君を殺したあとで

@ichiuuu

第1話

【君を殺したあとで】

             


「今日はみんなに悲しいお知らせをしなければならない」

 ――高校二年生の夏の気配が近づく六月、桜の木々の影揺れる朝の教室はもっと煩いものだと思っていた。初夏の涼風吹きわたる教室にて、明はひそやかにあたりを見回す。教室のクラスメートの面々は静まり返っていた。ある女子は歔欷の声さえあげていた。男子の顔もこころなしか強張って、にやついているのは頭がおかしいと評判の宮部神二(みやべしんじ)と、自分だけだった。担任の小野はそれにさえ気が付かぬように、重苦しい顔で声音で、言った。

「私たちの大切なクラスメートの木更津舞さんが、昨夜心臓麻痺のため亡くなった」

 その時、明は笑みが一層深くなるのをこらえ、わざと沈鬱な表情を浮かべてみせた。ためしに神二の方を見ても同じ反応を示していた。この舞台じみた哀しみに包まれる教室に、心のうちでほくそ笑んでいるのはきっと自分たちしかいない。すなわち明と、神二と、そしてもう一人しか。死んだ木更津舞の机には血の色をした花瓶にユリがさされている。死んだように眠る、ユリの花が。

「葬儀は明後日、学校近くの清明ホールで行われる。本当に、いい子だったのに……みんな、気を強くもって……」

次には小野が教卓に突っ伏して慟哭した。女子の一層高まる泣きじゃくる声。うざったらしい。演技も茶番もいい加減にしろ、と明は悪態をつきたくなる性分をおさえた。赤い花瓶のユリの花は眠っている。死んだように、生きたまま凍らされたかのように。つと明は考え直した。いや、もうじき死にゆくだけの花だ、あのユリの花は。根から絶たれたあの花は。誰かが水をかえてやらなければ、あるいはこの暑さに、明日にでも。

 北尾マナミは泣いていた。そうだね、泣きたくもなるよね、お前の友達だけでもう三人は死んだもんな。

次は、お前だ。

 本条寺百合香(ほんじょうじゆりか)が陰湿ないじめを受けていたのは、この学校の生徒ならみんな知っている。いや、教師のみならず校長まで知っている。いじめを大事にしたくない、学校側の暗黙の私刑というものを、百合香は罰ゲームみたいに課せられていた。学校側はいじめがあるという事実をもみ消さんと、小野に命じ表面だけを繕ってきた。みなに極秘のいじめアンケートをとらせ、結果を見事に改ざんしたのちシュレッターにかけた。ためしにクラス替えさせてみても、百合香のいじめの主犯格は離したが別の実行犯とは離さずにおいた。蚊に刺される時のことを思い出せばいい。一人の犠牲があると皆は助かる。まさに例えるならば、百合香は生贄になったとみていい。学校側の、もはや人でないいじめ犯たちへの。

 しかし百合香は歪まなかった。あらゆる肉体的、精神的苦痛を味わわされても、決して百合香は歪まなかったし、優しかった。最後まで自分の責務から逃れることが出来なかった。父の作った弁当を焼却炉で燃やされて笑われても、机を衆目の前で思い切りベランダからけ飛ばされても。嵐の日も風の日も、彼女は学校に来続けた。放課後には清掃委員として、みなの机を一生懸命、力を込めて拭き続けた。まるでなにか見えない汚れを取ろうとするかのように。

明はそんな百合香から、いつの頃からか気高さを感じていた。一度、いじめっこたちを彼女の面前で怒鳴ったこともある。

「言えよーほら百合香。わたし、神二君大好きなのー今日部屋行っていい? って言いなって」

 放課後、クラスでも、一人で常ににやついていると評判の神二に告白させられそうになったのを見かねて、思わず明は友の制止も振り切って女たちを怒鳴った。

「いい加減にしろよこの不細工ども」

と。マナミは厚い唇をわなわな震わして、金の巻き髪を指でしきりにいじって言った。

「あたし、気持ち悪くないもん。ふつうに街で声かけられたりするし」

「なに、あんたら付き合ってんの?」

「やだー明君センス悪いー」

「イケメンなのにうけるんですけどーその女選びのセンス。冗談だよねえ」

 いこ、と百合香の手を引っ張って、女たちは廊下に消えた。百合香は教室から去りゆく一瞬に、明の目を見て、目礼した。

「馬鹿、お前関わるのやめろって」

その後で明は男子たちにいさめられた。

「あの北尾の親って、政府ともパイプのあるジョージョー企業のお偉いさんで、母親もPTAの役員なんだよ」

「あいつに逆らったら怖いぞ。学校の教師だって逆らえないのに」

「関わんない方がいいって。百合香が余計やられるだけだよ」

――しかし、あの最後に明を見た時の百合香、すげえ綺麗だったな。黒髪ロング、足も長くて。あいつ胸もでかいし、声もいいよなあ。

 そう言ってほくそ笑む男たちを、明は苦々しく睨んだ。へつらう男たちとつるむのも厭だったから、明は一人で教室で彼女を待ち続けた。百合香は茶色の鞄を残していつまでも帰ってこない。

行ってやるべきだろうか。

 明が悩んでいると、背後にふと人の気配を感じた。振り返ると口の端を極端にあげた男が立っていた。黒い制服を纏った、気味の悪い男。授業中奇声を発し、その後で一人で高笑いする、宮部神二、だった。確かこのあたりでも大きい、森の深い神社の一人息子だと聞いている。明は背中に息をふきかけてくる神二の顔をまじまじと見つめた。こうみると、顔だちはそんなに醜い訳ではない。白い肌に、切り揃えられた黒髪。高すぎない鼻、血を吸ったあとのような赤い唇。授業中に高笑いさえしなければ、それなりの美少年だと思った。

「……なに」

 あまりに神二がこちらを見つめてくるので、気色が悪くなって明は問いかけた。神二は答えないまま、さらに距離をつめてこちらを見続けた。

「なに」

「……明君、あいつ、殺したい?」

 何言ってんだ、こいつ。

 明は気持ち悪く思って、思わず顔を背けた。また一歩、神二がこちらへ距離を縮める。

「憎くない? 厭じゃない? あいつらがみんな死んだら、せいせいすると思わない?」

「そうかもな」

 明はつい厭になって本音を答えた。次には神二が明へ硬いままの拳を差し出した。

「なに」

「これ、あげる」

「いや、いらない」

「あげる、あげるって」

 神二がしきりに掌を固めたものを突きだしてくるので、明はそうっとそれが開花するようにほどけるのを待った。

「これ、あげるよ」

 神二の掌には、小さな藁の人形が入っていた。

「ねえ、明君?」

「なんだよ」

 初夏の放課後は梅雨入りをひかえて暑い。身体が熱気で溶けていきそうだ。森の深い人気のない神社の祠の前で、明は神二と落ち合っていた。放課後の恒例行事だ。

「次、誰殺す?」

 神二はまるで次のデートはどこに行く? というような雰囲気で尋ねた。明はソーダアイスを舐めながら、答える。

「マナミだろ。あいつの順番をわざと後にして怖がらせてやったんだ。そろそろ恐怖から逃してやってもいいだろ」

それもそうだね、神二がくくっと喉を鳴らした。神二もソーダアイスを噛み砕いて。

「もう僕たちも三人殺したかー」

  と、さも楽しそうに空を見上げ呟いた。空は抜けるような晴天。日の光が境内にいきわたっている。なのに森に一歩でも入ると薄暗くて、何か言うに言われぬ邪悪なものがいそうで。明はここが殺人計画を練る会場に一等ふさわしいように思った。たまに来るのは散歩の一人ぼっちのおばあちゃんくらいだ。耳も遠そうだし、大丈夫だろう。それに聞こえてたって、誰も自分たちを罰することなんて出来ない。だって、直接手を下していないんだから。ふいに、神二がけけっと声を漏らした。

「次はマナミ」

「うん。あいつが一番百合香をいじめてたもんな」

「次はマナミ」

「うん、あいつは苦しめて殺してやろうな」

「そうだね。しかし、明君は百合香が好きだね」

「まあな。雨の日に道のかたつむりを逃がしてやるような女は、嫌いじゃないよ」

 けけ。神二がにやついている。相変わらずこいつは妙で変わっていて。こういう事情がなければできるだけ関わりたくはない人物だ。

「ここってさ」

「うん」

 空の明るさに目を眇める明へ、森の影を顔に宿しながら神二が言った。

「何がご神体だかわかる」

「さあ、鏡とかか?」

「ぶーっぶー、違います」

 神二がそこで、心底楽しそうに告げた。また口の端を異常につり上げたまま。

「この神社はね、ご神体が刀なんだよ。だから僕んちは、刀がいっぱいあるんだ。短刀でも、太刀でもね」

いつかそれを使いたいんだあ。僕ほら、童貞だから、人に「突き立てた」ことがないんだ。

だからいつか、あの小刀で人を突きさしてみたいんだよ。誰でもいいからさあ。

 どう教育したらこんなのが生まれてくるんだ、という気持ちを、明は神二に持った。心底、隣で笑うこの男が敵でなくていいと思った。けけっと潰される蛙みたいな声をだしてはにかむ男は、まるで海から生まれた異形で、不気味だった。この街は海が近い。やがて満ちる潮の匂いがする。

 話題を変えたくて、明も微笑んで言う。 

「へえ、じゃあ祈っておくか」

「なにを?」

 珍しく不思議そうに問う神二へ、明が冷笑を浮かべる。

「俺たちの殺人が、うまくいくようにってさ」

 また、神二がふふっと笑った。その声は女みたいだな、と明の頭によぎった。

「明君ってさ」

「おう」

「なんで明って名付けられたの」

 この突然の質問に、明も困惑して、少しの間悩む。雲が動いて、深い森の影が一層濃くなる。

「僕はね」

そのあいだに神二が口を切った。 

「神二って名は、神に次ぐ二番めのものという意味でつけられたんだって。そのせいか僕は小さい頃から不思議な力があったんだ。人のことを呪うと、大抵みんな怪我したりする。腕が事故でなくなったり、足を変な風に折ったりね。だからお母さん、逃げちゃった」

 神二はこの重苦しい話題を、さも春風の吹くように語る。

「最近はお父さんも僕を不気味がって近寄らないんだ。兄弟もいないし、親戚も遠い。だからかえって気軽だよ。誰も僕には最初からいないんだから」

 くく、と神二が喉をまた鳴らした。明も思わず苦笑する。

「俺の名は、平安時代の皇后の名前からつけられたんだって」

「へえ、男の子なのに? 」

「そう」

「もしかしてあきらけいこ?」

「そう、よく知ってるな」

 神二があははと子供みたいに大声をあげる。

「なんだよ」

「いや、あきらけいこって、魑魅魍魎と化したお坊さんにつきまとわれるんだよ」

「へえ、そうなんだ」

 また、神二の唇がけけけと、妙な音とともにつり上がる。まるで頬をえぐっていくように。

「明君にぴったりだ」

その顔はとてもいびつで、奇妙でさえあった。百合香の綺麗な顔とは似ても似つかない。

ふと、彼女のことを思い出す。百合香の受けたいじめは決して軽いものではなかった。明は知っていた。森の闇に包まれていくように顔が雲で陰る神二を見つめ、明が言った。

「あいつさ」

「うん」

「売り、やらされてたんだ」

「ウリ?」

 それって、なに。神二が尋ねると、明は嫌な顔をした。知らない奴に売りを説明するのは、その言葉を口に出させるのか、という思いがよぎる。

「あいつのパンツ、繁華街のおやじに売らされてたんだよ」

 うわあ、と神二がひきつった笑いを見せる。こいつにしては、まだ人間らしい顔つきだ、と明は顎をひいた。

「その金はぜーんぶ、マナミたちの小遣いになるの。信じられるか? 神二」

 さらにタチ悪いのはさ、と明。

「あいつんち、母親が亡くなって、父親しかいなくて。その親父さんがマナミの親父の経営する会社の社員なんだ。噂だけど、名ばかり管理職にされて、毎日こきつかわれてんだと。だから、あいつ言えなかったんじゃねえのかな」

 ナバカリカンリショク? と不思議そうに繰り返す神二に、明は嘆息してみせた。

「とにかく、あいつは凄い女だよ。百合香のことは、本当に尊敬する。偶然見たあいつの左手首は綺麗だったよ。俺があいつなら絶対躊躇い傷作ってるな」

「へえ、凄いね」

 わかっているのか、わかっていないのか不明なままに、二人の会話はひと段落した。

「そういう訳で、次はマナミだ」

 明が言うと、神二がまたけけっと笑った。

「うん、次はマナミ、次はマナミ」

 そう繰り返す唇の紅さが、明には魑魅魍魎のように映った。

 翌週は家庭科実習だった。卵を溶かして、オムライスを作る。狭い部屋に銀色のキッチンが並んで詰め込まれ、そこで三十人が作業する。春の頃より三人減って、三十人が。

「あーあんた何やってんのよ!!」

そこで突然、和気あいあいとしたムードを壊すように鋭い声が走った。明が思わず顔を上げる。すみのキッチンの前で、百合香が委縮して小さくなっている。それをねめつけ、きつい罵倒を浴びせているのは、マナミだ。

「あんた、何で卵二個入れちゃう訳!? ふつう一個ずつでしょ。考えなさいよ!!」

 そう怒号を発すマナミに、ごめんね、と繰り返す百合香。男子たちも女子たちも、密やかに言葉を紡ぐ。明は男子に囲まれながら、目立たぬ女子が口にする言葉が漏れ聞こえた気がした。

「またやってるよ……」

「あーあ」

「このままじゃ、マナミちゃんも、祟りに……」

 「っ今、何て言ったのよっ」

 それが地獄耳のマナミにも聞こえたらしく、マナミが窓際の暗そうな女子のもとへ鬼の形相で駆けていく。そして詰め寄って、何が祟りよ、何なのあんたら、何なのあんたら、と壊れた人形のように繰り返し怒鳴りつける。

「あーあ、壊れちゃったかなあ」

 と。どこからか魑魅魍魎の声が聞こえたようだった。男子たちがせせら笑う。我知らず、明も小声で呟いた。

「そんなんだから、殺されるんだよ」

 するとマナミが突然、思いがけぬ行動に出た。逆上したのか、何かを喚きながら、教室を出てベランダに飛び出し、そこから飛び降りた。女子たちから悲鳴が聞こえ、男子も息をのむ。

「マナミが、飛び降りた……!」

 男子も女子も慌ててベランダから身を乗り出して階下を見る。明はゆったりとした足取りでベランダに出た。残念。マナミは足も折れていないようで、頭もかち割れていなかった。ただうううと泣きじゃくりながら、植え込みでしゃがんでいた。ここは二階だ。あいつも分かって飛び降りたんだろう、と、明はマナミを憎たらしく思った。そして神二のことも、あいつ、しくじったなと苦く思う自分に、気が付いた。人形(ひとがた)の力が足りない。

 明と神二は協力して人を殺していた。マナミの前に、三人。神二は異形の力を持つ神社の息子だ。彼の実家の神社には、今も森を抜けて白装束の女が丑三つ時に現れる。丑の刻参りだ。神二はそういう神社の血を受け継いだ。それゆえ、だろう。彼の作る人形には不思議な力があった。彼が息を吹きかけて作る人形に明が名を書いて、バラバラにしたり憎いと念を込めたりすると、必ず人形に書かれた名の持ち主が死ぬ。一人の念だけでは足りない。二人の同じ念が込められなければならぬ。

「あたし、このままじゃ殺される……!!」

 教師に助けられながら植え込みより身を起こすマナミを見おろし、明はく、と口の端を上げた。そうだな。地獄には先に送ってやる。

次は必ず殺してやる、マナミ。大丈夫だ。

その後で俺も行ってやるからな。


 それから何日か経った放課後のこと。まだマナミの机には花瓶が置かれていない。あんなに念を込めたのに。明がそのことを苦々しく思いながら、放課後の教室のドアに手をかけると。

「お願いします、神二君っ」

 と、女の高い声が聞こえた。明は驚いてドアより身を離す。この声は、百合香の声だ。

もしや、告白か? まさか、でも。なんとはなしに慌てる明の耳に、次なる一声が飛び込んできた。

「この数学のノートを、明君に渡してほしいの」

 これに、明は耳を疑った。どういうことだ。ドアを音もなくささやかに開けて中を盗み見る。教室で、百合香が神二に頭を下げてノートを手渡している。何なんだ、この状況。

「どうすんの。これ、明君に渡せばいいの?」

 当惑するような神二へ、百合香が愛らしい顔を赤らめて頭を下げる。

「うん、明君、この間数学の時間眠っちゃってノートとってないって男の子に言ってたから、少しでも、お役に立てればと思って」

 お願いします。とまた百合香が頭を下げた。神二がぽりぽりと頭をかく。

「それなら、百合香ちゃんが直接渡せばいいんじゃない」

「それは無理……神二君、ごめんね、なんとかお願いします……」

 明は音もなくドアを閉めきって、足取りも軽く廊下を伝いだした。嬉しかった。人を殺して曇っていた心に、晴れ間が射してきたようだ。あいつ、やっぱり馬鹿で、やっぱりいい奴だった。ノートを神二からもらったら、そうしたらデートに誘ってみようかな。お礼だとか言って。駅前のカフェがいいかもしれない。あいつ、きっとめちゃくちゃ可愛く笑うんだろうな。明の胸にわくわくとドキドキが膨らんでいった。

 百合香が自殺したのは、その夜だった。


「何でも、学校のいじめがひどかったって話よ」

 くしくも、百合香の葬儀は清明ホールで行われた。葬儀の間中、ずっと残された父親が泣いていた。声を殺して、大きな背中で泣いていた。PTAのかしましい声が、茫然とする明の背にも響いた。

「お風呂場で手首を切って……浴槽が血の海だったって」

「あんな綺麗でいい子だったのにねえ」

 なんで? 

 明の胸には、その思いだけが駆け巡った。どうして、こんなことになるんだ? だって、殺そうとしたのはマナミだったはずだろう。どうして、百合香がかわりに死ぬことになるんだ。

 明は訳も分からず、涙も出ずに遺影ばかりを見つめていた。愛らしい百合香の笑顔。あれは父親に向けられたものだったのだろう。あるいは生きてさえいれば、自分にも向けられた、はずだった――。

(俺はただ、あいつを守りたかったのに)

 そこで、神二が遅れて葬儀場に現れたのを明はみてとった。神二は黒い制服の色を宵闇に濃くして、そうして明を一瞥した。口の端が切り裂かれたように歪んでいた。笑っている。そのそばにはマナミの姿があった。涙をこぼして笑っている。

 裏切ったな、お前。

 明の胸に、憎悪が深く歪んでいった。

「話って、なに」

 朝ぼらけ。朝日が傷口からしみる血のように海に染み出している。海の近くの人気のない公園には、二人の姿しかない。明と、神二。

【明君、ごめんね。こんなこと言って】 

百合香が生前渡したノートには、遺書が書いてあった。数学のノートの一番裏に。

【あなたのやさしさに甘えて、本当のことを語らせて。私、マナミに売りをやらされていました】

【売りって、売ったのはパンツじゃないの。本当に大切なものも、売りに出されて、変な親父に奪われてしまいました。ある夜に死ねばよかったのに、どうして私は生き延びてしまったんでしょう】

【それはきっと、学校に行けばあなたに会えると思っていたからかな。明君の笑顔、私とっても好きだった】

【こんなこと言ってごめんね、でも死んじゃったらもう、会えないから。だから、最後に言います。私】

【明君が、好きでした】

 どうしてあの夜の前にノートを読まなかったのか、自分の馬鹿さに嫌気がさした。朝日が射してくる。明は言った。

「お前、いつからマナミとぐるだったの? 」

「ぐる?」

「仲間だったのか、つながってたのか、ってこと。どうなの?」

 怒気と憎しみと静けさを、内包した重い声で、明は問うた。神二は何でもないことのように言う。

「五日くらい前かなあ。だって、やらせてくれるっていうから」

 そう言って、神二がくくと口の端を上げた。心底、気持ちの悪い笑顔だった。

「あんた神社の息子なんでしょ。祟りから守ってよ、祓ってよ、何でもするからって、言われたからさ。それで」

「馬鹿かよ、お前……」

 明も笑った。

「俺とお前みたいな屑が生き残って、あいつ、死んじまったじゃねえか……」

 明はそう言ってから、言葉も消え去って神二を睨んだ。神二は頭をかいて当惑している。

「いや、そう言われましても」

けけ。神二の声はずっと耳障りだったのだと、明はようやっと気が付いた。

 自分を縛っていたのは、この声だったと。

「僕らは共犯じゃん」

 次には明めがけて、神二が小刀の鞘をはらって走り込んできた。煌めくような笑顔で。朝日を満面に浴びながら。

 それを巧みによけて、明は神二を殴った。神二が道に倒されながら、必死に小刀を振り回す。明の綺麗な顔に傷が幾筋もよぎる。それでも明は、自分より一回りも小さい神二にのしかかって殴り続けた。ああ、朝日はなんと疎ましい色合いなのだろう、そんなことを明は思った。神二が鼻から血を吹き出した。なおも明の拳は、殴るのをやめることが出来なかった。ついには神二の顔は血まみれになって、どこが眉かどこが黒目なのか判別できなくなった。

 神二の腕から小刀を抜き取って、明はそれを朝日に掲げた。

肺に刺そうとする。だけれど勢いが萎えていく。

 怖い、人を殺すことは、こんなに怖いことだったのか。

 明は朝日を高い鼻筋に輝かせ、そんなことを今さらながらに感じた。

「なあ、神二」

「なあに」

 まるでさあ、デートに行こうか、と言われて、歩き出して名を呼ばれ振り返る少女みたいに、神二は目を丸くした。明はまだ小刀を手放せないまま、神二の上にまたがって、訊いた。

「俺たち、地獄で会えるかな」

「……会えるよ」

 神二がけけ、と微笑んだ。

「僕たち、共犯だもんね」

 うん、と明が頷いた。次には小刀が、神二の胸を一筋貫いていた。

 朝日を浴びて、血まみれの身体を引きずって。明はいずこへか歩き出した。ああ、海が近い。朝日がぐんぐん空へ上がっていく。もう少しすれば、散歩する人にあの死体も見つかってしまうだろう。あの肺に穴のあけられた無残な死体が。なかなか死ななくて手間取ってしまった。

 さあ、どこに行こう。血にまみれた小刀を手放せぬまま、明は呟いた。

 「ああ、そうか。地獄だな、神二」

 俺たちはそこに向かっていたんだ――。

朝日が水面に照り輝いている。よく見ておこう、と明は目を細めた。地獄ではもう見られぬ光景だと思いながら。

                  了

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