2
アユタは唇をいじる手を止めてキリエを見たが、説明する前に首を傾げた。
「どちらって、場所? 言って分かるか?」
「……分かりません」
恥じ入って俯くと、アユタは匙を振りながら宙に視線を彷徨わせた。
場所の分からないキリエにどう説明したものか考えているらしい。
「そうだなあ、何て言うかな……此処から山を西に――つまり太陽が沈む方向にだけど――幾つか越えた所に大きな郷があってさ。そこから来たんだよ」
「何故ですか?」
「知りたいか?」
「気になります」
「旅だよ。世の中を見ようと思ってな」
「……本当ですか?」
「まあ半分くらいは」
「全て教えては下さらないのですか?」
アユタは肩を竦めた。
矢張り話す気は無いらしい。
キリエはむっとした顔付きを隠さずアユタを見たが、アユタはそれを気にする風も無く、愛想良く笑った。
「色々見てる内に何か貰って来たんだな。ここ最近ずっと調子が良くなくて、目の前は霞むし頭はぼんやりするし、相当参ってたんだ。見た目は完全に浮浪者だから里に下りても泊めてくれる家も無い。寒い中で野宿するしか無いもんだから悪くなる一方でさ。此処に来たのは偶然だけど、看病して貰えて本当に助かった」
「お役に立てたなら何よりです」
アユタは微笑んでいる。
こちらの出方を窺っているのだ。
キリエは息を吐いて話を戻す。
「それを食べ終えましたらもうお休み下さいませ。まだ熱は下がってはおられないでしょう」
「大丈夫だと思うけど」
「失礼します」
キリエはアユタの額に手を伸ばした。
自分の掌と比べてみるとアユタの額はまだかなり熱く、汗ばんでいる。
まだ治りきっていない証拠だ。
手を離して見れば、アユタは顔を赤くしてこちらを見ている。
「まだ熱がおありです。どうぞお休み下さい」
「それは、今のはキリエが」
「私がどうしました?」
「いや……いいや」
首を傾げるキリエにアユタはそれ以上は説明しようとせず、黙って粥の残りを平らげた。
空の土鍋を押し遣る様にしてキリエに手渡すと、布団を掴んで寝転がる。
キリエはその額に、桶に漬けていた手拭いを絞って載せてやった。
アユタは手拭いを受け取りながらキリエを見上げる。
「なあキリエ、俺は何時までここに居て良いんだ? 目が覚めたんだから出てけ、とか言わない?」
「言いませんよ。元気になるまで、ゆっくりなさって下さい」
「良かった」
アユタは表情を緩めて、ほっと息を吐いた。
心底安心した様子で布団を口元まで引き上げ、申し訳無さそうに笑う。
「本当言うとさ、この寒い中また放り出されるんじゃないかってひやひやしてたんだ。ありがたく居候せてもらうよ」
「どうぞご安心下さい。……それでは、失礼致します」
キリエは盆を持って、アユタの部屋を後にした。
厨へ戻る廊を渡りながら、居候するというアユタの言葉を胸の中で繰り返す。
婆が死んでからずっと一人で居たこの家に、アユタが居る。
名前以外は分からない男が、この家に。
そう思うとキリエの胸は、緊張と微かな不安で脈打った。
** ** **
アユタが寝起きする様になってから家の中は少し騒がしくなった。
と言ってもアユタが騒いで喧しいのではない。
自分以外の人の気配が、自分以外の誰かが生活する音がキリエの耳に騒がしく感ぜられるだけであって、生活自体は至って静かな物だった。
それまで一人で食べていた食事も、アユタが別々ではつまらないと言うのでアユタの寝ている部屋で一緒に食べる様になった。
アユタはする事が無くて余程飽き飽きしていると見え――もっとも、何時でも起きていて暇を持て余している訳では無く、むしろ眠っている事の方が多かったが――顔を合わせると必ず外に出たいと駄々を捏ねた。
その度にキリエは病人は寝ているのが仕事だと言い返した。
その気になれば見ていない内に勝手に出て行けそうなものだが、アユタは律儀にもキリエの言った事を無視したりはしなかった。
キリエはと言えば、突然始まったアユタの居る生活に少々戸惑っていた。
婆が死んでからこのかた、ずっと一人で居たのだ。自分以外の誰かが生活の中に居ると言うのがどういう事かすっかり忘れていた。
しかしアユタに対し嫌悪は感じなかった。
誰かの音が聞こえるのはこんなに楽しい物だったか、誰かの声が聞けるのはこんなに嬉しい物だったかと、自分でも不思議になるくらいだった。
不安はまだ溶けないけれど、アユタに対する警戒心は日を追う毎に薄れていった。
それは恐らくアユタの生来の気質も大きく関係しているのだろう。
アユタはよく喋るし、よく動く。
よく笑うし冗談を言ってキリエをからかったりもする。
明るく陽気なアユタはキリエの性質とは全く違っていたが不快ではなかった。
キリエは静かな生活が好きだった。
しかし、アユタの居る騒がしい生活も悪くはないと思えた。
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