魔王のいる世界

安路 海途

1(彼女の言うことには)

 ちょっと前のことなんだけど、もうずっと昔みたいに思えることがある。

 休み時間になった途端、どこに隠れていたんだろうと思えるくらい騒々しくあふれかえる人の声、授業中にかつかつと黒板をたたく白いチョークの音、カーテンに吸いこまれた太陽の光、廊下の靴音、ふと窓の外に見えたプールに反射する太陽のきらめき、夏の陽にさらされた白く埃っぽいグラウンド、雨で湿っぽく冷えた教室の壁、空から降ってくる糸のように細くなった雨粒、見下ろした先にある校門を通っていく色とりどりの傘、誰かの呼び声、放課後に現われる世界中の時間が停まってしまったような静寂、空を見上げた時に確かに感じた、何かに吸いこまれるようなあの感覚――

 ああいうのって、何なんだろうと思う。あの時は確かにあったはずのものなのに、今となっては夢の中みたいにはっきりしない。手をのばした先の、その向こう側に消えてしまったみたいで、もう永遠に触れられない。

 まあ人間なんて、そんなものなのかもしれない。どんなに大切なことだって忘れてしまうし、どんなに強い決意だって崩れてしまう。それは人間の性みたいなもので、非難されるべきものじゃないのかもしれない。

 ――いや、でもそれは、本当は逆のことなのかもしれない。

 つまり大切なことだから忘れて、強すぎる決意だったから崩れた。ちょっと前のことだから、もうずっと昔みたいに思える。

 しかし実際のところ、そんなのはどうでもいいことだ。幸いなことに、人間の本性に関する議論なんて、この話には何の関係もない。そんなのは偉い哲学者にでも任せておけばいい。ぼくがここで話しておきたいのは、高校生になった今、もうずっと昔に思える中学校時代についての一つのこと。ある女の子についてのことだ。

 そう、ある魔王についての――



「――この世界には魔王が必要なんです」

 と、彼女は言った。

 彼女というのは、ぼくの幼なじみの奥村千絵おくむらちえのこと。千絵は天からの啓示を受けて十戒を授かったばかりのモーセのように、力強く宣言した。

「……なんで?」

 それは何かの用事で、体育館に二人でいるときのことだった。何の用事かは覚えていない。いずれにせよ、ろくでもない用事だったことだけは確かだ。確か、自転車の空気入れを使って、大量の風船を苦労して膨らませていたような気がする。

「何故なら」

 言って、千絵は続けた。

「正義というのは、悪があってはじめて存在するものだからです」

「ほう」

「魔王がいてこそ、勇者がはじめて存在できるんです」

 千絵は〝自分は今、すごくいいことを言った〟的な、実に得意げな顔をした。

「ちょっと前までは、その辺に魔王がいたはずなんです。それで悪の軍団とかを作って、みんなを困らせていたんです」

「で、それを正義の味方がやっつけるわけだ」

「そのとおり」

 千絵はぼくに向かって嬉しそうに指を突きつけた。あまり人に指をささないでほしい。

「でも今、この世界には魔王がいないんです。悪の権化はもうずっと昔からいなくなっちゃいました。そのせいで、正義の味方までどこかに行っちゃったんです」

「だから魔王が必要ってわけだ」

「そうです」

 千絵はにこにことうなずいた。

 ……まあ、それも一理あるかもしれない。

 ぼくは魔王のいる世界を想像してみた。空を覆う黒い煙、焼け落ちる街々、魔物に蹂躙される人々、悲鳴と殺戮、血の流れる川、混乱と飢餓による不和はやがて人々を覆い――

「…………」

 あまりよさそうではなかった。

 が、千絵はそんなふうには考えていない。そのことを、ぼくは昔から知っている。

「それで、どうするんだ? 魔王のいない世界で」

 ぼくは一応の礼儀として、こっちから先をうながしてみた。そう、千絵の話には続きがある。

「そう、それで――」

 千絵は実に嬉しそうに、力強くぐっと握りこぶしを作って言った。

「わたしは魔王になりたいと思います!」

 ぱちぱちと、ぼくは気のない拍手を送ってやる。千絵は得意そうな笑顔だ。

 とはいえ、この話には問題が一つあった。とても重要な問題だ。

「……で、正義の味方はどこにいるんだ?」

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