2(ぼくと千絵)

 ぼくと千絵のつきあいは長い。小学二年のとき、ぼくがこの町に引っ越してきて以来、ぼくらは何かといっしょにいることが多かった。幼なじみ、というのは少し違うかもしれないけれど、大概そんな感じだ。二アリイコール。近くにいるのが普通、という感じ。家もすぐ隣だった。

 当然、ぼくらは同じ小学校に通っていたわけだけど、千絵はその頃から自分のことを魔王だと名のっていた。恥ずかしがりもせず、むしろ誇りを持って。ある種の宗教で特異な格好をするのと同じく。

 ではその魔王は、いったいどんな悪逆非道を重ねてきたのか?

 ――一例をあげると、こうだ。

 ある日、いつものように一人の善良な男子生徒が学校に登校してくる。彼は当然、靴を履き替えようとするだろう。何も知らずに下駄箱に向かった彼は、目の前の光景に愕然とする。

「僕の上履きが反対になってる!」

 普通、こちらを向いているはずのかかとが逆になって、つま先のほうが外側を向いている。しかも事態はそれだけではない。よく見れば見渡すかぎりの上履きが同じ状況に陥っていた。被害を免れたのは、その日偶然上履きを持って帰っていた数人の生徒だけ。

 このことは〝上履き逆さ事件〟として校内では知らない人間のいないほどのものになった(そりゃそうだ。ほぼ全校生徒が被害者なんだから)。その後は当然ながら、犯人は誰かという話になる。しかし名探偵の登場を待つ必要はなかった。犯人が自分の靴だけをそのままにしていたから……ではなくて、自分から名のり出たからだ。

 もちろん、千絵だった。

 職員室に呼ばれ、先生から理由を訊かれた彼女は、こう答えたという。「魔王はひどいことをするものだからです」。胸を張ってそう答える女子児童に、ベテランの小学校教諭といえども困りはてたのだろう。事態はうやむやのうちに流され、咎めだてといえるほどのものはなかった。

 一方、生徒たちのほうでもこの事件は困惑と称賛を持って受けいれられ、魔王の存在は一挙に認知されることとなった。全校生徒の上履きを延々とひっくり返すというその労力と意志の固さと、何よりも無意味さに、誰もが脱帽したせいだろう。魔王、奥村千絵の名は、一躍学校中に轟くこととなった。

 ……ところで、大都会のマンモス校といえるほどでなくとも、五百人近い生徒のいる小学校の、その上履きを全部ひっくり返すのには、どれくらいの労力と時間が必要なのだろう? さらには教員や用務員のチェックの入らないであろう児童の登校前に、その全部を行うには。彼女はそれを、一人で行ったのか?

 そう、一人じゃなかった。ぼくも手伝った。何故かといわれると、ぼくにもうまくは答えられない。よく分からないうちにそうなっていた、としか。最初のうちは、面白そうだから手伝ってやるか、くらいだったのかもしれない。

 その他にも、魔王による暴虐行為は数知れない。

 例えば、中庭にあった花壇の土を荒らしたり、クラス中にどんぐりをまきちらしたり、女子の着替え中に教室の扉を全開にしたり。――花壇は実質的には耕しただけ、どんぐりは居残りの掃除、最後のやつは一部男子に受けが良かった。

 千絵の魔王活動というのは、大体そんなものだった。大抵の場合は、彼女が何か思いついて、ぼくがその実現のための計画を練った。

 だから端から見れば、ぼくは魔王の一味だったわけだけど、クラスの友達からはそういうふうに見られたことはない。みんなはぼくが千絵の手伝いをしていることを知っていたけど、あくまでそれらを行うのは魔王である千絵だけだった。舞台上の黒子みたいなものがぼくの役割で、みんなもそれにつきあっていたのかもしれない。

 いずれにせよ、千絵の魔王活動が誰かの苦情を招いたり、嫉妬深いユダヤの神様の怒りに触れたりしたことはなかった。真の恐ろしさというのは、決して人々を表面的に怖がらせるものではないのだろう。

 そんなわけで、千絵の魔王活動は中学になっても続いた。やんわりと注意することはあっても、正面切ってやめろという人間はいない。やめろというだけの理由を思いつけなかったのかもしれない。あるいは、それこそ魔王の力だったんだろうか?

 そして結局、それは中学三年のあのまで続くことになる。


 ぼくと千絵が中学に入って最初に起したのは、〝紙ヒコーキ事件〟だった。

 その日、ぼくらは屋上にいた。麗らかな春の日で、今にもウグイスの鳴き声が聞こえてきそうだった。季節は冬の重くて厚い外套を脱いで、軽やかな薄衣をまとおうとしている。ようするに、春だ。

 手に持ったカバンに詰めこめられそうな陽気の中で、ぼくは何度目かのあくびをしていた。

「今日はいい天気ですね」

 と、千絵が言った。

「まあそうだな」

 ぼくは頭のちくちくする感じをできるだけ抑えようとしながら言った。「もしも昨日、急にあんな作業をするなんて言い出して、おまけに徹夜でそれを完成させなきゃならない、何てことがなけりゃな」

「でもわたしは眠くないですよ」

「そりゃ、十二時過ぎた頃には熟睡してた誰かさんならそうだろう」

「徹夜は健康に良くないです」

 それはぼくの健康はどうなってもかまわない、という意味だろうか?

 鉄柵に寄りかかって座ったままの姿勢で、ぼくは千絵の顔を見上げた。

 遥か海の彼方をうかがうエンリケ航海王子のような千絵は、確かに今すぐ暗黒大陸の探索に乗り出さんばかりに元気そうだった。まあ元気そうじゃないこいつの姿なんて、ほとんど記憶にはないけれど。

 世界を柔らかく組み替えてしまうような春の風が、千絵のスカートを軽く揺らした。

 千絵の身長は低い。小学校の頃はそれほどでもなかったけれど、どうやら神様は千絵の成長を早い段階で止めてしまったみたいだ。そう背の高いほうでもないぼくの、肩の辺りまでしかない。手品をするときには便利そうだけれど、本人がどう思っているかは知らない。

 髪は二つに分けて、編まずにくくっている。人形のような、びっくりするくらい小さな手と足。ビー玉のような、不思議にまじろがない瞳。およそ不満というものを知らなそうな、ゆるやかな弧を描く眉。時々、地蔵菩薩のような、と形容される誉められてるのかどうか分からない笑顔。

 一言で言うのは難しいが、とりあえず奥村千絵はどこをとっても魔王らしさの片鱗もない女の子だ、ということはできる。

「あ、来たみたいです」

 しばらくして千絵はぱたぱたと、ぼくのほうに手を振ってみせた。

「じゃあそろそろはじめるとするか」

 のっそりと立ち上がりながら、ぼくはそう言った。


 その次に起こったことを、生徒の側から描写してみよう。

 入学式から一週間後、中学という新しい環境にもようやく慣れはじめようとしている。クラスに友達もできた。授業ははじまったばかりでまだ新鮮だ。期待と不安のまじった毎日だけど、とにかく新しい生活がはじまった実感だけはある。

 今日もいい天気だ。新しい電池を入れたばかりみたいな陽光が空から降りそそいでいる。そういえば今日は午前中から体育だ。きっと気持ちよく運動できるに違いない。

 バス停から校門までの通学路。ちょうど最初のピークというところだろう。おしゃべりしたり、ふざけあったりする生徒たちがたくさん歩いている。通りをだいぶ外れたこの道には、車もあまり走ってはいない。

 校門近くにさしかかったとき、その生徒はふと気づく。空を何かが飛んでいる。

 それはごく小さな何かだ。ふわふわと、宙をすべっている。UFO? と思ったら、また一つ。いや、無数の同じような塊が空を飛んでいる。やがて生徒のそばに、その何かが音もなく着地する。飛行物はランダムに、登校中の生徒たちのあいだに落下しているようだった。みんな立ちどまったり、不安そうに落下物を見たりしている。

 かがんでそれを拾いあげた生徒は、不思議な顔をする。それは紙飛行機だった。色とりどりの折り紙が花びらみたいに宙を舞っている。誰かが校舎のほうから、紙飛行機を飛ばしているのだ。

「……?」

 生徒はその紙飛行機に、何か文字が書かれているのを発見した。奇妙に思いながらも、紙を開いていく。桜色の折り紙には、こんな文字がプリントされていた。


『今日、誰かに向かって十回

 〝ありがとう〟

 と言うこと。

   ――一年C組の魔王より』


 ぼくは屋上の縁から紙飛行機を投げながら、ぼやかざるをえなかった。

「何で、〝ありがとう〟なんだよ」

「だって、不幸になれとか書かれたら嫌じゃないですか」

「わざわざうちのクラスだってばらしたのは?」

「誰のしわざか分からないと気持ち悪いですよ」

 ぼくは文句を言う気もなくして、紙飛行機を次々と飛ばした。

 大体の紙飛行機は玄関から校門を越えたあたりで墜落するけれど、中には風に乗ってどこか遠くまで飛んでいくものもあった。きっと冒険心にあふれた紙飛行機だったのだろう。

「すごい遠くまで飛んでますね」

 千絵は無邪気にそれを眺めていた。ぼくも手をとめて、しばしそのリンドバーグ的紙飛行機の行方をうかがう。無事にパリまで届くとは思えなかったけど。


 ――これが県立鈴森中学校の魔王、奥村千絵だった。

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