃん。下手打ってこんな傷だらけになったとか言うの」

「何をなさったのです?」

「それは秘密」


アユタは意地悪く笑った。

あくまでも口を割る気は無いらしい。

そんなアユタの反応に、キリエは頬を膨らました。

どうかしてアユタの事を知ろうとしているこちらの考えを見透かされた様で面白くない。

同時に少しだけ、寂しくもあった。

矢張りアユタは何もかもを話すつもりは無いのだ。

たまたま行き合って、たまたま寝場所を提供しているだけの人間だと思っているのだとしたらその通りであり、確かにそれ以上の間柄ではないのだが。

しかしアユタにそう思われるのは寂しかった。


折角こうして話をする様になったのだから、知らないアユタの事をもっと知りたかった。

そう思うのは我儘だろうか。

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