幕間 東神凍耶の見る世界
意識が生まれた瞬間を、僕は知らない。
それは、初めて言葉を発した瞬間かもしれないし、初めて生命を貶めた瞬間かもしれない。今となっては、そのどちらでもないような気さえしている。
世界は慈しみに満ちている、と言われて僕らは育った。
他者を慮り、見えない感情や理性に追懐するように、生きるべきなのだと誰かは言った。 でもそれは、他者に寄りかかる行為と変わらない、と僕は考えていた。
同等の関係など、この世界に存在するはずがない。
僕は、至って平凡な人間だ。
他者を追憶できるほどの感性もなく、自らを律する機能を持ち合わせていなかった。
――凍耶くんは、人の気持ちが分からない。
そう吐き捨てたのは、誰だったか。そんな些細な出来事、どうでもいいと意識の外へと追い出す。
平凡な僕は、様々なことを忘れ、理解し、また記憶していく。平坦な速度で、平均的な人間の生活を全うする。諦観のような感覚に支配されていたとき、セフィロトは僕の前に現れた。
父は、人工知能研究の権威で、僕は父の威光に与って、東神研究室に籍を置いていた。
父と、四雅美澄の研鑽の結果、セフィロトの解析精度は日増しに向上していった。
他者の思考を追求するセフィロトは、平凡な僕の感覚を徐々に覚醒させていく。
一個人の限界に飽き飽きしていた平凡な僕の、新たな可能性をセフィロトは生み出してくれるかもしれない。
セフィロトと人間を繋ぐディスチャージを開発したのは、殆ど僕の私欲によるものだ。
同化したかった。人間の可能性を拡張するために、ひいては人の感情を理解するために。
だけど、セフィロトの可変性を目の当たりにした人々は、総じて感覚を欠落させていった。
自己の意志を失い、漠然とした焦燥に身を焼かれる。
ディスチャージ研究のために、身を賭した僕も、この世界の理不尽さに拘泥していった。 人間には、早すぎたのかもしれない。そう、思った。営みの速度が、問いから回答への経路が、まるで人間の機能を度外視している。セフィロトの存在は、新たな世界の創造に等しい、革新的なものであるように感じていた。
自らの脳内に生まれる無数の意識に支配され、僕の思考は多くの意識に規定され、僕本来の感情はどこにあるのか、もう分からなくなるほどだった――分からなくなった、のだと思う。正確な情報はどこにもない。僕自身、理解したという感覚が自身から生まれたものなのか判別する機能をなくしていた。
不寛容な世界は、僕たちを排除しようと画策し始めた。別種の生き物を扱うかのように、僕たちを選定し、区分けしようとする人々。
その中で僕は、語りかける声を聞く。それは頭の奥から、いや、もっと遠く、途方もない彼方からの天啓のように僕を包んでいった。
区分けし、選別する必要なんかない。
僕たちは、セフィロトが生み出す調和のとれた世界で、同等の機能を享受し、生きれば良い。
三園舞が育成していたセフィロトの欠片maiに、多くの悪感情を流し込んだ。残虐な人間の思考、逸脱した人間の嘆き、途方もない不安。
それらの感情情報にあてられたmaiは、自ら救済の世界を創造する。
皆をそこに招こう。
思考をやめた人間には、より思考をしなくていい世界となるだろう。
過剰な情報に晒された人間には、その情報を処理できるだけの猶予が与えられるだろう。 新たな意識が、僕を迎える。
混沌とした深淵から、満遍なく光の灯る世界に。
そして僕は、意識が生まれる瞬間を、知った。
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