8 【ファンクションコントロール】

 誰しもが、自我を有する。

 それは人間として生まれた限り当然のことで、自我を摺り合わせてコミュニティは生まれる。

 軋轢や諍い、求愛や理解。自分ではない誰かに求め、そして求められる理解という暴力は、時に人を攻撃的な衝動へ向かわせることもある。

 それでも、その果てに求める、絶対的な幸福がある。

 それは、恒久的な安寧なのか、程度よく続く刺激なのかは分からない。だが、一つ分かることは、幸福の定理は、個々人で大きく異なるということだ。

 些細な喜びも、過度な不安も、絶望的な感覚も、矮小な憤りも、観測する個人の中にのみ存在し、外部からは明確に観測できるものではない。

 しかし、それを手繰ろうとする感情が、他者と自分を繋ぐ極小の望みになる。

 そのための、追体験。そのための、RECシステムだった。

 崩壊していく世界の中で、崩壊寸前の精神を抱えた人々。

 その一つ一つを手繰ることは叶わないまま、人の意識は分裂し、離散した。

 突如出現した崩壊に、為す術はなかった? いや。突発的に生まれる歪みなどない。何らかの、俺たちの驕りのようなもの。それが、あの世界を混迷させたのではないか。

 そんなどうしようもない世界を見限り、新たな世界の創造を画策した男が今、俺の前で項垂れている。

「おっさん」

 東神霞は俺のことなど意にも介さず、赤く点されたエラーモニターを眺めている。東神の目前に控える巨大な扉は閉ざされ、俺と東神を見下ろすように佇む。

 俺の足音に気づいたのか、東神霞は緩慢な動作でこちらに振り返る。

「更くんか……早かったね」

「あれ、どうなってんだ?」

 首を振り、階下を示すと、東神は訥々とした口調で呟く。

「……どこまでいっても、私たちは人間なんだな。個人の枠、個体の縛りからは逃れられない。溢れた雫は、肉体に戻らない」

「ああいうことになるって分かってて、あいつらをマイの本体に会わせたのか?」

 東神は、項垂れたまま答えない。恐らく、彼の前にある扉の奥にはセフィロトの機能を万全に委託されたマイがいるのだろう。この世界で、二階堂アラタと出会った三園マイという少女ではなく、より人間から遠い存在が、ここにいる。

 それにしても、東神という男は、盲目的だと思う。

 この世界を運営するのと同じく、現実世界に戻っても尚、賢人会という彼の取り巻きは必要になるだろう。それなのに、その理解者たちの命を捨ててまで、マイと接触した。

「もしかして、おっさんも方法が分からないんじゃないか?」

「何を言っている」

 訥々と返す東神に、俺は続けて言う。

「帰る方法だよ。コンパウンドシグナルを稼働させただけじゃ多層世界内を混合させることしかできない。この世界の仕組みを現実に持ち帰るなら、それを運ぶ切っ掛けが必要だ」

 ファンクションコントロールには、干渉権はあれど、逆がない。閉ざされた多層世界への介入は可能でも、現実に戻るための機能は有していない。

人一人に扱える情報は些細なもので、この世界全ての情報を個人または数人で持ち帰ろうとしても、過負荷に耐えられないだろう。

 だから、人知を超える情報量を内包できるマイに、接触したのか。

「マイに断られたか?」

 嘲笑気味に言うと、東神は平然と答えた。

「彼女は、ここに残ると言っていたよ。凍耶も、それを望んでいるはずだ、とね」

 そんなはずはない、と東神は声を荒げる。

「凍耶は、現実の、自分を見下してきた連中に制裁を与えるため、この世界を構築したんだ。私は、それを叶えなければならない。このまま現実に帰れれば、凍耶は優秀な統治者になるだろう。そうなれば、あいつの新たな誕生になる……生まれてくる世界を選べなかった凍耶が、世界を作り替え、生まれ変わることになる」

「わかってねえな……あんた。あいつの言ってた、生まれてくる世界を選べなかった、ってのは、そういう意味じゃないだろ」

「何を言っている、更くん」

 東神霞は、表情を歪め、こちらを睨む。

「おっさんは、現実にRECシステムの情報を持ち帰ろうとしている。多くの人間の情報を抱えたセフィロト、そんで、多くの世界を行き交ったストレイシープの体験情報、この二つを持参して、現実世界を改革しようと考えてる」

「ああ、そうだ」

「でもな、凍耶はそんなこと考えてないと思うぞ」

「何を訳の分からないことを……凍耶は、あちら側を生き直すため……」

「いい加減、やめたらどうだ」

 東神霞が、俺をにらみ付ける。その顔は、困惑とも、憤怒ともとれる表情だった。

「あんたがやってるのは、あんたの想像上の凍耶に報いる行為だ。そこに凍耶本人はいない。……凍耶はな、もう諦めてやがるんだ。現実も、多層世界も」

「そんなはずが……凍耶は、この世界で優秀な男だった」

「そうだな。でもそんなのは仮初めだ。どれだけ上塗りしても、内部が変わらないんじゃ、意味はない」

 管制塔の外では、凍耶と交戦する雅たちが見える。仮にも、教え子とされた少年少女に刃を振るう男が、どうして優秀などと言えるだろうか。

「人の本質は、そう簡単に変わらない。蓄積された情報は、経験は、書き換えられないほど色濃く俺たちに染みついてる」

 そもそも、始めから分かり合えてはいなかった。

「何もかもなかったことにして初めから、なんて不可能だ」

 人を理解したいと願った舞と、人を拒絶した凍耶。

 新たな世界を創造するという同じ目的に向かいつつ、互いが異なる思想を抱えていた。

 凍耶が九音を攻撃したあの日、あいつは人をやめたのだ。正確には、人というものを拒絶した。自ら、逸脱することを選んだ。

「凍耶は、この世界に意識を固定化しようとしてる。だらだらと戦いを間延びさせてるのがその証拠だ」

 セフィロトによるコンパウンドシグナルの稼働時間は読めない。この世界の時間経過が現実と同じである可能性も低く、実際にどれほどの時間が残されているのか、未知数だ。

 シグナル起動中に現実側へのアプローチを試みなければ、帰路は閉ざされるだろう。

 東神霞にとってそれは、最も危惧すべきことであり、同時に俺たちにとってもその状況は好ましくない。

 凍耶は実質、この世界の稼働権を握っているに等しい。そんな全能者にも等しい男が、足掻き続ける人間をあざ笑うかのように、飛び回る。

「ちょいと、話をしてくるかな」

 独りごちて、俺は統合管制室の扉に手をかける。話をするしかない。この世界の根幹を握る彼女と。

 背後から、東神の罵声が飛ぶ。

「君たちは、まともに生きられなかった人間を理解していない」

「ああ、理解なんてどこにもなかった。勘違いばっかだ、俺たちは」

 言って、扉を開く。

 東神の声が遠く消えていくのと同時、俺の眼前に、アルカディアが顕れた。



「モニター越しではよく会ってたけど、初めましてって言ったほうがいいのか……」

 返答はない。だが、霧の向こうに彼女が佇む気配は感じる。

 一歩、足を踏み出す。すると、耳元で音が弾けた。

「更。私は、何をしてるんだろう?」

 マイは、ふらふらと俺の眼前に姿を現した。掻き乱された長髪が、彼女の一挙手一投足に合わせて揺れる。

「随分やさぐれているな、お前」

「どれだけ平穏に整理しても、争いの火種を摘んでも、決して安寧は来ない。不完全の消えた世界で、何で?」

 多勢を巻き込んでの新世界を駆け回ったマイ。アラタの前に現れた三園マイと名乗った少女は、現状の諍いを許容できずにいる。

「まあ、どんな状況でも、一定の反乱は起きるもんさ」

 軽口で吐き捨てた俺に、マイからの反応はない。続けて、彼女に詰問する。

「お前、賢人会の奴らに見せただろ」

 マイは、俺の言葉の意図を理解したように、頷く。

「人一人には重すぎるぞ。お前の予測は」

 セフィロトからアーカイブを引き継いだマイは、それを元にあらゆる可能性を先見する予測が出来る。そもそも、この世界の行動基準予測や機能向上率は、彼女とセフィロトが予測演算した『在るべき未来』の姿だ。個々人が不可測な動きを行わない限り、その想定は覆らない。

「あの人たちは、絶望した」

 淡々と、冷ややかな声でマイが言う。

「私はあらゆる可能性を彼らに提示した。見せろ、って言われたから。私たちにとっては些末な情報も、彼らには耐えがたい負荷だった」

「なんでそんなもん見たいかね……」

「知りたいから、だよ。何を失っても、何を削がれても、理解という安寧が欲しかったんだと、私は思う」

 その果てに命を落としていては、意味がない。

「程度がある。なんでも両極端に振り切っていいもんじゃないだろ」

「答えが見つかれば、それに勝るものはない」

 マイの言葉は淡々と、まるで決められた台詞をなぞるかのように放たれる。

「皆、それぞれに知りたがってた。それは、自分の存在意義だったり、自分の使命だったり、誰かから与えられた役目だったり」

 マイが俺を見ている。揺れることのない双眸は、ただ平坦で、無感情にも見える。

「この世界の構造を理解してるお前なら分かるだろ? 万人に満足のいく答えを与えることなんか出来ないってこと」

 マイの顔色が曇る。その変化こそが、彼女の答えであるような気がする。

「確かに、大きな括りでの答えはあるだろうな。漫然とそこにあるもの、疑いようのないものなんか、この世界にたくさんある」

 この世界とは、何事もまかり通る〝この〟世界ではない。マイもそれを理解したのか、訝しげに言葉を返す。

「それを変換することは、許されない?」

「さあな」

「分からないの?」

「分からん。俺はそんなでかいスケールのこと考えるようなやつじゃないし」

 わざとおどけた調子で言うと、マイの表情が微かに緩んだように見えた。

 現実世界では、確実に存在する事実がある。

 太陽が昇り、沈む。天候は操れないし、災害には為す術がない。人間は地に足をつけ、個体そのものでは宙に浮くことさえ叶わない。そして、人の身体は時間を経て老い、いずれ死を迎える。抗いようのない事実は、現実に横たわる怪物のようでいて、普遍的な安定でもあるのかもれない。

 個人に出来る範疇。つまり、与えられた機能は総じて世界の起源的な事実で、人間は、その限られた事実から、仮定し、解釈し、様々な外部機能を生み出した。

 多くの創造物に囲まれた個人の集合体は、個人の根源的な機能を外部に委託して、徐々にその本質を曇らせているように俺は感じていた。

 ただ、何が人間を規定しているのか、何がそうたらしめているのかは判然としない。機能――恐らくは、人間の感情という装置。それを取り戻せば人間たり得るのか。

 現状、現実側には抜け殻の俺たちがいて、感情を行使する力はこの世界に委譲されている。

 どちらが人の形に近いのだろう、と思う。

 人の造形、感情の造形。そのどちらも必要なのは大前提として、より本質的な答えはなんだろうか。

 マイは確かに人間の感情と経験則で『人の形』を模索した。人の短い営みでは決して到達できない領域へ、彼女はたどり着いたのだろう。

 だけど、この違和感はなんだ。

 アラタはこの違和感を、異物からの交信ゆえ、と言った。

 人がおよそ到達できない位置に置かれた存在は、既に人ではないのだと。

 同じではない、よく似た生き物。

 人間の感性、感覚を司る原初は、世界そのものとの触れあいから始まる。

 人として生まれ、人の中で生き、多くの創造物と出会う。

 そして、蓄積された情報から演算し、選択したものが、個人を規定するものへと変容する。

 俺たちは、それを意図的には行えず、また、それが何なのかという記号付けもできない。

 マイは、人とは違う。

 だが、人なんてそもそも、皆違うものじゃないのか。

 長い歴史の中で出来上がったルールに沿った、近しい存在。同じ形の、同じ限界を抱えた、似通った生き物だ。

 愚かしい勘違いを続け、忌むべき誤解を生み続ける。

 そんな、感情の奴隷が、俺たちではないか。

 でも、彼女は人間になりたいのだと言う。

「俺らは、完璧じゃない」

 俺の発言に、マイは答える。

「そう、私は完璧。あなたたちが求めた、結果」

「そうだな。完全性に夢を見てたんだ。そうすれば、恒久的に幸福でいられると、浅はかに信じてた。誰かの感情を慮って、理解する。そんな荒唐無稽な絵空事を、叶えようとした」

 マイは、訝しげに俺を見る。

「それを、馬鹿正直に夢見てたやつがいるんだ。未開の現象であるAIに、人との理解を与えようとしたやつがいる」

 誰も苦しまないように、誰も悲しまないように、そう出来るはずだと、答えを求めた舞は、maiの完全性に、人の未来を夢見た。

 俺は、微かに間を置いて、告げる。

「でもな……お前は、人じゃない」

 マイの表情が歪む。苦悶とも、諦めともとれる表情で彼女は縋るように俺を見つめている。

「分からないんだよ、俺らには。お前の考えも、お前って存在も。作った人間がそんなこと言うのは愚かだと思うけど、それでも分からないものは、分からない」

「だから、私は私だけで生きろってこと?」

 寂しげに、彼女の声が室内を反響する。

 理解されないことは辛いだろう、敬い、埒外に置かれることもまた同時に。

 俺たちに足りなかったのは、場所と時間なのかもしれない。

 違うものを迎え入れる場所。違うものを受け入れるための時間。

 追いつける、追いつけない、見つける、見つけないの問題ではない。

 それを求めるかどうか。彼女に全てを委託するのではなく、俺たちが実現可能な事象は、求め続けなければならない。

「そんなことは言ってないさ。分からないからって捨て置いたりしない。そんなことしたら、この世界を乱用した奴らと変わらなくなっちまう」

 マイは口を真一文字に結んで、俺の言葉を待っている。

「俺たちに時間をくれ。お前を理解する時間を」

 時間、そう多くはない時間。

「お前にとっては窮屈な時間になるだろうし、俺たちに幻滅したりもするだろう。でも、俺らはどうも鈍足なんだ。お前の位置に行くには、まだ足りないものが多い」

 俺たちは足りなさ故に立ち止まり、その都度模索した結論を出す。

 その結論は大抵間違えているか、欠けている。

 不完全な機能を抱え、完全なる理想を目指し、どうにか自身をコントロールし続ける。

 機敏で的確なマイが、そんな俺たちに愛想を尽かさず付き合ってくれるのなら――まだ、人間と異物とが共存する希望はあるのかもしれない。

 俯いたマイの表情は伺いしれない。失望しているのか、それとも、落胆しているのか。

 そんな俺の稚拙な想像を覆すように、マイは顔を上げた。

「更たちは、向こうじゃないと生きられない」

 自身に言い聞かせるかのように、マイは言う。

「そうだな。精神と肉体が離れると、俺たちが保てなくなるだろう」

「更たちは、帰らなきゃいけない」

「そうだ」

「私の居場所は、向こうにあるのかな?」

 頼りない声音で、マイは訊ねる。人間とよく似た表情で、彼女は微笑んでいる。

「なくても、作るしかないだろ。まあ、ほら、俺らって凄いし」

 冗談めかして笑ってみる。信じている、きっと自分たちはそんな存在だと。

 マイが、ひゅうっと息を吸い込む音がする。静謐な空間は、微細な音でさえ在り在りと運ぶ。

「更は、いつもそんな感じだ」

「悪いか?」

 マイは首を横に振る。

「それが更の……良いとこ」

「謎の間はなんだよ」

「悪いとこかも……」

「どっちだよ」

「わかんない。更はいつもそう。誰かに訊ねて、答えを教えてくれない」

 唐突に俺の批判を始めたマイに、思わず頬が緩む。

 巡り巡って、その果てには大抵同じ難問が立ちはだかる。その都度俺はマイに訊ねていた。

 どうしたい? 

 どちらだと思う?

 何をしたい?

 マイからの答えは淡白かつ明快で、そしてその答えは往々にして正しかった。いや、正しいように感じた。

 答えを与えた舞と、答えを訊ねた俺のどちらが正しかったのか、なんて、今はもうどうだっていい。

「俺が判断できるもんじゃないだろ。お前がどう思ったかが大事なんだし」

 マイは眉根を寄せ、不機嫌そうに首を傾げる。

 そんな迷いの渦中にいる彼女に、俺は問いかけた。

「どうする? あっちに、帰るか?」

 マイは双眸が、こちらを捉える。彼女がそれを否定するなら、俺たちは帰路を失う。

 逡巡し俯く様は、まるで子どものように頼りなく、しかし、マイの抱える役割は現実世界を改変するほどに強大で、驚異だ。微かに震える身体を支える彼女の姿からは、アンバランスな心情と外殻が軋むように互いを喰い合っているように感じる。不安定な存在。人間が作り出した、神の傀儡。

 マイは、俺に向き直る。

 そして、強く、はっきりとした眼がこちらを選定するように据えられている。

 その眼差しは、そのまま彼女の決意――答えのように思えた。

「うん。一緒に帰る。皆で、帰る」

 呟きは小さく、だけど俺の耳には明瞭な響きをもって届いた。

 様々な意志決定を強いられてきた彼女の、それが本当の意味での回答だと、俺は思った。

 


マイの手を引き、俺は多層世界内、雅たちのいる世界へと帰還する。

 アルカディアに向かう際にいたはずの東神霞の姿はそこになく、閑散とした室内に立っていたのは、

「凍耶……」

 満身創痍、といった様子の東神凍耶に、マイは声をかけた。しかし、凍耶は一瞥もくれず、ぶつぶつと何かを呟いていた。

「……満たされない……誰も、絶望しない。……僕が、父さんが、導くのだと言っても……誰も、言葉を受け取らない」

 怨嗟まみれの凍耶に、俺は告げる。

「お前さあ、どんだけ自分が凄いと思ってんだよ。いや、勝手に思ってる分には良いことだと思うけど、それを導きなんて言葉で巻き込むのはどうかと思うぞ」

 凍耶が俺を見る瞳に、光はない。同じものなど、最初から見えていないのかもしれない、と思う。

「理解してほしかっただけだ。認めさせたかっただけだ。馬鹿なのは周囲で、僕じゃない……」

「理解しようともしてない奴がよく言う」

 俺を見る凍耶の目に、ようやく意志が灯る。

「水掛け論覚悟で言うぞ。お前は勝手に諦めて、勝手に絶望して、勝手に閉じこもっただけだ。お前には、思考があって、言葉があって、願いがあったんだろ? なら、なんで使わない。自分に備わった機能をフルに使って、挑まない」

 凍耶の唇が、戦慄くように震えた。

「それでも足りなかった!」

「足りないなら、補えばいい」

「資源がない」

「あるさ。探せばいくらでもある。周囲にお前の言葉を待っていた人間は多く居たはずだ。そいつらを使えばよかった」

 使う。聞こえの悪い言葉だ。だが、俺たちは良くも悪くも使い使われて生きている。お互いに罪悪感や羨望を抱え、削り合いつつも生きる。

「そんなもの……限界がある。誰も僕の考えに及んでなどいない」

「そう思うのがお前の限界だろうが。結局お前はこの期に及んでも人の上に立っていたいだけなんだよ。対等でないと見限った段階で、お前は理解することから逃げたんだ」

 俺と凍耶のやり取りを静観していたマイが、そっと口を開いた。

「逃げてもよかった。でも、逃げるのは捨てるのとは違うと思う」

 マイは、俺と凍耶を交互に見ながら、続ける。

「皆ね、幸せだと思ってた。でもだめなんだよ。選択を誰かに預けたら、自分がいなくなっちゃう。帰る場所が、なくなっちゃう」

 個人が発した様々な情報や言葉は、個人に帰結する。帰る場所をなくすこと。自分の全てを放棄すること。

「周囲がどうとかじゃなくて、凍耶はどうしたいのか、だったんだよ。凍耶は、期待して頼って、結局、自分で判断したようにみせただけ。そんなの、ただのわがまま」

「全ては個人の判断……? わがまま? 僕は、自分で判断した! 個人の裁量では判断不可能な事象に対して、委ねるという選択をしたのは僕だ!」

 明瞭なマイの主張に、凍耶が噛みつく。今にも飛びかかりそうな剣幕でありながら、彼の身体は立ち上がることもなく、床に這ったままだった。

 自分よがりの講釈。それもまた、個人の思考であるだろう。個人が規定し、個人が抱いた観念は、それそのものには善悪がない。だが、こと周囲を巻き込んだ場合は、話が違ってくる。理解は、互いの思考を摺り合わせ、互いの妥協点を模索することだと俺は思う。妥協などという言葉を使ってしまうと悲観的に感じてしまうけれど、押し引きの理解で、社会が構築され、人は他者との繋がりを放棄せずにいられる。

「歩み寄りもしなかったやつが……」

 口を突いて、言葉が溢れる。凍耶が、俺を注視する。

「歩み寄ってもらえるなんて思うな。感謝されるなんて思うな。理解されるなんて思うな。頭抱えて、不明瞭な感情をどうにか制御して、わからねえもんを解いてくしかないだろうが。任せてんじゃねえよ」

「そう……僕は、分からないんだ。分からない! 分からない! 分からない! 何もかも……」

 言いながら、ふらふらと凍耶は立ち上がる。そして、部屋の奥にある展望用スペースの扉を開く。

 ぎりぎりと不快な音を立て、扉が開いていく。生暖かい風が、室内に流れ込む。

「迷えばいいさ……好きなだけ」

 僕は、もういい。

 そう呟いて、凍耶の身体が俺たちの視界から消え失せた。

 マイが、開かれた展望スペースに駆け出す。マイを追いかけるようにして、俺も続いた。

「凍耶を助けないと……」

「待て!」

 ふらふらと奈落に身を乗り出したマイの肩をつかみ、制止すると、振り返った彼女は悲しげに俺を見て告げる。

「凍耶も、人間。だから、助けないと……可能性は、誰にだって残ってるのに……」

「そうだ、間違いじゃない。でもな、あいつはここに残るって決めたんだ。その結果どうなろうと、あいつの自由だ」

 ――コンパウンドシグナル再稼働準備完了。

 耳元ではなく、空間に轟くように無感情な声が響く。この声は、セフィロトのものだろうか、とふと考えた。他方の可能性を予見しているセフィロトから見れば、俺たちはさぞ滑稽に映るだろう、と同時に思う。

人間は、なんて滑稽なんだろう。

 自分のことすら満足に制御できず、数多の可能性を蔑ろにして、停滞する。

 凍耶は――セフィロトに触れ、何を見たのだろうか。

 そこに彼の答えは生まれていたはずだ。

 だが、結局総意には敵わない。凍耶の破壊的思考は、現実を営む多くの人々からすれば、嫌悪の対象でしかない。

 果たして、俺はどうだっただろうか。

 彼を嫌悪した俺は、率直な自分の感情として東神凍耶を軽蔑したのだろうか。

 空恐ろしいことを考えている、と思う。

 呼吸を整え、改めてマイに語る。

「あれがあいつの答えだ。個人の機能をどう使うかは、個人の意志に寄る」

「ファンクションコントロール……」

「そうだ。機能は固有のもの。本来、誰かに操作されていいものじゃない」

 良好な影響だってある。それは理解している。でも、最終的に自分の感情を律せるのは自分でしかない。他者のものを自分に落とし込み、変容させて、構成する。

 漫然と受け入れるだけでは、結局他人のものは他人のもののまま。

「助け合えるなら、本懐だけどな……それも、限界があるのかもな」

 人知を超えた存在は、俺の横で何かを言いたげに肩を揺らす。

「やっぱり更は答えを教えてくれない」

 まっすぐ俺を見据えるようにして、マイは言葉を継ぐ。

「それって、更の答えと皆の答えが違うと思ってるからでしょ?」

「……そうかもな」

「でも、更は歩み寄ってくれる」

 マイが、まっすぐ俺を見つめた。

「訊ねてくれる。怒ってくれる。だから私は、そんな人間になりたいと思った」

涼やかで、でも、底が知れないマイの微笑みは、微かにぼやけていく。

「帰ろう。理解が及ばない世界に……」

 意識が消える。

 吸い寄せられるように、世界は収縮していく。

「進むしか、方法はない」

「え?」

 途切れゆく意識の中、俺の呟きに、舞が素っ頓狂な声を上げる。

「……いや、そんなこと言ってたやつがいたなあ……って――」

 言葉は途切れ、濁流のように流れ込むこの世界の視認情報が身体を包む。

 走馬燈とは、こういうことをいうのかと追懐するかのような光景が周囲に広がる。流れていく。景色が、流れて、流れて。

 そして、再生をやめた映像のように、世界は暗転した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る