3(魔王向きとはいえない仕事)

 その後、中学三年になるまでぼくらの学校生活はそんなものだった。千絵が何か思いつき、ぼくがそれをプランニングする。ちなみに、三年間ぼくと千絵は同じクラスだった。ようするに腐れ縁というやつだが、もしかしたら魔王の呪いかも知れない。

 小学校時代同様、千絵は何故か魔王として認知され、誰からも文句を言われることはなかった。もちろん伝説の勇者が登場することも、神に選ばれた光の戦士が挑戦してくることもない。

 そういう点では、ぼくらの学校生活は昼寝中の猫のように平穏だった。ファンタジーもSFもミステリも存在しない。あるのはただ日常と、その外延上にぶらさがった人畜無害の魔王がいるだけ。

 ぼくらは、「ちょっとした変わり者」くらいに思われていたのだろう。退屈な日常を盛り上げるささやかなイベンターとして。そのことを千絵のやつがどう思っていたのかは知らない。ただぼくとしては、それくらいで十分だった。のけ者にされるわけでもなく、むしろ少しは歓迎されている。

 クラスの中でも、大体そんな感じだった。というより、クラスのまとまりはむしろよかったような気がする。魔王というのが、ある種のシンボルというか、超自然的な結合力を演出していたのかもしれない。全身ぬれねずみになってしまったら、もう傘をさす気がなくなるみたいに。

 三年になった時も、状況はまったく同じだった。

 二学期半ばの、ある日のことだ。

 ぼくは図書室で、ぱらぱらと本をめくっていた。うちの中学は校舎を新しくしたばかりで、各種設備がかなり充実している。この図書室もそうで、広くて明るい室内に大量の本が並べられている。勉強するにしても暇つぶしをするにしても格好の場所だった。

 本棚に隠れるような、あまり人の来ない窓際にいると、いきなり声をかけられた。

 ぼくの後ろはすぐ窓で、本棚に隠れているとはいえ三方への視界は広い。にもかかわらず、ぼくは声をかけられるまでその存在に気づかなかった。

 顔を上げて、なるほどな、と思った。それは李美花リ・メイファだった。

 李は中国からの留学生だった。ピアノの黒鍵のような黒髪で、どこかの画家が描いた美人画そのものみたいな風貌をしている。おまけに少林寺拳法の達人だった。クラスの自己紹介でそれを聞いたときには、世の中には実にいろんな人間がいるものだとしみじみ感じたものだ。

「奥村がお前のことを呼んでたぞ」

 李は流暢な日本語の、しかしぶっきらぼうないつもの口調で言う。

「なんで?」

 ぼくは李に訊いた。

「用は知らん。ただ、お前のことを探してた。ここに来たら見かけたから、声をかけただけだ」

 日本人の母親から習って彼女の日本語は完璧なのだけど、どういうわけかはきはきとしゃべりすぎる癖がある。図書室では静かに、ということは分かっているのだろうけど、これも中国人であることと何か関係があるんだろうか。

「分かった、戻ってみるよ」

 これ以上会話を続けるのもなんなので、ぼくは本を閉じた。するとその表紙を見て、李は書家の書いた草書体的に美しいその眉をひそめる。

「何なのだ、これは?」

 彼女が間違いなくそのタイトルを読めるのは分かっていたけど、ぼくは正確に発音してやった。

「〝スーパーヒーロー、カナデンジャーのすべて――これで君もスーパーヒーローの仲間だ②――〟」

「最近覚えた言葉がある」

 と、李はいつもの口調で言った。

「なに?」

「これはどこからつっこめばいいんだ?」

 確かに、その気持ちは分かる。

 本の表紙には爆煙と、悪の親玉フキョウワオーを背景に、五人のレンジャー戦士の姿があった。さらにその傍らには、音楽をテーマにした数々の秘密兵器の雄姿が――

 しかしそんなことはどうでもいい。

 うちの図書室のカバーはそんなところまで及んでいるようだった。げに恐るべきは司書なり。中学校の図書室にこんなものがあるのはどうかと思うけど、しかし現にこうしてあるのだから仕方がない。ちなみに本棚には⑤まできちんとそろっていた。

 あと念のために言っておくと、これはぼくの趣味ではない。千絵の趣味だ。ぼくはただそのことを思い出して、本を手にとったにすぎない。念のために。

「奥村のやつが好きだから、教えてやろうかと思って」

 ぼくは李に向かってきっちりと、そのことだけは釈明した。

「そうか」

 どう判断したのか、李はそれ以上質問してはこない。あるいは、カナデンジャーレッドの持つバイオリンがいったいどんなふうに使われるのか考察していたのかもしれないけど。

 本を片づけて行ってしまおうとすると、李が声をかけてきた。

「お前たちは仲がいいんだな」

 ぼくは少しだけ考えるふりをした。

「ただの腐れ縁だよ。中学通してクラスがいっしょなんだから」

「そうか」

 その「そうか」が疑問なのか、納得なのか、反問なのか、それとももっと別の何かなのか、ぼくには分からなかった。そのまま李に別れを告げて図書室を出る。彼女はどうも、外国書籍のほうに向かっているようだった。

 クラスに戻ってくると、しかし千絵の姿はない。行き違いになったのかと思いながら、近くでエロ本を読んでいた藤野に声をかけてみた。

「誰がエロ本だ、誰が」

 心の声を読まれてしまった。そう、藤野はうちのクラスにいる三人のテレパスの一人だ。

「全部しゃべってるよ」

「せっかく超能力者にしてやろうと思ったのに」

「いらん。それになんだよ、三人て」

「藤野・Aと藤野・F」

「俺はドラえもんも喪黒福造も描けねえよ。つうか、じゃあ俺は何なんだ?」

「アシスタントの一人」

「もういいよ」

 ……確かにもういい。

 今風の髪型でかっこつけの藤野はノリがいい。今のは社交辞令みたいなものだった。

「ところで奥村見なかったか?」ぼくは話を元に戻した。

「どうかな、確か葛城といっしょにどこか行ったみたいだったけど」

「葛城?」

 うちの書記係だった。委員長とかだとまた話は違うが、書記に何の用があったんだろう。

「何だ、また魔王の悪だくみか?」

 嫌味というより軽くからかうような藤野の表情。

「どうだかな」

 ぼくは肩をすくめてみせる。実際、どうなのかは知らない。戻ってきてから直接本人に聞くしかないだろう。

「ところで、本当は何を読んでたんだ?」

 藤野はぼくにその本を見せてくれた。

「〝ゼータ関数における非自明なゼロ点はすべて一直線上を通るか?〟」

 ぼくの日本語が間違っていなければ、そこにはそう書いてあったはずだ。


 結局、休み時間が終わるまで千絵が戻ってくることはなかった。

 ぼくは授業(国語)が終わってから、クラスメートのあいだをぬって千絵の机に向かった。

「何か用事か?」

 大抵、こういうことは千絵のほうから言い出してくるのだが、今回は違っていた。しかも、その様子からしてどうもここでは言いにくいことらしい。

「どこか二人で相談できる場所に行きませんか?」

 千絵は教科書を片づけながら言った。こいつが手に持つと教科書が妙に大きく見えるのが不思議だ。

「昼は弁当だよな?」

「うん、そうです」

「じゃあアトラスに行こう」

 アトラスというのは、某ゲーム会社のことでも、KOEIの作った某ゲームのことでもない。銅像のことだ。

 学校の敷地にあって、休憩所とも中庭ともいえないような空きスペースに立っている。アトラスはギリシャ神話に出てくる巨人のアトラス。例の天空をかついでいる神様のこと。ぼくらの世界を支えてくれるありがたい神様だが、生徒たちの人気は低い。

 見れば分かる。

 何せこの神様、ひどく苦しそうな顔をしているのだ。重い荷物を肩にのせて、今にも崩れ落ちそうな格好をしている。首の骨なんてとっくに変形してしまっているだろう。永遠に天空を支え続けるなんて、考えるだけでうんざりするような苦役だった。

 製作者の意図はともかく、こんなものを見せられて喜ぶ中学生がいるはずはない。

 ちなみに神話では、アトラスは最後に石になってしまう。例のゴルゴンの首をペルセウスに見せられたからだ。それが、アフリカ西北端のアトラス山脈の由来になっている。海洋民族であるギリシャ人の行動範囲が分かるというものだ。

 が、こんな余談はどうでもいい。

 ぼくと千絵は弁当を持って、この銅像の前までやって来た。

 予想通り、人はいない。そして銅像は、今日も苦しそうだった。青息吐息、という感じだ。例えるなら性悪なブラーバンドの金物屋に酷使されるパトラッシュ、というところだろう。フランダースの犬に幸あれ。

「相変わらず苦しそうです」

 千絵は心の底から同情するような声で言った。

「その荷物を肩代わりするのは、お前じゃ無理だぞ」

 ただの女の子、それも身長一三〇センチにも満たない魔王ならなおさらだった。大体がヘラクレスだってやっとだったんだから。

 銅像の前にはベンチが一つ置かれている。そこに座ると、今にも空から何か落ちてくるような気がした。昔の人は、それを杞憂と呼んだけれど。

 季節は秋の半ばを過ぎたくらいで、空気はそろそろ冷たくなりはじめている。昼のこの時間、それにこれだけ天気がよければ別だけど、これから外で食事をするのは難しくなるだろう。いい加減にうんざりして地球が公転するのをやめないかぎりは。

「それで?」

 と、ぼくは弁当箱を開きながら言った。一目見て、嫌いなナスが入っているのに気づく。

「ちょっと相談したいことがあるんですよ」

 隣で、千絵が弁当の包みを開く。中にはサンドイッチとサラダが入っていた。その量はごく少ない。ただ、それは千絵が自分で作ったものだということを、ぼくは知っていた。にしても、これだけ少ないと一口いただくというわけにもいかない。

「これ、やるよ」

 ぼくはナスの煮物を差しだす。決して、嫌いだから厄介払いしようとかいうのではない。

「ありがとうです」

 千絵はにこにことしてそれを受けとった。

幸文ゆきふみくんは相変わらずナスが嫌いなんですね」

 ばれてるし。

 まあどうでもいいんだけど。

「それで、相談て葛城のことか?」

 ぼくはから揚げをつまみながら言った。一口食べてみて、それが鶏肉ではなくレンコンのつみれだということに気づく。

「うん」

 千絵はサンドイッチを一口かじった。まるで小さなリスみたいに。しかし、もしかしたらこいつよりリスのほうが摂取カロリーは多いんじゃないかな、とぼくはふと考えてみる。

「藤野に聞いたらお前と葛城がいっしょにいたって言ってたけど、葛城が何の用事なんだ?」

「ん……」

 何故だか、千絵は言いよどんだ。自分のほうから持ちかけてきたくせに。

 葛城はくせっ毛、ショートカットの女の子だ。極度の運動音痴で、階段でよくつまずく。それ以外はいたって普通の性格だが、やや抜けている。

 彼女を知る友人は、葛城が書記になるのを聞いて、「世界中の天然パーマがストレートになる前兆か」と、噂しあったという。本当かどうかは知らないが。

「相談したいって言ってきたのはそっちのほうだろう?」

 ぼくはあらためて軽くうながしてみた。

「あのね」千絵はひどく重大なことを告げるように、それこそ世界中の秘密を打ちあけるように言った。「葛城さんは、委員長のことが好きなんだそうです」

「…………」

 もちろん、大抵の人間はそれを知っている。

 それは意外なことでもなんでもなかった。ちょっと気のきいた人間なら、そんなことはすぐにでも分かることだった。考えてみれば、葛城が柄にもないクラス書記なんてものに立候補したのも、そのためだったんだから。

 気づいてないのはたぶん、当の委員長と葛城本人くらいなものだ。いや、どうもこいつも気づいてはいなかったらしい。まるで重要な秘密を知ってしまったみたいな、高揚した顔をしている。ちょっと頬が赤くなっていた。

「……へえ、そうなんだ」

「そうなんです!」

 ぼくが驚くふりをすると、勢い込まれてしまった。

 しかし葛城が恋の相談をしたからといってどうなんだろう。それに正直、こいつを相談相手とするのは間違いなく、間違っていることは、間違いない。三重でも足りないくらい間違っている。そんなのは南極まで行って北極星を探すようなものだ。

 葛城が藁にもすがる思いでこいつに相談したのは分かったが、だからといってどうなんだろう。見事におぼれることだけは確実だが、それは藁の浮力を見誤った葛城の責任でしかない。悪いとは思うけど。

「…………」

 しばらく、沈黙が続いた。目には見えないけど、地球が少し動いた。千絵は何故か口を開かなかった。

 ぼくは仕方なく訊いた。

「それで?」

「何とかならないですかね……」

 ぼくはため息をついて、箸を置いた。こうなるのは分かっていたことではあるが。

「葛城書記と委員長のことか?」

「……うん」

 これは、どう考えても魔王向きの仕事とはいえない。例の、金の矢と鉛の矢を持った子どもの神様に頼むべき筋合だろう。

「いったい、どうするつもりなんだ?」

 ぼくは無駄と知りつつも、一応訊いてみた。

「きっと大丈夫です、わたしは魔王ですから」

 千絵は何故だか笑顔を浮かべた。

「……その自信の根拠を知りたい」

「魔王に不可能はありません」

 ぼくはもう一度ため息をついた。もちろん世の中には、不可能のある魔王だってちゃんといるのだ。


 委員長の名前は、副島という。

 うちのクラスの最高責任者、兼野球部部長をやっている。

 野球部だけあって体格はいいが、筋骨隆々という感じではなく、しなやかといったほうがいい。責任感があって、裏表がなくて、かといって堅苦しいところはない。二塁手、背番号四、県大会で決勝まで行った。普段は眼鏡をしている。

「どうするんですか?」

 ぼくらはその日の帰り道で相談をした。……というか、お前には何の考えもないのか?

「副島に惚れ薬でも飲ますか」

「あるんですか?」

「ねえよ」

 魔王ならそれくらい用意しておいて欲しい。

 ぼくも千絵も通学は徒歩だった。家は歩いて二十分ほど。急ぎのときは自転車も使うが、その機会は滅多にない。

 商店街のアーケードを抜けながら、ぼくは話を続けた。本屋やら貴金属店の前を通りながら、時々走っている自転車をやり過ごす。人ごみが少ないのは、秋風が吹いているせいだけではないだろう。

「というか、副島のほうはどう思ってるんだ?」

 もしも副島が葛城のことを好きだというなら、話は実に簡単だった。

「どうなんですかね。幸文くんは知らないんですか?」

「うむ」

 ぼくはいつもの副島を思い出してみる。

 授業中、きいきい音がすると思ったら副島がハンドグリップを握っていたことがある。目があうと、見逃してくれといった感じで唇に指を当てた。

「体力馬鹿の一面があるからな、あれで」

「女の子に興味はないんですか?」

「いや、あるだろう」

 副島のために即答してやる。こいつが勘違いすると話がややこしくなりかねない。

「ただ、誰かとつきあってるとか、誰かのことを好きだとかは聞いたことがないな」

「じゃあ葛城さんにも可能性はありますね」

「女子のあいだではどんなふうに言われてるんだ、あの男?」

 情報を増やすために、そんなことを訊いてみた。

「確か、バットを持たせたらすごそうだって言ってました」

「……誰だ、その至極微妙な批評をものしたのは?」

「伊勢崎さんです」

 あの女、妙な言いかたをするのはよしてほしい。特に千絵の前では。

「とにかく、副島自身はフリーで、対抗馬もいないってことだな」

「やっぱり惚れ薬ですかね」

「あいにくうちの魔王軍にはキルケみたいな魔女はいない」

 魔女どころか、ガイコツ一匹いやしない。

 アーケードの終わりにさしかかったところで、ぼくはつぶやくように言った。

「要するに、葛城が副島にアタックすればいいわけだろ」

 副島が葛城を好きになるよう仕向けることはできないけど、それこそクピドよろしく二人がつきあうきっかけを作るくらいのことはできるだろう。

「葛城さんはバレー部だから、アタックはお手のものですね」

 千絵がその小さな手を振り回してボールを打つまねをする。そこには猫パンチほどの迫力もなかったが。

「問題はうまくトスをあげられるかどうかだな」

 ぼくはその方法を考えてみた。信号が赤になって立ちどまる。車が音を立てて走りはじめた。車にも秋の終わりが分かるのか、その音はどことなくもの悲しかった。

「ちょっと古典的な手を使うか……」

 しばらくして信号が青に変わったとき、ぼくはそうつぶやいた。

 魔王軍に魔女はいないが、影の参謀役ならここにいる。


 作戦にはまず、担任の教師を使う。

 次の日、ぼくはさっそく昼休みに職員室へ向かった。

 三年F組担当の理科教師、高田直樹は自分のシステムデスクに座って一人でコンビニ弁当をつまんでいた。机の上には今にも崩れ落ちそうな書類の山が、不遜にも神に挑戦するバベルの塔のごとく積みあげられている。

「別に寂しくはないぞ」

「まだ何も言ってません」

 高田直樹(三十五、独身)はぼくが何か言おうとする前に、自分からそう言った。

 無精髭を生やして、身なりにはほとんど気を使っていない。ジーパンとトレーナーの上に白衣を羽織っていた。白衣は先生と同じくらいよれよれになっている。白衣が実にかわいそうだった。

「昼食のときも白衣ですか?」

 ぼくは訊いてみた。

「汚れが服につかないからな」

 しかし薬品の染みや焦げあとならともかく、ドレッシングやウスターソースをかけられるのは白衣としても本意ではあるまい。

「それより、何か用なのか清川きよかわ? まさか俺に昼食を恵んでもらいに来たわけじゃあるまい」

「キリストは貧者の施しこそ本物だって言ってますけど」

「うちは浄土真宗だよ」

 もそもそとコンビニ飯をかっこみながら言った。独身の男がこうやって一人寂しく昼食をとっている光景は、どうしてこんなにも侘しいんだろう。

「テストの内容なら教えてやらんぞ」

 先生ははたと気づいた、というふうに言った。

「誰も聞いてませんて」

「貸金庫の番号もだ」

「絶対ないでしょ、それ?」

 先生は弁当を食べ終わると、湯のみに入っていた、どう見ても冷めきったお茶を口にした。

 昼の職員室は談笑する先生やら質問に来た生徒やらでそれなりに騒がしい。

「それで、いったい何の用なんだ、清川?」

 高田先生はようやく教師らしい格好に落ち着いてから訊いた。

「ちょっとお願いがあるんです」

「お前のお願いっていうとあれか、例の奥村の、魔王のことか」

 察しがいい。

 もっとも、こうして先生に頼みごとをするのは初めてではなかったけれど。

「平たく言うと、そうなります」

「また前回みたいに、学校中に目覚まし時計を仕掛けるわけじゃないだろうな」

「今回はもっと私的なやつです。うちのクラスのことですから」

「うちのクラス?」

 担任だけあって、さすがに気になるのだろう。

「平たく言うと、恋の話です」

「恋の話?」

 独身だけあって、さすがに気になるのだろう。

「プライバシー保護のために名前は伏せときますけど、一人の恋する乙女のためです。先生の協力をお願いします」

「恋する乙女、ねえ」

 高田先生はぽりぽりと頭をかいた。みるからに恋する乙女に縁のなさそうな顔をしている。この理科教師の頭の中でどんな化学反応が起こっているのかは、ぼくには分からなかった。

「まあいいだろう。それで、俺は何をすればいいんだ?」

 ぼくは持参した一枚の紙を手渡した。

「何だ、これは。生活調査アンケート?」

「それをクラスで実施して欲しいんです」

「まあ別にかまわんが、これと恋する乙女にどんな関係があるんだ?」

 高田先生は不思議そうな顔をした。

「ある古典的な演出のための小道具です」

 ぼくはそれだけ言っておく。高田先生はよく分からないながらも、とりあえず了解してくれたようだった。「近日中に実施しとく」と約束してくれた。

 これでぼくの用事は終わりだった。

「ああ、そうそう。言っておくことがあった」

 帰ろうとしたぼくに向かって、先生は声をかけてきた。

「お前らももう三年で、受験とかも近い。奥村の魔王だとか、変てこな活動はな、先生も好きだが、けど時期が時期ってこともある。学校に変な噂が立って推薦を取り消される、なんて心配するやつもいるかもしれん。何をするのかは知らんが、一応気をつけておけよ」

「……それだけですか?」

「ああ、それだけだ」

 ぼくはあらためて先生の前から辞去した。

「それにしてもこのアンケート票、よくできてるな」

 帰り際、高田先生のそんな声が聞こえた。


「アンケート自体には、特に意味はない」

 ぼくはもう一度、千絵に向かって説明してやった。

「問題は集計作業だ」

「うん」

「回収されたアンケート用紙は、当然だけど集計されないと意味がない。用紙を一枚一枚調べて数をかぞえなくちゃいけないわけだが、これはすごく面倒だ」

 ぼくと千絵は、自分たちのクラスではなく、隣の教室にいた。何故なら、今クラスでは重大な場面に差しかかっているはずだから。放課後で、生徒の姿はない。遠くのグラウンドから運動部のかけ声が聞こえた。

「残念ながら、先生にはそんな作業を行っている暇はない。テストの作成とか、隠し口座の管理とかで忙しいわけだ」

「隠し口座?」

「たぶんタンス預金のことだ。そこで金銭面も含めて今後の生活に不安いっぱいの高田直樹先生はどうするか?」

「クラス役員に仕事を任せる、です」

「そう、要するに副島と葛城の二人なわけだ。飛行機大好きほんわか少女の小堀副委員長と、怪しいイラストばっかり描いてる鹿賀野書記は急な用事が入って手伝いができない」

「他のみんなも部活や勉強で忙しいわけですね」

「つまり偶然にも副島と葛城は誰もいない放課後の教室に二人っきりというわけだ」

 そう、これがぼくの考えた古典的演出だった。もちろん、誰にも副島と葛城のことは話していない。けど魔王のこんなお願いは珍しくないので、みんな快く了承してくれた。

「あとは葛城さん次第ですね」

 千絵は自分がその立場に立っているかのように興奮した顔をしていた。

「そう、舞台は整えてやった。アポロンがダフネを捕まえられるかどうかは本人次第なわけだ」

「でも――」

 と、千絵は急に不審そうな顔をした。

「どうしてわたしたちがここにいるんですか?」

 いい質問だ。何故、ぼくらがF組の隣の教室にいるのか。

「これから、葛城は副島に告白するわけだ」

「たぶんそうだと思います」

「そのお膳立てを整えてやったのはぼくたちだ」

「一応、そうです」

「ということは、だ」

 ぼくは咳払いを一つした。

「その様子を知る義務と権利が、ぼくたちにはある」

「…………」

 千絵は小さく首を傾げた。

「そうですかね?」

「見たくないなら無理にとは言わん」

「でもよくないですよ、そんなの。人として」

「お前は魔王だろうが」

 千絵はもう一度小さく首を傾げた。

「それもそうですね」

 納得したらしい。ぼくとしてはそれもどうかとは思うけど。

 二人の意見が合致したところで、ぼくは手順を説明した。各教室は、ベランダで一つにつながっている。だから隣のこの教室から、ベランダ伝いに移動してF組の様子をうかがうことができる。移動は窓から見えないようにかがんだまま、音を立てずに。

 もしも二人のうちどちらかに気づかれたら、それこそ目も当てられない。

「それじゃ、慎重に」

 まずぼくが先頭になって、中腰のままそろそろと進んだ。ゴム底の上履きはほとんど音を立てることはない。少しあとから千絵が続いた。

 空は晴れていて、雲は変に遠くに見えた。空の重さも変わるんだろうか、とぼくはふと思ってみる。何か硬質なものを金属バットで叩いているような音が、よく分からない場所から聞こえた。道路工事でもしているのだろう。

「――も急だよな」

 声が聞こえた。副島の声だ。

 ぼくはその声に一番近そうな場所を選んで、壁に背をもたせて座る。隣で千絵も同じようにして体育座りをした。どうでもいいが、わりと寒い。

 おそらく、二人は壁の向こうで机をつきあわせて座っているのだろう。その机には回収されたアンケート用紙がのっているはずだった。

 ――以下は、想像もまじえた二人の様子について。

「急ぎだから今日中に終わらせてくれだなんてさ」

 副島がやりきれないといったふうに言った。ただその口調はぼやくようなところはなくて、あくまで相手の気を使っているだけ、という感じがした。ラジカルに爽やかなやつなのだ、副島という男は。

「うん、ちょっと急だね」

 葛城が軽くうなずき返す。念のために言っておくと、葛城は今日のからくりはすべて承知している。

「おまけに副委員長も鹿賀野も用事だって」

「そうだね」

「葛城さんも運が悪かったね。二人だけで仕事なんて」

「――うん」

 ところが、不運どころかそれが狙いなのだ。……副島が一生気づくとは思えないけど。

「なんなら俺一人で終わらせるから、葛城さんも用事があるなら帰っていいよ」

「ううん、全然そんなことない」

 葛城は強い否定の意をこめて首を振った。

「あたし、全然嫌じゃないよ、副島くんと二人で」

「そう?」

 言外にこめられた意味に、副島は特に気づく様子はなかった。さすが運動馬鹿。

 しばらく沈黙があった。時間の粒が音もなく降りつもっていくような沈黙だった。アンケート用紙を集計する鉛筆の音だけが聞こえる。

 口を開いたのは葛城のほうだった。

「……もうすぐ、卒業だね」

「うん、そうだな」

「副島くん、野球部は?」

「もう大会もないし、実質的には引退してる。ちょくちょく顔出しして練習してるけどね」

「高校に行っても野球続けるつもりなんだ」

「推薦とれるほどうまくはないけどさ、やっぱり好きだから。親には勉強に支障が出ない程度にしとけって言われてるけど」

「あたし、野球してるときの副島くんて好きだよ。格好よくて」

「俺も野球は好きだからさ、それくらいはがんばりたくて。葛城はバレー部だろ?」

「あ、うん……」

「バレーって大変そうだよな、頭使って。俺いまだにルール分かってないよ」

「慣れたら簡単だよ。サーブ交代するたびにローテすればいいんだから」

「それがよく分かんなくて」

「えー、そんなことないよ」

「アンケート、あとどのくらい残ってる?」

「半分、かな」

「こっちは三分の一くらい」

 葛城は作業を続けながら言った。

「――あたしね、副島くんのことが好きなんだ」

 ぼくの隣で、千絵はまるで自分がそう言ったみたいに顔を赤くする。一瞬、世界そのものが止まってしまったみたいだった。葛城の言葉は、自分でもたった今そのことに気づいた、という感じだった。

 副島はふと、手をとめる。

「迷惑と思うかもしれないけど、でもね、ずっと好きだったんだ」

 何かをそっと手放すような、葛城の言葉。

「一年の頃から、ずっと。あたし運動ダメだけど、副島くんが野球してるとこ見て、すごくいいなって思ったんだ。あたしもあんなふうになれたらなって。それで、友達といっしょにバレー部入って、ずっと補欠だったけど、がんばってきた。副島くんが野球を続けてるから、あたしもがんばろうって。つき指したり、膝をすりむいたりしても、へっちゃらだった。少しでも副島くんに近づけるように強くなりたかった」

「…………」

「あのね、もう一度言うよ。あたしは副島くんのことが好きなんだ」

 葛城は一等星よりも強い目の輝きで、副島のことを見つめる。

 ぼくは黙っていた。千絵も黙っていた。副島も黙っていた。工事現場の音は聞こえなくなっていた。

 やがて、副島は言った。

「……ごめん」

 葛城が上気した顔のまま、泣きだしそうにしているのが分かる。

「それは、つまり、他に好きな人がいるってこと?」

「違うんだ」

 どう説明したらいいのか分からない、というふうに首を振る副島。

「俺はたぶん、そういうのが分からないんだ。つまり、俺はまだ人を好きになったりしたことがないってこと。だから誰かを好きになるとか、恋をするとか、そういうのがよく分からない。葛城のことは嫌いじゃないよ。でも、やっぱりよく分からないんだ、俺」

 隣で、千絵が何故だかぼくの手首をかなりの強さでつかんだ。

「あたし、ふられたのかな?」

 葛城が泣こうとするような、笑おうとするような、そんな声で言った。

「……そういうわけじゃないと思う」

「あたしね、高校になったら東京の学校に通う予定なんだ。そうしたら、きっともう会えなくなるよね?」

「……うん」

「あたし、ふられたほうがよかった。きっと嫌いだって言われたほうが、副島くんのことを好きでいられた。ずっと、そのことを大切にしていけた」

 机に座ったまま顔をくしゃくしゃにした葛城の瞳から、涙がぽつりと落ちた――ような気がする。

「ごめん」

「いいよ、副島くんが悪いわけじゃないんだから」

「――ごめん」

 ぼくも千絵も、一言も口をきかなかった。

 やがてとんとんとアンケート用紙をまとめる音がして、先生のところに行くからといって副島が教室を出て行った、からっぽの教室に、葛城だけが残されている。

 ごそごそと、たぶん涙を拭う動作をしてから、葛城はカバンを持って教室から出て行った。ぱちんという電気を消す音が最後にすると、それっきり室内には誰もいなくなる。

 千絵はまだ、ぼくの手首を強く握っていた。どうしていいのか、ぼくには分からなかった。

 前にも言ったとおり、魔王にだってできないことはある。

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