2
御堂の戸は開いていた。
キリエ以外に家に住む者は居らず、よって、御堂の戸を開ける物も居ない。
家の近辺に住んでいるのも獣くらいのものだが、獣が剣に用事などあるまい。
風の所為かと思ったキリエだが、良く見れば、御堂に上がる階に泥が付いていた。
足跡の様だ。
先程の獣道の様な跡を思い出す。
あれは獣の通った跡ではなく、人の通ったものではないか。
それでは草を掻き分けたその誰かが、此処に居るのだろうか?
キリエは逸る胸を押さえて階を上がり、戸を開いた。
開け放した戸と、御堂の隙間から差し込む朝日を浴びながら、剣は変わらず鎮座している。
しかし、その前に、黒く蟠った影があった。
悲鳴が喉まで出かかったが、辛うじてそれは飲み込んだ。
初め、熊でも丸まっているのかと思った。
それにしては影が小さいので、次には、手負いの羚羊でも蹲っているのかと思った。
御堂の入口でキリエは立ち尽くしていた。
黒い影は動かない。
凝視している内に暗がりに目が慣れ始め、その影の形が段々とはっきりしてくると、キリエは今度こそ声を上げた。
そこに居たのは人間だった。
まだ若い男だ。
少年と言っても良い。
暗がりである事、遠目に見ている事を差し引いても、瞑目した顔立ちに幼さが残っている事を見て取れる。
キリエと同じ年の頃か。
着ている物は泥だらけ、あちこち破れ、擦り切れている。
やつれた頬や剥き出しの手には幾つも赤い傷が走り、赤黒く瘡蓋になっている物もあれば、血が滲んでいる箇所もある。
髪の毛は縺れて絡まり、人のそれと言うよりは冬の獣の毛と言った方が近い様だ。
キリエが声を上げても、少年は目を覚まさない。
それどころか身動ぎ一つしなかった。
ひう、ひうと、空気が喉を通り抜ける嫌な音がする。
どうすべきかとキリエが戸惑い立ち尽くしていると、不意に、少年が大きく背中を丸めた。
ひゅっと一際激しく息を吸い込む音がしてから一拍置いた直後、肺が軋む様な咳が少年の口から連続して吐き出されて、キリエは意を決して少年に近付いた。
咳をする度に少年は身体を痙攣させる。
近寄って見れば少年の顔は頬だけ異様に赤かった。
悪いと思いながらも手で触れてみると、火の様に熱い。
発熱しているのだ。
冷たいキリエの手が触れて気が付いたのだろう、少年がうっすら目を開けた。
充血した白目の中には、丸い、鳶色の瞳があった。
それはぼんやりと遠くの景色を見る様に暫し宛て所無く彷徨った後で、漸くキリエを見つけて焦点を結ぶ。
目の中にキリエの姿を認め、少年は湿った息を大きく吐き出す。
そしてそのまま今度こそ、目を閉じて昏倒した。
誰かは知らないが熱を出して倒れた人間を放っておく訳にも行かず、キリエは少年を家へと運んだ。
力の抜けた人間と言うのは重くて運び難かったが、苦心の末に少年を運んで何とか服を着替えさせ、敷いた布団に寝かせた頃には冬だと言うのに汗ばんでいた。
切らせた息を整えながら、キリエは少年の寝顔を覗き込む。
眠っているのに汗を掻き、苦しそうに眉を寄せて呻いている所を見るに、余程悪い夢を見ている様だ。
手拭いと水の入った桶を用意して、硬く絞った手拭いで少年の汗を拭ってやったキリエは、それをもう一度水に浸して絞り、少年の額に乗せる。
暫くその苦しげな寝顔を見守った後、キリエは社へ戻り、泥だらけの床の掃除を始める。
後片付けをしながら、考えるのは熱を出して魘される少年の事だった。
彼は何者で、何処から来たのか。
どうして此処へ来たのだろうか。
本人に確かめなければ分からない事ではあったが、考えずにはおれなかった。
少年の付けた足跡も拭き、雑巾を水ですすいで汚れた水を庭の隅に捨てる。
これからもう一度、炊事に使う水を改めて汲みに、沢へ行かなければならない。
キリエは足を止め、深呼吸をして空を見た。
空は冬の清浄さを体現した様な、冷たく澄み切った青い色だった。
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