4(少しだけ世界を変える方法)

 ……中学三年も三学期に入って、冬は本格的になろうとしていた。

 日を追うごとに気温は低くなって、吐く息が白い。マフラーを巻き、コートを着て、手袋をはめる。体を小さくして、寒さをやりすごす。

 雲は鉛色の重たさを増して、ある日の夜、堤が音もなく壊れたみたいに雪が降ってくる。決壊した空から溢れた白い塊は、天の重さで地上を覆う。アトラスがその肩に担う質量で。

 雪の日に目覚めた朝、世界は確かに変わっている。道も、信号も、何もかも元の位置にあるのだけれど、確かに違う。厚めのブーツを履いて、積もった雪に体重をのせる。幾千、幾万の微小なガラスの結晶を踏みくだいたような音が、白一色の世界に響く。

 空を見上げて、そっと息を吐く。そこから落ちてきたもののことを考えながら。

 季節は巡る。

 いつだって、そうだ。そして巡る季節の中で、ぼくらは変わっていく。同じところにはいられない。中学を卒業して、高校に進む。その高校だっていずれ終わる。さすがにその先のことはまだうまく想像できないけど、でもやはり何もかも変わっていく。

 変わらないのは、奥村千絵が魔王であることくらいだ。

 ぼくはそう思っていた。たいした根拠もなく、ただ無責任に。

 でも、それは違っていた。

 たぶん、ぼくはずっと前からそのことに気づいていた。少なくとも、気づいていてもおかしくなかった。それなのに、気づかないままでいたのだ。

 あるいはぼくは、気づかないふりをしていただけなのかもしれない――



「雰囲気重いです」

 と、千絵はいきなり言った。

 そりゃそうだろう。

 ぼくらは学習室にいた。前にも言ったとおり、うちの学校は数年前に建てかえられたばかりで、各施設は最新機器でしつらえられている。この学習室もそうで、防音用の間仕切りで区切られたブースにはたっぷりの広さがあり、内蔵ヘッドフォンからは好きな音楽を聞くこともできた。当然、冷暖房完備で、ポットからお茶やコーヒーを飲むこともできる。

 学習室なんだから雰囲気が重いのは当たり前だった。特に、そろそろ受験の頭が見えてきた今頃ならなおさらだ。逆にお祭り気分で浮かれ騒いでいたら、そっちのほうが驚く。

「そうじゃないですよ」

 千絵は不満そうな顔をした。

「じゃあ何なんだ?」

 ぼくは形容動詞の活用を再確認しながら訊いた。だろ・だつ・で・に・だ・な・なら。変な呪文だ。

「つまり、こう――」

 千絵は身振り手振りで何とか表現しようとしている。どうやら語彙の限界に達したみたいだ。といって、現代美術舞踏家でもないこいつに、そんな身体言語能力があるはずもない。

「――何だか、暗いんです」

 諦めて、日常語に戻ったらしい。

「受験も近くなってきたしな。当然だろう」

「でもこういうのは何か違います」

 防音間仕切りつきとはいえ、さすがにうるさかったのだろう。一つ空いた隣の女子生徒に「しっ!」と唇に指を当ててたしなめられた。「すいません」と小声で謝っておく。

「世の中、学校だけがすべてじゃありません」

 ぼくのブースにイスごと入ってきて、千絵は言った。さすがに二人分となると、ブースはひどく狭い。

「すべてじゃなくても世の中の一つだ」

「そんなの詭弁です」

「この場合詭弁なのは、あきらかにお前のほうだろう」

「世の中にはもっと大切なことがあります」

 千絵はひきさがろうとしない。

「例えば?」

「……愛、とか?」

「基本的生活が保障されてこその愛だ。そういうのは高校に行ってからにしとけ」

「わたしだって受験が大切なことくらい分かってます」

 千絵は唇をとがらせた。

「でもだからって、重くなったり暗くなったりするのは違います」

「どう違うんだ?」

「こう、つまり――」

 やはり言語能力の壁を突破できなかったようだ。千絵の手はフレミングの法則よろしくねじまがった。

「これから断頭台に向かおうって人間が、のん気にとなりのトトロを歌ったりはしないだろ」

「わたしたちは死ぬために生きてるわけじゃありません」

「――――」

 時々、千絵の言葉は真実をつく。

「まあ悲壮感が漂いすぎてるのは認めるよ」

 ぼくは千歩譲った。

「ですよね、だからわたし考えたんです。みんなを元気にする方法」

 嬉々とした表情で、千絵はその〝みんなを元気にする方法〟とやらを語った。ぼくの譲った千歩は、小さな千絵の分だけ相当に歩数を間違えられたらしい。

「――それ、本気か?」

 ぼくはさすがに、聞き返さざるをえなかった。それが無駄なのは、分かっていたけれど。

「Exactly!」

 おそらく覚えたばかりの英単語で、千絵は答えた。

 まさしく、と。

 たぶんアメリカ人はこういうときに言うのだろう。「Oh, my god」とか。


 ――今回はやることがはっきりしているので、あとは細かい計画と実行手段を調えるだけだった。というか、基本的にはその場合のほうが多い。

 そんなわけで、ぼくと千絵は翌日の放課後、放送室にお邪魔していた。二人だけではなく、同じクラスの放送部員、千葉といっしょである。

 千葉は眼鏡をかけた才女ふうの女子。だが見た目と違ってアホそうな似非関西弁を話す。理由を訊いたら、「うちのポリシーやねん」と返された。笑顔で。

 その千葉が、鍵を使って放送室のドアを開けた。慣れた手つきで真っ暗な部屋の明かりをつける。二、三度明滅してから、電灯はしぶしぶといった感じで室内を照らした。

 二つに仕切られた部屋の、手前にはコンソールや操作用パネル、映像編集用の装置といった機材が置かれている。奥はスタジオになっているようで、たたみ五畳ほどの空間にはほとんど何も置かれていない。

「へえ、わたし放送室に入るのははじめてです」

 もの珍しそうにきょろきょろしながら、千絵が言った。見慣れない機械類を見て興奮しているのだろう。

「まあ普通の生徒やったら滅多に来んやろうな」

 靴を脱いで、千葉は床の上に上がった、土足厳禁らしい。

「なかなか放送人魂をくすぐられる光景やろ?」

「くすぐられる光景です」

 どんな魂だよ。

 ぼくと千絵も、靴を脱いであがる。後ろで音を立ててドアが閉まった。

「こんなにボタンがあると、放送するのも大変そうだな」

 うんざりするくらいたくさんあるスイッチやゲージ類を見ながら、ぼくは言った。

「何言うてんの。これでも少ないくらいやで。こんなんやったらろくなミキシングもできへんし、映像のほうもたいしたことできんわ。もっとも今日び、パソコンで大抵のことはできるけどな」

「いつもの放送も、ここから流してるんですか?」

 千絵の言ういつものとは、昼休みの自由放送と、下校時間を知らせる音楽のことだ。

「そう。どうやった、うちの『今日のにゃんこ』?」

「…………」

 それは昼休みに放送された、ただひたすら猫の鳴き声を流すだけという不気味な番組だった。実際に外で収録されてきたらしいその録音には、千葉本人によるナレーションがつけられている。

 結局、散々の不評のうちに番組はあえなく打ち切りとなったが。

「というか、あれ嘘だろ?」

「やっぱりばれとったか」

「ドラ猫がお魚くわえてるあたりでな」

「放送には多少のフィクションは必要やで」

 その前向きさだけは評価できる。

「……で、あれってどうやって流してたんだ。スイッチとか、そういうの」

「そんなの簡単やで。まずここの電源を入れる。次に入力端子につないでな、ほんで出力の調整や。音量とか、放送かける場所とか選んでな。全校放送する場合はそこのスイッチ入れてる」

「各クラスごとに放送できるんですね」

 よく飛行機のコックピットなんかに出てくるトグルスイッチを見ながら、千絵は感心している。スイッチにはそれぞれ、各クラスの名前が記されていた。

「いたずらするにはもってこいやろ」

 実際にやったことのあるような口ぶりだった。

「せやけど、そんなん聞いてあんたらどうするつもりなん? 魔王さんのご宣託でも聞かせるつもりなんか」

「塀をなくすんだよ」

「へい?」

 千葉は怪訝な顔をした。

「その時になれば分かるよ。それまでは秘密だ」

 ぼくは言葉をにごしておいた。

「けど、いくらうちかて放送室の鍵までは貸してやれへんで。放送部員でもなんでもないあんたらじゃ、鍵は借りられへんやろ」

「そのことも問題ないよ」

「なあ、あんたら何しようしとしてるんや? うちだけにこっそり教えてーな」

「冗談。誰に教えたって、千葉にだけは教えられないでしょ」

「けち」

 千葉は頬をふくらませた。


 某日、四時限目。

 ぼくと千絵は隠れていた理科準備室を抜けだして、放送室に向かった。もちろん、とっくに授業ははじまっている。廊下に人の気配はなく、校舎はしんと静まりかえっていた。時々、先生の声や黒板を叩くチョークの音が、水の中みたいに反響する。

 クラスでは今頃、社会科担当の教師に、藤野のやつがぼくらのいない理由を説明しているはずだった。あの男のことだから適当にごまかしてくれているとは思うけど、一抹の不安を感じないでもない。

「藤野くん、大丈夫ですかね?」

 そっと階段を移動しながら、千絵が訊いた。

「大丈夫だろ。その手の演技力には期待できるやつだから」

「駆け落ちしました、なんて言ってないですよね?」

 やりかねない気がした。

「そんなばればれの嘘はつかないだろう」

 あらぬ噂はまきちらかされているかもしれないけど。

 四つある棟のうち、主として職員棟になっている北棟に向かう。先生に見つかるといろいろ厄介なので、ぼくが先行して様子をうかがい、千絵がそのあとに続いた。幸い、誰に見つかることもなく放送室にたどりつくことができた。

 千葉の言うとおり、鍵がなくては放送室に入ることはできない。職員室から鍵を借りてくるのは、平和裏にせよ強行手段にしろ不可能だろう。

 しかし問題はなかった。

 何故なら、ぼくは学校のマスターキーを持っていたから。これはあるやんごとない事情によってぼくが手に入れたものだった。滅多に使ったことはないし、悪用したこともない。信じないのは勝手だけれど。

 ともかくそのマスターキーを使って、ぼくは放送室のドアを開けた。魔法の扉は呪文の言葉も待たずにいともたやすく開錠してしまう。

「さてと――」

 中に入って電気をつけ、ドアに鍵をかけなおして一息つく。ミッションの第一段階は終了だった。

 計画は第二段階に移行する。

「奥村、CD貸してくれ」

「はい」

 千絵がずっと持っていたCDケースをぼくに渡す。

 中身は、レンタルショップで借りてきたCDを焼き増ししたものだった。ただし、中には一曲しか入っていない。たぶん、それで十分だから。

「CDプレイヤーありました」

 千絵がミニコンポを見つけるあいだに、ぼくは必要なピンプラグを探しだす。通常より高価なのか、端子部分になめらかな光沢があった。

 プレイヤーにCDをセットし、プラグを接続する。各種スイッチは先に必要位置に入れておいた。あとは電源を入れて、再生ボタンを押すだけでいい。

 ぼくは最後に確認した。

「ところで、本当にいいのか? 今ならまだ何もなかったことにできるけど」

「魔王に二言はありません」

 千絵は何故か笑顔だった。

「わたしの力を見せつけてやります」

 ぼくはちょっと肩をすくめただけだった。こうなるのは十分に分かっていたことだ。

 一応、計画実施時間を事前に決定している。授業がほとんど終わって、残り五分になった頃だ。確実に授業妨害になるので、できるだけ被害を少なくするためだった。昼休み前の時間にしたのも同じ理由。

 ぼくは時間が迫ってくると、もう一度機械のセッティングを確認した。接続、スイッチ、ボリューム、どれも問題ない。

 電源を入れた。

 たぶん全校舎のスピーカーに、電気信号の流れる「ヴォン」という音が響いたはずだ。それはごく小さな音なので、誰も気づかなかったかもしれないけれど。

「いいぞ」

 ぼくは千絵に向かって、合図する。

「うん」

 うなずいて、千絵は再生ボタンを押した。

 ――その小さな指はたぶんその時、奇跡を起した。

 くだらない、まるで意味のない奇跡かもしれないけど、確かにそれを起した。たった五つのパンと二匹の魚で何千人もの飢えを満たすほどではなかったかもしれないけれど、少なくとも鈴森中学の千百二十二人の生徒の心に、確かに何かを伝えたと思う。とても大切な何かを。

 千絵は核ボタンのスイッチを押す、狂気の独裁者だったんだろうか? それとも、約束を守らないことに怒って子供たちをさらっていった、ハーメルンの笛吹き男。この世界に混乱と災厄をもたらす存在――

 千絵の顔を見れば、それは分かる。何の変哲もないボタンを押す、その指。その時、千絵はすべての幸福を願っていた。それ以外の感情を、千絵は持っていなかった。

 たぶんそれは、愛としか呼べないものだったような気がする。

 今思えば、だけれど。

 千絵の起した奇跡はすぐに実現した。全校舎のスピーカーすべてから、音楽が流れはじめた。

 それは、歌だった。オペラのアリア。

 放送室にも、その音は響いていた。この世界のどこにそんな美しいものが隠されていたんだろうという、そんな歌声。見えない手で心をつかまれて、揺さぶられるような感覚。きっとこの瞬間、誰もが手をとめていただろう。歌が、学校の塀をなくしてしまう。

 でもこのアイディアは、実のところパクリだった。

 映画「ショーシャンクの空に」の、キングの原作にはないオリジナルのシーン。けれどぼくらが使ったのはモーツァルトの「フィガロの結婚」ではなく、プッチーニの「トゥーランドット」だった。第三幕のアリア、「誰も寝てはならぬ」。

 放送開始から少ししたところで、ドアが音を立てて叩かれた。見ると、数人の先生が扉の向こうに群がっている。

「やっぱりお前らか、清川、奥村」

 クラス担任である高田先生の声が聞こえた。のぞき窓のところからその顔も見える。

「今すぐ放送をやめろ。でないと懲罰房行きだぞ!」

 ぼくは笑った。さすが担任、よく分かっている。

「何ですか、懲罰房って」

 いっしょにいた女教師が眉間にしわを寄せる。

「いや、ここはそういうノリだったものですから」

「不謹慎ですよ、こんな時に」

「いや、しかしですね……」

 事態はややこしくなりつつある。おまけに鍵を取りに行った先生はなかなか戻ってこないみたいだった。

 結局、先生たちの手によって放送室の扉が開けられたのは、それからさらに数分がたってからだった。もちろん、その頃には歌劇の一場面はとっくに終わってしまっていた。


 反省しているか、と訊かれれば、「している」と答えただろう。

 もう二度としないか、と訊かれれば、「しない」と答えただろう。……少なくとも、同じことは。

 放課後、生徒指導室に呼びだされたぼくと千絵の二人は、担任である高田先生の前に座っていた。

 指導室は気に食わない店子にしぶしぶスペースを割いてやった、というような狭い部屋だった。中央にある大きな机と壁際のキャビネットで、入室者の動きはほとんど制限されている。その不自由さはふと独房を連想させた。

 ぼくも千絵もここには何回か来たことがあるけれど、来るたびごとに二度と来たくないなと思うことだけは確かだった。

「…………」

 神妙な面持ちでイスに座るぼくと千絵の前で、高田直樹(三十五、独身)はさっきからずっと黙りつづけていた。

 ぼくは千絵と一度顔をあわせてから訊いた。

「あの、先生」

「何だ?」

「帰っていいですか」

「いきなり帰るはねえだろ、帰るは」

 高田先生は苦笑した。

「じゃあさっさとお説教するなり怒鳴るなりしてください。灰色のセールスマンがやってきそうなんで」

「その時はお前の隣にモモがいるだろう」

 ショーシャンクだけじゃなくてエンデも知っているらしい。

「立場上、俺だってお前たちを注意指導しなけりゃならないのは分かってるさ」

 先生はひどくなげやりに言った。

「でもな、お前たちは全部分かってやってるんだろう。自分たちがどの程度怒られるのかも、結局たいした騒ぎにならないだろうってことも、全部な。そんなやつに何言ったって無駄だよ。馬の耳に念仏もいいところだ」

「それが仕事ですよね?」

「給料に見合わん」

 教育者の理念はそんなものか。

「他の先生方は何て言ってるんですか?」

 と、ぼくは訊いてみた。

「温情派が七、処罰派が三てとこだな」

 悪くない配当だった。計算どおりというところだ。

「……お前、反省してないだろう、やっぱり」

「そんなことはないですよ」

 ぼくはしらっとした顔でうそぶいておく。

「――しかしまあ正直なことを言うと、なかなかいいものを聞けたよ」

 先生は指導者としては失格であろう発言をした。

「普通に生活してると、なかなか耳に出来ないものだった。特にこんな場所だとな。ああいうのを天上の調べとかいうんだろう」

「…………」

「発案者は、奥村のほうか?」

 千絵は一度ぼくの顔を見てから、うなずいた。

「はい、そうです」

「だろうな、清川にできるようなことじゃないだろうとは思ったよ」

 まわりくどい侮蔑の意志を感じとったけど黙っておく。ぼくはそこまで子供じゃない。

「まあ何だ、今日みたいのはほどほどにしとけよ。短い時間とはいえ、授業妨害でもある。処罰対象になることだって考えられたんだからな」

 言われるまでもなく、ぼくとしては二度とこんなことをする気はなかった。その辺のかけ引きについては、十分承知しているつもりだ。

 最後にこんな言葉で、高田先生の説教、もしくは感想は終了だった。

「ま、窮屈な授業よりはよほどましだったかもしれないけどな」


 ……それで、ぼくはこの件については終わったものだと思っていた。何の処分もなしという僥倖的な結末によって。

 でも実際には違っていた。

 実際にはもっと悪い結末が、ちゃんと待っていた。

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