夏の裁断

さわだ

夏の裁断




学校も夏休みに入る七月の終わり、朝からでも強い日差しに外へ出るのが躊躇われるが、仕立ての良い紺のスーツを来た男は綺麗に磨いた革靴を履き、旅行用の大きなキャスター付きケースに手を掛けて玄関から立ち上がった。

「じゃあ出張行ってくるよ」

「行ってらっしゃいパパ」

家の中から声を掛けたのは色白肌の少女、金色の髪を三つ編みにして後頭部で編み込んで細い首をみせていた。

カットソーとキュロットパンツの部屋着は夏らしく涼しげで、対面のパパと呼ばれたスーツ姿の小男と呼ばれてもいいくらい背が低く、既に白髪が交じり始めた中年の男と比べると何もかもが違っていた。

暑苦しい服と涼しげな服、毛が薄くなり始めた頭髪と黄金に輝き出しそうな金髪。

広めに取ってある玄関で小男は苦笑する。

何度か味わった自分の娘にパパと呼ばれる違和感。

いや、これは違和感じゃなくて幸福感だろうか? 自分にこんな可愛らしい娘を授けてくれた亡き妻への感謝の気持ちは絶えた事は無かった。

「じゃあ友奈(ユナ)元気で」

「パパも気をつけてね」

腕を伸ばして軽くハグをする。

「あーそうだお土産は何がいいかな?」

「食べ物だったら何でも良い」

「そうか、分かったよ」

「それ以外のものはパパはセンス無いから買ってこなくていいもの」

輝かしい笑顔でセンスを否定された父は苦笑いしたあと、口を一文字に結ぶ。

「あーあと、あれだ。ベックの事は頼むよ」

「頼むって、なにすればいいの?」

「ちゃんと餌をやってくれ最近また食べてないんだろ?」

「そうみたい」

少女は手を後ろに回しながら下を向く。

「まあ、死にはしないと思うがその面倒みてやってくれよ」

「私が面倒見るの?」

「ベックは僕たち家族の「大事なペット」だ」

父親は自分と友奈を交互に指差して言った。

二人は一瞬溜息を付くような間の後、クスクスと笑い始めた。

少女は顔を上げると笑顔になっていた。

「ベックの面倒は私に任せてパパはお仕事頑張って来てね」

「ありがとう友奈」

もう一度二人はハグをする。

「行ってらっしゃい」

「ああ行ってくるよ」

玄関で手を振る友奈を見ながら、昔は出張に行くときには半べそになったり、玄関を出て門の外で大きく手を振って見送ってくれたのにと父親は少し寂しくもなったが、来年には高校生になる娘の歳の事を考えれば玄関までの見送りは当たり前のような気がした。

大きな家を見上げて父のアビントン・讓は少し不安になった。

一週間ほどの出張だが、この家に愛娘を一人にするのには抵抗があった。

もちろん友奈はもう子供ではないが、立派な大人になるにはまだ時間が掛かる。

「まあベックもいるから何とかなるか……」

丸くなり始めた背中を更に丸くして、讓は近くのバス停まで大きなキャリーケースを引きずり歩き始めた。




母親のアビントン・メアリーが亡くなってからこの家の家事は娘のアビントン・友奈と父親のアビントン・譲の二人で行っている。

友奈は日本人の旧姓足立讓(あだちじょう)とメアリー・アビントンが大学生の時に学生結婚して生まれた。

母親はイギリスの旧家だったらしいが、両親の反対を押し切って父の讓と結婚、友奈を生んだ後に小学生になる前に病で亡くなった。

それからアビントン家の家事は友奈と父親二人で分担して行っているが、その家事は良い言葉を使えば効率的、悪い言葉を使えば粗雑である。

都心郊外に買った大きな家なので収納場所には困らないが、階段には本が積まれていたりしてモノが溢れている。

掃除は我慢できなくなったらやるという感じなので、家全体はほこりっぽい。

そろそろ掃除しないといけないなあと友奈は溜息を付きながら玄関から台所へ向かう。

「じゃあ餌の準備……」

友奈は戸棚から大きめのシリアルボウルを取り出して、テーブルの上に置いてある箱に入れっぱなしのシリアルを傾けてシリアルを山盛りに入れて、牛乳パックを取り出す。

シリアルボウルに山盛りしたシリアル、開けたばっかりの一リットルの牛乳パックをお盆も使わずに右手にシリアルボウル、左手に牛乳パックを持って友奈は埃まみれの階段を登って二階に上がった。

二階の一室の扉の取っ手をシリアルボールを持った手で押すと、鍵も掛かってない扉はゆっくり開く。

部屋を開けるとカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中には誰も居ない。

床一面に広がっているのは様々な種類の布だった。

丸められたものや、無残に破けているもの、沢山の種類の布が乱雑に散らばっている。

壁には大きさが不揃いなトルソー、胴体部分だけのマネキンが光に当たって影を作っている。

その横には古い業務用のミシンと紙形を取る大きくしっかりとしたテーブルが置いてあった。

「ベック、どこに居るの?」

友奈は部屋の中に入り、テーブルの上にシリアルと牛乳パックを置いた。

「ベック?」

部屋には埃っぽい臭いが充満していたので、友奈は北側の窓を開けようと動くが床に散らばってる布きれを踏まないようにしながらゆっくりと歩いて窓枠の前に近づく。

「開けるな」

「えっ?」

「窓を開けるな気が散る」

「ベック? どこに居るの?」

「君の足下だ」

友奈が下を向くと重なった布の山の中から顔が出ていた。

「何してるの?」

驚くというよりは呆れたように友奈は足を引いてベックから遠ざかった。

「これが僕の仕事だ」

床に仰向けになって布に塗れてミイラのようになる事が仕事になるのはどんな仕事なのかと聞いた方が良いのかと友奈は思ったが、知っていることを聞くのは無駄だと思っているので聞かなかった。

「ベックは仕事熱心ね」

「そうだろう、僕は忙しい」

布から出ている顔は堀が深く、頬は痩せこけていた。髪は短いが癖毛でひねくれていて、それだけで初対面の人には気難しそうな印象を与えるだろう。

ミイラのように薄暗い部屋の中で腕を伸ばして真っ直ぐな姿勢で寝ている姿は映画で見た吸血鬼などの悪役が眠りから覚める前の姿にそっくりだった。

「どうして窓を開けちゃいけないの?」

「なぜ同じ事を聞く?ついさっき気が散ると言っただろ? 」

「そうだけど……」

ベックは寝て、目を閉じたまま口を開く。

「ジョウはどうしたんだ?」

ベックは友奈の父親の事を名前で呼ぶ。昔っからの親友で子供の頃から呼び方は変わって無いらしい。

「えっ?」

「君はジョウに言われたから部屋に来たんだろ?」

「そうよ?」

「ジョウは?」

「また出張に出掛けた」

「そうか……忙しいヤツだ」

友奈は床で寝てるだけのベックに忙しいヤツだと軽蔑される父に少し同情した。

「パパがベックにご飯あげなさいって、それで朝食持って来たの?」

「シリアル?」

「そうだよ」

「ミルク?」

「牛乳パックごと持って来たよ」

初めてベックは目を開く。細い切れ長の黒い瞳は真っ直ぐと天井を向いていた。

「コーヒーだ」

ゆっくりとベックは上体を起こして寝言のように呟いた。

白いシャツは床で寝ていたのに型崩れしておらず、黒いパンツ姿はまるで高校生のような恰好だった。

「後は熱いコーヒーだ」

日が当たらない部屋とはいえ、午前中でも夏の暑さは部屋を蒸し暑くしている。

しかもほこりっぽい部屋でコーヒーを飲みたいというベックの気持ちが友奈には理解できなかった。

「必要なの?」

「ああ今の僕には必要だな」

「わかった、持って来るから先にシリアル食べて」

「待て」

「なに?」

「君が入れるコーヒーはとても不味いからいらない、僕がシリアルを食べたら自分で煎れる」

そう言ってベックはスクッと立ち上がって、テーブルの上に置かれたシリアルを見つけると椅子を持って来て、シリアルに牛乳をかけて食べ始めた。

友奈は納得行かない顔をしながら、部屋のカーテンと窓を開けた。

「気が散ると言っただろう?」

「食べてる時は関係ないでしょ?」

「食べながらだって考えられる」

「何を?」

ベックはスプーンを握った手を友奈の方に向けた。

「君のワンピースだ」


ベックと呼んでいる男は神庭 別宮(かんばべっく)という本名で日本生まれの両親の元に生まれた日本人だ。

だが掘りの深い顔と腰高の長身、手足の長さは日本人の平均より長く、街を歩くとよく外国人観光客に道を聞かれるくらい日本人には見えない時があるが、中学生の頃から地元の中学校で友奈の父親の讓と親友だった。

事務仕事の父親と違ってベックは昔から手先が器用で、背が伸びて自分に合う服が見当たらないので自分で作っているうちに洋裁が上手くなり、今は個人でオーダーメイドで服を作ったり、ネットで売ったりして生計を立てている。

そのアトリエは友人である旧姓足立、アビントン讓が三十年ローンで建てた家に寄生しているのは色々な理由があるらしいが、友奈には父親が二人居るみたいで面倒極まりないものだった。

「ベックねえ何度もイヤ……」

「黙って、僕は何度でもするんだ」

「だって胸のところに手が触ってる」

「当たり前だろ」

ベックは友奈の顔を覗き込む。

「うむ、やっぱりまた大きくなっているな」

「そういう事は本人の前で言わないでよ……」

友奈は恥ずかしそうに胸を手で押さえる。

「事実だ」

巻き尺をズボンのポケットにしまってベックは何やら考え込み始めた。

「私が恥ずかしいの」

「オムツも替えた事がある僕が君の胸のサイズを測ったところで何が恥ずかしいのか?」

「オムツを替えて貰った時の事なんか覚えてない!」

「君は僕がオムツを替えている時はいつも嫌そうな顔をしていたな」

ベックはいつも人の話を聞かない。

ずっと友奈の事を子供扱いしていた。

ベックが友奈の家、アビントン家に住み着いたのは友奈が生まれてすぐだったから、もうずっと家族同然で暮らしている。

「君はやっぱり洋服が似合う。メアリーと同じ洋服の国生まれの身体をしているな」

「褒めてるの?」

「馬鹿にしてるように聞こえるのか?」

「私はどうせガイジンですよ……」

「ハーフだ」

「ハーフでもミックスでも言い方は何でもいいけど、どうせ私は金色の髪とガラス玉みたいな目をした異人さんだもの……英語の成績悪いと不思議そうな顔をされるし……」

ふて腐れた友奈をそのままにベックは巻き尺で測った数値をブツブツと声に出して繰り返す。

「なるほど君は益々洋服が似合う身体になっているな、素晴らしい」

採寸を終え巻き尺を巻き取り、満足したのか嬉しそうに作業台に向かった。

「洋服が似合う身体って?」

「君は骨格もしっかりしているし手足も長い、下地はバッチリだ。そこへ筋肉と適度な脂肪が付いて柔らかいが線の崩れないしっかりとしたボディラインを身につけ始めている」

「脂肪ついてる?」

「君の胸や腕や尻、太股についているモノは筋肉だけではないだろう?」

カットソーとキュロットパンツの上から友奈は胸やお尻を隠すが、ベックは気にしないで作業台の上に置かれた布を切り出す為の紙型を作り出そうと定規を当てながら鉛筆を走らせ始めた。

「君は本当にメアリーに似てきたな」

「ママに?」

「ああ、君の母親だ忘れたか?」

「覚えてない……」

「そうだったな」

友奈の母親、アビントン・メアリーは友奈が小学校に上がる前に病気で亡くなった。

友奈は幼い頃の母親の記憶は曖昧だが、父が部屋に飾った写真が沢山あって毎日見ている。

自分と同じ金色の髪と青い目だが、両親とも英国人の母はやはり自分とは違ってとても背が高くてスラッとした体型でとても美しかった。

大学から日本に来て、父と結婚してメアリー・アビントンからアビントン・メアリーと日本名にして日本国籍を取得、そして病気で亡くなるまで一度も日本を離れなかった。

「私はママに似てない」

「そんな事無い。君はメアリーの娘だよ友奈」

ベックが急に名前を呼ぶので友奈は驚いた顔をしたが、そんな事は気にもせずベックは作業机に向かって作業に没頭する。

長い手足を用いてベックは大きな紙に向かってペンを走らせていた。

作業台とミシンが並ぶ部屋の片隅、奥には小さな扉がある。

友奈はベックの作業を見ながら扉にゆっくりと近づいて扉に手を掛けた。

扉を開けると夏の暑さとは別のヒンヤリとした空気、クローゼットルームになっていて日差しが入らない真っ暗な部屋の中には沢山の洋服がハンガーに掛けてあった。

クリーニングに出してビニール袋を被ったままではなく、またアトリエのように布が散らかり埃もめだつような事もなく、ちゃんと風通しされ管理された静謐な室内。

ここには母の着ていた洋服が全部しまってあって、奥には結婚式に来たウエディングドレスまである。

そしてこの殆どの服はベックが布を裁ち、ミシンで繕って作った服だった。

「あまりクローゼットルームの扉を開けっ放しにするな」

返事もせずに友奈は扉を閉めて外に出た。

友奈はその姿を殆ど覚えていないが写真の母親はいつも素敵な洋服を着ていた。

ベックが作った新しい服は作るたびに売れていくのでほとんど残ってない、古い服ばかりだがいつでも着られるようにベックが管理している。

友奈は小さい頃よくこのクローゼットルームに入ってたくさんの服を眺めていて、ベックに怒られた。

「ねえベック聞いて良い?」

返事も無く、紙の上を鉛筆が走る音がする。

「ママの服はいつまで取っておくの?」

「変な事を聞く、着れるまで取っておくさ」

仕事に熱中しているからベックからは返事が無いと思っていたので友奈は驚いた。

「服はちゃんと手入れしておけば長く着られる。この高温多湿の国でも丁寧に扱えば正しく織り込まれた布としっかりした裁縫をした服であればずっと着られる。まあ君みたいに帰って来たらすぐ脱ぎ散らかして雑に洗濯していたらすぐにダメになってしまうがな」

この家では基本的に自分のモノは自分で洗濯するか近所のクリーニング店に出す。

「まあ、今の既製品の服なんてすぐにダメになってしまうような安物の布と適当な縫製のものばかりだから、大事に扱うのも恥ずかしいものだがね」

鼻に掛けた声、嫌味を言ったつもりはベックには無い。彼は自分が知っている事実を言っただけなのだが、何を言っても背が高く、表情を変えずに言う男の言葉は高圧的に捉えられてしまう。

「でもいつまでも取っておくわけにはいかないでしょ?」

「まあ博物館で僕の作品として仕舞われるのには少し早い気がする」

手を止めて友奈の方へと振り向いた。

友奈にはベックが冗談を言っているのでは無く、本気で自分の作品、作った服は博物館に収められる価値があるモノだと思っているようだだった。

「だからクローゼットルームの服も、今から僕がこの世界に出現させるこの服も君がどうするか決めれば良いさ」

「私?」

「ああそうだよアビントン・友奈、君が決めるべきだ」

「別に私はお母さんの服も、私の服も要らない」

「そうか、僕は作るが着るかどうかは持ち主に委ねられる問題だ、僕は関与しない」

物心付く頃から友奈の周りにはベックが作る服が溢れていた。

身体の成長に合わせて用意された服は、とても着心地がよく不満など覚えたことが無かった。

いや、不満はなかったが小学生の時は毎日周りの目を気にしていたのを友奈は覚えている。

自分の金色の髪と青い瞳は周りからの注目を浴びた。だから余り目立つことはしたくなかったので服はなるべく地味な服が好きだったのだが、ベックの作る服はシンプルで無駄が無く、でも既製品の服とは違う小さなディテールは良いものを知っている人にはすぐに良いものとわかるらしく、声を掛けられて服をジロジロと見られたりもした。

だから中学生になった時は制服を着てみんな同じ服を着ているから、目立つ事も無いと嬉しかった。

でも同じ服を着れば今度は自分の髪・瞳・肌の色が違うことが強調されて、なんだか自分が浮いているような気がした。

ベックは昔こう言っていた。

「今は既製品の服が溢れてそれを着るのが当たり前の時代になった。ちょっと前のこの世界にモノが溢れるようになる前の貧しい時代には、服は自分で作って自分の形に合わせていくのが当たり前だった。人は服を自らの意思で着ていた。しかし今の時代は既製品、形が決まった服に自分を合わせて行く。これでは自分らしさなんてどうやって確保していくのか僕には方法が分からない」

ベックの話し方はものすごく偉そうで、友奈の父親に「それが朝ご飯食べながら話す話しか?」と怒られていて、その時は父親の言い分が正しいと思ったが、今はなんとなくベックが言いたかった事も分かってきた気がした。

ベックは作業に夢中になってきたのか、時々奇声のような呻き声を上げ始めたので友奈は部屋を出て、もう一度部屋で寝ることにした。




「っで君はどうしたいんだい友奈?」

「私?」

「そう、大事なのは君がどうしたいのかだろ?」

夜、早速友奈は父親に電話を掛けてベックの事を話した。

部屋の中でスマートフォンを握りながら父親の讓は父親らしく友奈に対して諭すような言い方をした。

「私は……お母さんの服なんかいらないし、私用の服も要らない」

「そうか、ベックの作る服が嫌い?」

「嫌いなんかじゃない、だってとっても凄いと思う……」

「じゃあどうして要らないなんて言うんだい?」

「なんだか私にはベックが作る服は似合わない……気がするの……」

出張先のホテルの部屋でパソコンを広げて明日の打ち合わせの準備をしていた讓は娘の弱々しい声を聞いて今すぐ家に帰りたかった。

だが、家に帰らなくても娘の声を、悩みを聞ける事を悪いことだとは思わなかった。

いつもだったら落ち込む娘を抱きしめてあげて慰めるが、言葉だけしか声を掛けられない今の状況は何か友奈が大人になっていく課程で必要な事のような気がした。

「ママの服も私には似合わない」

友奈の母親が残した服は大人用でまだ友奈にはサイズも大きい。似合わないのは当たり前だが、友奈はクローゼットに仕舞われた母親の服を見るたびに自分が大人になって母親みたいに美しい女性になれるか不安になる。

「そんな事ない、ママも友奈が自分の着ていた服を着てくれたら喜ぶさ」

「どうしてパパ?」

「ママはベックが作ってくれた服を着るのがとても好きだったからだよ」

「綺麗だから?」

「それも勿論だが、ベックの服はやっぱり着る人に合わせた、着る人が必要な服だからかな? 君のママ、メアリーは他人と自分を比べるような人じゃなかったけど、他人と自分が違う事を意識して自立する事を第一に考えていた人だったんだよ」

「どういうこと?」

「うーん、まあ他人と同じ格好はしないけど、かといって他人を遠ざけるような服は着なかった」

友奈には父親の言っている事はよく分からなかった。

それは讓も上手く伝わらないなあと笑っていた。

「あっごめん友奈、別の着信が入ったからまた後でメッセでもいいから連絡くれるかい?」

「もう大丈夫、仕事中にごめんなさいパパ」

「仕事中でも風呂に入ってる時でも、友奈からの電話だったらどんな格好でもすぐに出るよ」

「お風呂の時くらいはいいよパパ」

「じゃあお風呂の時以外は必ず君の電話にでるよ」

「ありがとうパパ、愛してる」

「お休み友奈、愛してるよ」

譲はスマートフォンの画面をタッチして、端末を机の上に置いた。

そしてすぐにまたなり出したスマートフォンを取り上げて、面倒くさそうに電話に出た。

「ジョウ、どうして僕の電話にすぐでないんだ? 約束しただろう僕の電話にはいつだってすぐに出ると」

「風呂に入ってたんだよ」

譲は咄嗟に嘘を着いた。

「そうか、でも約束した、すぐに出ろ」

「あのなあ、なんで僕が君の電話を最優先で出なきゃいけないんだよ」

「君は僕たちが大学三年生の夏、僕が海外留学に行くとき君はいつでも電話を掛けてくれ、君からの電話は必ず出ると言った」

「君は今年で四十近くなるのに大学生の時の約束を持ち出すのか?」

「君がいつまで有効とは言っていない」

さっきの娘からの電話とは打ってかわって、すぐにスマートフォンを部屋のベットに叩き付けてシーツでくるんでしまいたかったが出てしまったので譲はそのまま電話の応答を続けた。

「他にも約束は沢山あるがもしかして有効期限は他の約束にもあるのか? ピーマンが出たら僕のブロッコリーと交換するのももう有効期限が切れたか?」

「ベックそういう事は後にしろ、用件を言えよ」

「用件?」

「ああ、電話を掛けて来た用件だ」

「無い」

「はぁ?」

「用件は無いが、君に連絡をする義務があった」

「それを用件っていうんじゃないのか?」

「確かに用件とは果たさなければならない用事だからな、そういう意味では用件だ」

「ベック本題に入れよ」

「ああ、友奈の事だ」

「友奈がどうしたって?」

「今日は今年の友奈の夏の服を作っていたんだが……その、なんというか……つまり……僕の……」

いつも断言口調で喋るベックらしくなく、言葉を口に出すのを躊躇している感じだった。

「何があったんだベック?」

「友奈が僕の服を拒んだ」

「君の作った服を?」

「あり得ないだろう?」

「なぜそう断言できるんだ?」

「僕が作る服だ、誰よりも着心地がよいデザインもどこに着ていっても恥ずかしくない身の丈にあった服だ」

「いつも思うんだが大した自信だな」

「事実だからな」

「普通の人間は事実が事実なほど疑うもんだよ」

「ふむ、君みたいにか?」

「僕がなんだって?」

「毎日体重計に乗っては沈痛な顔をしているだろ?」

「君は歳をとっても太らないから羨ましいよまったく」

「僕が太らないのは太りたくないから努力をしてるからではなく、毎週同じモノを同じ量だけたべているからだ。君みたいに気分で酒やご飯の量を増やしたりしてないからだ」

「不摂生して悪かったよ」

「自分が何をどれ位食べたかも覚えてられないんだから全く君は本当に頭が悪い、自分の事だろ?」

「高校生の時からの君のありがたい忠告を真摯に受け止めなかった僕が悪かったよ、で、友奈が服を要らないと言ったら君はどうするんだ?」

「ああ、そうだなあ、それは……約束を破る事になるから困る、とても困るよ」

自分の服を要らないと言われることに慣れてないベックには答えが出てこなかった。

「君が最初にメアリーの服を作った時の事を覚えているか?」

「ああ覚えてる、大学の夏休みが始まる前の六月だ」

「あの時も君がメアリーの服を作ると言いだしたが彼女は拒んだだろう?」

「そうだったな」

「それで君はどうした?」

「ああそうか」

突然電話を切る音がして、譲とベックの会話は終わった。

「もしもし?」

スマートフォンの画面を見ると既に通話は切れていた。

ベックはいつも用件が終わると直ぐに電話を切る。

「全く、あの二人には困ったモノだ」

誰も居ないビジネスホテルのシングルルームで譲は呟く。

大体友奈から自分に連絡があるとき、半分くらいはベックの事だった。

ご飯を食わないとかずっと家にいてブツクサ言っていて不気味だとか、そういう心配をしている声。

一方のベックは出張している譲に連絡を寄越すなんて友奈の事以外には絶対無い。自分が正しいと思っているから、仕事の事やプライベートの事で譲に相談する事は無いからだ。

大体二人の譲に対する質問は友奈はベックの事について、ベックは友奈についての事しかなかった。

友奈はどちらかというと臆病で、気を使ってわがままを言わずに目立つ外見なのに奥ゆかしい性格だ。

ベックはもうどうしようも無いくらい自信家で、誰の意見も聞かない。

そんな二人が同じ屋根の下で暮らしているのだから、何も起こらない事は無いがどちらも譲にとっては大事な人だった。

年頃の娘と家族でも無い男が一緒の家に暮らしてることに訝しむ人間も居るが、譲には気難しい友人の躾には自信があったので、その辺の心配はペットを飼うかどうかの問題くらいとしか考えていなかった。




夏休みに入って朝食の時間は遅い。ましてや出張でパパが居なければ必然的に友奈の朝食は遅い昼近くのものになった。

起きて顔を洗い、朝食の用意をしようと台所のテーブルに移動すると、そこには既に朝食では無く別のものが用意されていた。

「ベック、仕事は自分のアトリエでしないとまたパパに怒られるよ?」

声を掛けられるとベックは座っていた椅子から立ち上がって、友奈の方を向いた。

「友奈、君に見せたいモノがある」

「なにするつもり?」

友奈の問いにベックは大きな鋏を騎士が剣を捧げるように裁ち切りばさみを胸元に掲げた。

「裁断する」

大きな裁ち切りバサミの柄を持ちながら、ベックは表情も変えず友奈に近づいた。

「なにを?」

「布だ」

「何の布?」

「君の服を作る布に決まってるだろ?」

「なんでベックが布を切るところを見なきゃいけないの?」

「昔メアリーもそう言ってた」

すぐにベックは普段であれば朝食を食べるテーブルの横に立って、机の上に広げられた白い綺麗な布地を前にして、裁ち切りばさみを構える。

「まだ知り合って間もない頃、メアリーは大学の教室で僕が服を作らせてくれって言ったら、嫌な顔をして拒んだ事があった」

ベックが人前で服を作らせてくれと自分の母親に迫った姿は友奈には容易に想像が出来た。

「だから僕は、どれだけ似合う服が作れるかどうかを彼女に見せるために学食の机の上で布と型紙を持って目の前で裁断して、出来上がる服がどれだけ素晴らしいかを想像させてあげたら彼女は僕の服を着てくれたんだ」

「ママは諦めただけじゃ……」

ベックの熱に絆(ほだ)されたのと、周りの不思議そうな目から逃れるためにベックの服を受け取ると約束したのでは無いかと友奈は思った。

「僕は服を作るのが好きだった」

広げた白い布に服の形をかたどった紙型を当ててまち針で止めていく。

「デザインを考えるのも好きだが、こうやって布から形を絞り出す瞬間も耐え難い興奮に包まれる」

ベックは大袈裟に鋏を持ってない左手で拳を作って震えさせた。

「さあ出て来い」

布の上に置かれた紙型の上に左手を添える。

長い手足の先にある大きな手の長い指を伸ばして、獲物に飛び掛かろうとする肉食獣のような姿勢をする。

友奈はベックの服を作る作業を久しぶりに見ていた。

小さい頃はよくアトリエに入って行ってはベックに針や刃物の扱いに気をつけろと怒られても近くで作業を見ていた。だが中学生になってからはアトリエの中に入る事はすっかり減っていた。

ベックが白い布に大きな裁ち切り鋏の刃を入れる。良く手入れされた鋏はたいして力を入れなくても、白い布を綺麗に二つに裁ち切っていく。

スカートの形に長方形の布に斜めに線がぶれること無く真っ直ぐに入っていく、やがて腰のところで膨らんで腋の所で柔らかいカーブを描くが、抑えた左手でゆっくり布を回転させると、鋏は柔らかなカーブに沿って布を切っていく。

一瞬で、実際は丁寧な作業なので時間は掛かっているのだが、四角い布から柔らかな服の部品が切り取られた。

「うん、良いラインだ」

満足そうに切り取られた布を見てベックは取り上げた。

「ワンピース?」

「ああ、今の君に必要なボタンの着いたシャツワンピースを作る」

「なんで今の私にそれが必要だって思うの?」

「君は塞ぎ込むと外に出ないからな」

「どうして私が塞ぎ込んでいるって分かるの?」

「違わないだろう?」

「塞ぎ込んでる理由は知ってるの?」

「実は僕にもそれが分からない」

「だと思った」

そう言うと友奈は溜息をついてリビングルームを出て、二階の自室に引き籠もってしまった。

「友奈? どうしたんだ友奈?」

ベックは何度も友奈の部屋のドアをノックした。

「ベック、五月蠅い」

「すまない、だがジョウと約束したから君の部屋には入れないから君が出て来てくれないと話しが出来ない」

昔、採寸をやり直そうと寝ている友奈を起こそうと部屋に入ろうとして、年頃の娘の部屋にズカズカと入るなと父親の譲に怒られてからベックは友奈の部屋には入ってない。

「なあ友奈、なにをそんなに塞ぎ込んでいるんだい?」

「私はベックの服が嫌なの!」

友奈はドア越しにベックに向かって大きな声を上げた。

「どうして?」

「私には似合わないもの……お母さんみたいに……」

「君とメアリーは違う」

「でも、ベックもパパもママに似てるって」

「君はメアリーの娘だから似てるのだろうが、同じになるわけではない」

当たり前の事を聞くなとベックは怒りではなく、なぜ今更生まれた時から変わらない事実を確認するのかが分からなかった。

「私はママみたいにベックの洋服は似合わない」

「なぜそう思う?」

「ベックはそう思わないの?」

「今はまだ大きいかもしれないが、あと数年すればきっと似合う、なんなら裾直しをして今着れるようにしてもいい」

「いいよそんなことしなくても」

子供っぽい拗ね方をしているのは友奈にも分かってはいたが素直になれなかった。

「私に着たい服なんかないもの……」

「それは君には分からないものだよ」

どうしてベックはいつもなんだって断言できるのだろうか?

迷ったり悩んだりしないのだろうか?

「だから僕が布から見える形にして服を作る。その時君は初めて自分が着たい服を着るんだよ友奈」

ベックがゆっくりと扉から離れる音が聞こえた。

「私が着たい服はベックが作った服じゃ無いヤツだよ」

扉を背にして友奈はその場に座り込む。

「友奈、君は別にメアリーの服に袖を通す必要が無い」

扉の外にベックが戻って来た。

「友奈、僕はこのメアリーの服をその時のメアリーの為に用意した。これはもう君のものだが、君が着る必要はない」

扉の外からベックの声が聞こえる。

ベックは張りのある落ち着いた声で友奈に告げる。

布を引き千切る音が聞こえた。

「ベック何してるの?」

「この服はメアリーに用意した服だ、君に用意した服じゃなかったからもう必要ない」

扉越しに布を引き千切る音は徐々に大きくなっていく。

「ベック、ダメ!」

友奈は慌てて扉を開けて、ベックを止めに入る。

布を引き千切る音が聞こえる。

ベックが持っていたのはさっき友奈の服を作るときに出た切れ端だった。

足下には細く小さな布の切れ端が足下にちり積もっていた。

「メアリーと約束した僕が作った服は全部友奈に渡してくれって、だから僕は自分が作った服を勝手に引き裂く事ができない」

ベックは笑っているつもりは無かったが、友奈には勿論あざ笑っているように見えた。

「僕は約束したことは守る、君に服を作ってあげるというメアリーとの約束も必ず守る、君との約束も守る」

「ベック……」

友奈はゆっくりと扉を閉めた。

ベックはそのまま餌を待てと言われた番犬の様に扉の前に直立不動で立っていた。

そして扉は再び開かれた。

「友奈、僕の作った服を……」

喋ろうとした瞬間、友奈が投げつけた枕によってベックの視界は真っ白になった。




アビントン・譲は三日ぶりに出張から戻ると、地元の駅では雨が降っていた。

スーツケースは取引先から貰った商品サンプルや資料と一緒にまとめて宅配便で送ったので、背中の小さなリュックだけだ。

夏が始まり連日の猛暑だったが、久しぶりに降った雨は心地よい涼しさを運んでくれた。

タクシーでも乗って帰ろうとしたが、友奈からのメッセで傘を持って迎えに来てくれると言っていた。

駅のロータリー前で待ち合わせしていた譲は歩いて来た友奈を見つけると直ぐに笑顔を浮かべた。

青い傘を差してゆっくりと友奈が歩いてくる。

白いハイウエストのシャツワンピースを来た金色の髪の少女は最初に見かけた時は大人っぽい美しさを見せたが、父親を見つけて喜ぶ顔を見せたとき、年相応の可愛らしさを纏っていて、雨の中でもとても華やいだ装いに見えた。

身贔屓であるのは百も承知だか、とても美しい少女に見えた。

「パパおかえりなさい」

「友奈とても綺麗だね」

譲の賞賛に友奈は納得がいかなそうに難しい顔をしてから笑った。

「なんだベックに服を作って貰う事に納得したんじゃ無いのかい?」

「だって、ベックは酷いのよ私の部屋の前でワザとお母さんの服を破くような事言って、私を騙して笑ってるんだもの」

「いつもながら子供っぽいヤツだな」

「枕を投げつけたの」

「はは、良いねえ」

「そしたらアトリエに戻ってずっとミシン踏み始めてまたご飯も食べずにずっと籠もりっぱなし」

友奈がベックの態度に文句を言ってる姿に譲は妻のメアリーの姿を重ねた。口に出す事は無かったが、柄で傘を廻しながら頬を膨らませる子供っぽい姿は家に残ってる母親になったメアリーの姿とは違う。つきあい始めた頃の感情を表に出して怒っていた妻の姿だった。

「それで流石に可哀想になってまた今日朝ご飯持っていったらこの服が飾ってあったの」

友奈は譲の前でワンピースの裾を掴んで翻した。

綺麗なステッチで縁を彩られたスカート部分はシルエットを変えずにゆっくりと動くのは、裾を幅広く折り返してあるので重さを出す工夫が施されていたからだ。

膝上のワンピースは陽気な若さだけでなく、どこか大人になり始めた初々しさがボタンシャツのワンピースには感じられた。

袖を通すと自分の今の体にピッタリと合って着心地も良く。文句がないことに文句を言いたくなったが、作ったベックは疲労からかソファーで寝たまま全く起きずに文句は言えなかった。

あれだけ着るのを拒否してたのに、自然に袖を通してしまったのはやっぱりベックが作る服には魅力があるのだ。自分の頭の中になかったが体が着たい服がこの形だったのかなあと友奈は考えてしまう。

「それで今日はそれを着て外に出たくて迎えに来てくれたのか」

譲は自分の為じゃなかったのかと戯けてみせた。

「違うのパパ、別にこのワンピース着て外に出たかったから迎えに行くって言ったんじゃ無いの」

「でも、雨の中でもとても似合ってるよ友奈」

「悔しいけどベックが作る服はやっぱりどの服よりも着心地が良い、なんだか雨も降ってるのに外に出たくなっちゃう、不思議」

悔しそうに友奈は眉間に皺を寄せる。

「ベックは本当に社会的にみれば本当にダメな人間だが、ひとつだけ他人よりも優れている所がある」

「服が作れること?」

「それもあるがアイツと僕が今でも一緒に生活出来るのは交わした約束に関してはとても律儀に守るところだ」

確かにベックは躾けのついた犬みたいな時がある。

「僕はアイツとは沢山の約束をしたが、友奈のお母さんのメアリーとベックが交わした約束は一つしかないんだよ」

「私の服を作ってあげてでしょ?」

譲は立ち止まって口元を釣り上げる。

「正確には「友奈に前を向いて歩きたくなるような服を作ってあげて」だよ」

話した後で恥ずかしくなったのか譲は咳をして口元に手を当てた。

友奈は少しだけ譲の前に出て、傘で顔を隠すように前を歩いた。

「面白くないかい?」

「うん」

友奈はハッキリと不満を口にした。




END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の裁断 さわだ @sawada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る