一章
1
その日もキリエは何時もの様に目を覚ました。
冴えた空気を胸に一杯吸い込むと、身体の中から透明に透き通って行く気がする。
キリエは寝床を出て、足元から這い上がる冷気に身を晒しながら外に出た。
小さい庭の隅の枯れ残った草の表に、霜が降りて白くなっている。
キリエは爪先につっ掛けた草履を鳴らしながら近付き、しゃがんで草に手を伸ばす。
そっと触れると霜は音も無く融けて、指の形に跡を残した。
時節は冬だ。
一巡りする季節の中で最も冷たいこの時期は、一年の終わりであり始まりでもある。
夏に隆盛を誇った樹木は裸に、野山を駆け回った動物達はねぐらで眠り、遠い春を待っている。
冬の山は夏に比べれば冬は見るにも聞くにも、物寂しい。
静かなこの時が、キリエは好きだった。
水も空気も冷たく澄んで、世の全てが綺麗に透き通ったもので満たされている様だ。
そう思うとキリエは決まって嬉しくなり、手足の先から迫ってくる冷気もさえも愛おしくなる。
年の瀬が迫り、一年が終わり新しい年に生まれ変わろうとしている今日この頃は、その気分も愈々高まってきて、キリエは新たな始まりが楽しみだった。
キリエは部屋に引っ込んで寝巻きから着替えた。
そのままでは寒いので、着替えた上に更に上着を羽織り、ついでに顔も洗おうと手拭いを首に掛ける。
霜柱で持ち上がった土を踏みながら家の裏に回り、キリエは手桶(ておけ)を持って山に分け入った。
キリエの家には井戸が無い。
炊事やその後の洗濯や掃除に使う水は、その都度、必要な分だけ近くを流れる沢から汲んでくる必要があった。
沢は少し歩いた所にある。
霜で足を滑らせない様に気を付けながら水際まで降り、冷たい流れに手を浸して水を汲むと、氷よりも冷たい水に体温は奪われて、あっと言う間に指先はかじかんだ。
冷たい指に息を吐くと、吐息は白く形を作った後で空気に冷やされ馴染んで見えなくなる。
流れの上から冷たい風が吹く。
鼻の頬も耳も、顔の中で高い所は寒風を浴びて痛んだ。
水を汲んだ手桶を脇に置き、冷たい沢水で手拭いを絞って顔を拭く。
気分がさっぱりした代わりに顔も手拭いも指先も、凍りそうな程冷たくなった。
その場にしゃがんだまま何度か手を握ったり開いたりして血の巡りを促し、指先の感覚が漸く戻ってから手桶を抱えて立ち上がり、踵を返す。
そこで初めて不思議な事に気付いてキリエは足を止めた。
家から沢に降りるまでには草を踏み分けた道がある。
キリエが毎日幾度も同じ所を通る内に自然に出来た道で、そこだけ草の成長が遅い。
しかし、来るときは気付かなかったが、そこではない、茂る道柴が掻き分けられていた。
大きな何かが通った跡だった。
夏場であれば、獣が道芝を分けて道を作る事も珍しくはないのだが、と、 キリエは不思議に思いながらも、手桶を持って元来た道を戻って行った。
水を零さない様に気を付けながら斜面を登り、家には入らず庭を突っ切ってその隅にある祠に向かう。
否、祠と呼ぶにはいささか大き過ぎるきらいがあるので御堂と言った方が良いかもしれない。
古びた粗末な御堂の最奥には剣があった。
御堂が出来た時からそこにあり、寧ろこれがあるから御堂が建てられたと言っても良い。
青銅で出来た諸刃の剣だ。
剣に御霊を宿している神は名をフツミカヅチノカミと言う。
雄々しく荒ぶる雷の神だ。
婆が大切にしていたのでキリエは何も言われずとも剣が神聖な物だと理解したが、何がどのように神聖で尊いのかは、教えて貰わなかったので知らなかった。
しかし訊いた所で恐らく婆も知らなかっただろう。彼女も同じ様に、彼女の家族から教えられたに違い無い。
そうやって前代の口から次代の耳へと伝えられて行く内に理由や因果は意味を無くし、その行為だけが残ったのだ。
だからキリエは、剣に宿る神の名前と性質を知ってはいても、それを祀る理由は分からない。
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