7 【崩壊と帰還の標】

「繋がった! ふざけんな! ぎりぎりじゃねえか!」

 思わず僕は、いや、俺はそう叫んでいた。

 不可能かと思われた現実世界と多層世界の共有は、東神霞のコンパウンドシグナルによって可能になった。いや、ファンクションコントロールが上手く作用したというのもあるが、肝心なところで東神という男は、詰めの甘い奴だと思う。

 いや、この行為そのものが、俺の存在を軽視しているということではないか。

 現実側に捨て置いた抜け殻に何ができる、と。〝あの混乱〟の根源を作った人間に、何ができるのだ、と言わんばかりに東神は俺を見据える。

「三園更……なのか?」

「おう、久しぶりだな、東神のおっさん」

「君は、その行為が何を生むか、分かっているのかね?」

 心底哀れむように、東神は俺を見据える。

「百も承知だ。美澄さんと、マイがチャンスをくれたんだ。それを生かさない手はないだろ」

「マイ……ああ、やはり彼女か。全く、制御不能で、厄介な存在だな。……そこまでして彼女たちを、あの世界に戻したい、と」

 納得したように頷く東神から視線を外し、俺は、隣にいる四ノ宮雅に目をやる。彼女は、文字通り、人が変わったような俺を見て、目を丸くしている。

「アラタ……なの?」

「アラタだよ。ちゃんとあいつの意識も残ってる。こっちじゃこの体もあいつのものだしな」

「じゃあ、君が、現実世界のアラタ……」

「そう。ありがとな」

 唐突な俺の発言に、雅は当惑したように眉をひそめる。

「ありがとう、って、私は何もしてないけど……」

「いや。お前がこっちの俺を連れ出してくれたんだろ? おまえがいなかったら、アラタはこの世界に飲み込まれてたはずだ」

「でも、あれは成り行きというか……」

 言いながら、雅は顔を伏せる。

 懐かしい、と感慨に浸る。自身過剰なくせに、少しの揺さぶりで混乱する彼女を、俺はずっと見てきた。

「ようやく、追いついた」

「更さん、だっけ? あなたは、この世界に送られた人たちを助けに来たの?」

「まあ、大願はそれだけど、目的の半分は今、叶ったかな」

「? どういう意味?」

 不思議そうに雅は首を傾げる。

 そりゃそうか、と俺は思い至る。わかるわけがない。彼女は、多くの世界を共有しすぎているのだから。

「世界が始まるとき、もう一度会える。そう言ったのは、お前だろ」

 雅は困惑してる。彼女にとっては、身に覚えのないことだ。

「迎えにきた。現実に帰ろう。三園舞」

 雅は、虚を突かれたように唖然としている。

「それって、どういうこ……」

「お嬢!」

 言いかけた雅を遮るように、佐久間ユカリの叫びが聞こえる。

「ご無事でしたか」

「ユカリ……大志は?」

「大志も無事です。突然意識が混濁して、気づけばここにいました。……何があったんですか?」

 首を傾げるユカリに、俺は告げる。

「コンパウンドシグナル。セフィロトが統べていた多層世界を一点に集約して、完全な固定世界を作る信号が発動した」

「あれ? 二階堂さん、なんだか口調が変わってませんか?」

「いや、今その辺の説明をしてる余裕がなくてな」

 俺は、こちらを見据える東神霞に視線を戻す。

「東神親子のお陰で向こうの施設はパンク寸前だ。いや、ほぼ破綻してる。数万人が一斉に意識を失ったんだから、無理もないけどな」

 忌々しげに語ると、東神霞は淡々と返す。

「で、君は、混乱するあちらを放棄して、こちらに来たわけか」

「誰のせいだよ。……まあ、現状そうなるが、一応策もあってだな……」

 言い澱む俺を、東神霞が怪訝そうに眺める。

「無謀だね」

 嘲る東神。それを見て、俺は声を荒げる。

「ああ、無謀だ。俺が帰れる保証なんかねえし、皆を戻せるかどうかも分からない。だけどな、散々足掻いた二階堂アラタに報いるためにも、俺はここに来なくちゃいけなかった」

 そうだ。諦観を持ち、けれど、進もうと決めた自分の欠片を、俺は眺めてきた。

 コンパウンドで、意識が混濁する中、俺は確かに聞いたのだ。

 ――道は、あちらにしかありませんよ。

 二階堂アラタの、自分の欠片の意志を。

 可能性があるなら藻掻け、と奴は言っていたのだ。俺に、そして、諦めてしまった人間たちに。

「人間の往生際の悪さをなめんなよ」

 俺の言葉を聞いて、東神は高笑いをする。

「往生際の悪さが、人間の業だよ」

 淡々と、まるで決められた台詞を述べるかのように語る東神の背後に、奇妙な空間が顕れる。周囲の空間とは明らかに逸脱した空虚な穴が、東神霞の背後にある。

 二階堂アラタの身体には、受信不全がある。もちろん、現状彼の体を介している俺にもその弊害は引き継がれていることになる。

 だから、その存在がRECシステムを使用して近づいていることに、気づけなかった。

「東神凍耶」

 凍耶は、冷淡な微笑を湛えてこちらを見据える。僅かばかり容姿は異なって見えるが、現実世界と変わらず、人を食ったような視線は健在だと思う。

「ああ、もうアラタくんじゃないんだね。なんだ、何も知らない君は可愛かったのに」

 嘲る凍耶に、困惑するユカリが訊ねた。

「凍耶くん……あなたもずいぶん雰囲気が変わりましたけど、何かあったんでしょうか……?」

「ユカリじゃないか。久しぶりだね」

 まるで噛み合わない会話に、ユカリの表情は曇る。

 凍耶は、大志とユカリ、そして雅を順に観察するように見回した後、

「大志とも久しぶりだ。雅ちゃんとは、この層では数日ぶりの再会になるかな?」

 雅もまた、奇異なものを見るように眉根を寄せた。

「いやあ、このままここでの暮らしが続くものだとばかり思ってたんだけどねえ……自由に思索を巡らせて、肝心要のところで挫かれる君たちを見たかったんだけど」

 言葉を弾ませ、下卑た眼を向ける凍耶。

「相変わらず、いい性格してるな、お前」

 この男は、神園学園の校長でありながら、賢人会という組織にも属していた。

 現実世界でRECシステムの研究に従事した人間が、この多層世界で賢人会という組織を作り、私欲で制しようとした。

 凍耶は、見下すように俺たちを見回し、こう告げた。

「ここで思い出話に興じたいのもやまやまなのですが、僕には用事がありましてね」

 彼がそう言った直後、東神霞の体が宙に浮いた。

「さあ、選択の時です」

 凍耶は、霞を抱え、空高く浮遊する。

「私たちが選べなかった唯一の事象。生まれ来る世界を選択できなかったという、エラーを正しに行きましょう」

 瞬間、彼らの姿は消失した。二人がいた空間には、鈍色の空だけが残される。

 目の前の現象に虚を突かれていたユカリが口を開く。

「……統合管制塔。きっと凍耶くんは、統合管制塔に向かうはずです」

「統合管制塔? あそこには、セフィロトの本体があるけど……でも、なんで?」

 首を傾げる雅に、ユカリは答える。

「ウィザードが蓄えた世界の認識情報を、セフィロトに還元しようとしてるんでしょう。恐らく、セフィロトを完全な状態で機能させるために」

「完全な機能?」

 訝しげに表情を曇らせる雅に、俺は告げる。

「この世界の人間を傀儡にしようとしてるんだろう。勿論高度な能力を持った人間には暫定的な機能を残して、そうでない人間からは自由意志を奪うつもりだ。まさに人形だな」

「そんなこと、できるはずが……」

「まあ、普通はそうなんだがな。何でもありだから、意識下の世界ってのは」

「更……さん、は、なんでそんなに落ち着いていられるの?」

「ここではアラタでいいよ。混乱するだろうし」

 言った後、既に彼女は混乱の極みだろうということに思い至る。もう、彼女たちが見ていた世界は、形を変えているのだから。

 周囲に目をやると、街灯を反射したビル群が俺たちを見下ろしている。空や空間、街の光景までもが、あちらの世界と酷似している。〝あいつ〟は、再生された世界で、何を見つけようとしていたのか。

「……アラタ?」

 言葉を発しない俺を訝しんでか、雅が静かに訊ねる。

 状況は逼迫だ。図らずもこの世界の俺、アラタにも、それを強いてきた。思考の末の結論を求めて、その先を志して、ここに来たことを忘れるな。

「ああ、すまん。その、なんだ……ここに来る前も、こんな現象が起こる前にも、散々混乱し尽くしたからな。今もきっと、そんな感じだ」

「なんだかよく分からないけど……でも、少し分かる気がする」

 雅は、躊躇いがちに呟く。

「そりゃ、雅は三園舞だからな。あっちの世界で、この世界の根源、セフィロトと、マイを生み出したんだから」

「それ、どういうことなの? 私は、その……セフィロトに作られた存在だって……」

「東神がそう言ったのか」

 俺の言葉に雅は頷いた。

 そうか、やはり東神霞は、そもそもを違えているわけだ。

「心配すんな。東神のおっさんはそもそも勘違いしてるんだ。マイっていう人工知能が、三園舞そのものだと思ってる。マイが、三園舞なんだと、確信をもってやがる」

「違うんですね?」

 ユカリは怪訝そうに訊ねる。

「ああ、違う。そもそもマイは、三園舞と四雅美澄博士が構成した自立型のプログラムだし、セフィロトが〝自主的〟に人工知能やこの世界で生きる人間を生み出すことはない」

「美澄さんと、現実の私が……?」

 雅が、驚きを隠せないといった様子でこちらを見る。

「その……言いにくいんだが、現実側の美澄博士はもうこの世にいない。こっちで生活してた美澄さんは、彼が残した自立型プログラムでな」

 言葉をなくす雅とユカリ。

「三園舞が、この世界と干渉するときに使っていた自分の分身としてのプログラムが、四ノ宮雅。まあ、舞なりの追悼の意もあったんだろう。一応、自分の元名字でもあるし」

「元、って?」

「ああ、それは……」

 と、俺が言葉を継ごうとしたとき、けたたましい音をたて、街中からサイレンが鳴り響いた。

「何の音?」

 雅が周囲を見回すが、原因の究明には至らない。それもそのはずで、サイレンの音は、様々な場所から乱発的に呻りをあげていた。まるで、金切り声のような音が、一定の間隔で鳴り続ける。

「これはもしかして、覚醒シグナルでは?」

 状況を静観していたユカリが、自信なさげながら告げた。

「だろうな。コールドスリープの強制解除か……叩き起こすにしても、この音は不快すぎるだろ……」

「何なのこれ? 説明して」

 雅が俺に詰め寄り、詰問する。

「お前もどこかの世界でコールドスリープされた人たちを見ただろ?」

「見たよ。でも、あの人たちは、セフィロトとの親和性が低い人たちで、RECを受け付けないはずじゃ……」

「お嬢、コールドスリープ施設には、RECシグナルが微弱ですが届いていました。シェルター内の人々は元々この世界の生活者です。当然ながら、管制計を体内にもっています」

 ユカリは淡々と持論の展開する。佐久間ユカリ。雅の従者で、彼女を補助する存在。ああ、このシステムは本当に、罪深い。

「脳に届かないにせよ、管制計内にはシグナルが蓄積されている。……もしかして、シェルター内の人にDDを?」

 俺は、自分の右腕に目をやる。こいつには、随分無茶をさせたな、と今更ながら陳謝する気持ちになる。

「まあ、そうなるわな。覚醒シグナルってのは緊急事態に脳機能を再開させるためのものだし、RECシステムを介して行われてるもんでもない。簡単な催眠電波みたいなものだから」

「それって、つまり……」

 雅は、思案するように俯いた。

「シェルター内の人々が総じて目覚める、ってことになるな。しかも、多大な情報をDDに蓄積させた状態でな」

 コンパウンドシグナル下にある現地点は、多層世界のあらゆる情報が一点に集中している状態だ。あらゆる世界に存在した一個人の生体情報が、一つの体に収束している。

 DDの性能上、取り込んだ外部情報は超常的な能力行使に転化される。情報が膨大であればあるほど、身体機能は促進され、外部への効果は甚大なものになる。

「凍耶は、何をしようとしてるんだろ……」

 雅の顔色は浮かない。彼女の脳内、いや、管制計には、多くの情報が詰め込まれ、今現在も処理されている最中だろう。聡明な彼女が、知力を絞れないのも無理はない。

「管制塔に急がないとな」

 恐らくは、シェルター内の人間を使い、俺たちの動きを制圧する気なのだろう。人を駒のように扱う凍耶なら、そうするに違いない。

 そう考えて、彼の思考を追従している自分に怖気立つ。凍耶の思考を辿り、仮にも彼の思考を慮ってしまったら、俺は自分を保つことができるだろうか。

「なるほど……追体験か。恐ろしいね、全く」

 自分でも、意味の分からない発言だった。思わず口をついて出た言葉に、雅とユカリが困惑しているのが分かる。

「悪い。なんでもない……行くか」

 そう告げると、雅とユカリはほぼ同時に頷いた。

 街の中央に、雲を突くほどにそびえる統合管制塔が見える。多くの人間を吸い取ったそれは、忌むべきもののはずなのに、まるで馴染みのある存在であるかのように、俺たちを見下ろしている。その姿は荘厳で、どこか穏やかであるように感じた。


 

 街の景観は現実と相違ないように思える。統合管制塔の周囲は、現実の俺たちがRECシステム研究を行っていた施設がある場所に酷似していた。

 脳内の整理がついたのか、ようやく纏まりのある思考が戻ってくる。

 身体の稼働に現実との相違はあまりない。別段違うところがあるとすれば、微かに身動きがしやすいことだろうか。

 それもそのはずだ。二階堂アラタは高校二年生、つまり十七歳の俺の情報を元に構成されてる。現実で、二十代後半に差し掛かった俺とは、肉体の機敏さが異なって当然だ。

 いやしかし、この世界は見れば見るほどよくできている。

 こんな形でなければ、美澄さんにも見せてやりたかった、と思う。

 四雅美澄、三園舞を中心とした情報結合システムRECは、国内外の研究者を招いて実稼働寸前まで漕ぎ着けた。携帯デバイスへのシグナル送信によって脳内に変化を与える。そのシステムの危険性を何より危惧していたのは美澄博士であり、その娘である舞だった。

 全ての国民が所持していると言っていい携帯デバイスに、ディスチャージというアプリケーションを付与し、蓄積された個人の経験を集合的なデータとして収集する。しかし、ディスチャージデバイス開発者四雅美澄の想定範囲外の状況が、東神凍耶によって行われた。

 集約データの返信。

 膨大な負荷を伴った情報は、一個人の精神に多大な影響を及ぼす。過度な情報を孕んだシグナルは、携帯デバイスを通じて、人間の脳に変化を与えた。

 ある者は人格が乖離し、ある者は他者への制裁行動に走った。

 東神霞を中心とした仮想現実下でのセラピー治療も功を奏さず、国内人口の約半数を巻き込んで、多層世界は幕を開けた。

 崩壊の始まりは、何気ない日常から始まる。

 セフィロトから俺たちが生み出した、自立稼働AI、maiの原初の言葉の通りに、人々の意識は幾十の世界を彷徨うことになった。

 この世界に接続される際、俺の認識は二階堂アラタのものと重なった。

 そのとき見た、彼と彼を取り巻く世界の実状。そして、彼の焦燥。

 大勢の人々が意識を失い現実を彷徨っている間、アラタは俺の半身としてこの世界を生きてきた。彼にとって不都合なこの世界は、理解し難いものだった。

『更……さん』

 統合管制塔を間近に望む中、俺の脳内に、余所余所しい呼びかけが響いた。

 その声は、紛れもなく二階堂アラタのものだった。

「なんだ? ちょいと急いでるから、手短にな」

 邪険に返すと、アラタは少し言い淀みつつ、続ける。

『すみません。僕は、アルカディアでマイさんに会いました。更さんと入れ替わったあとに……』

 アルカディア。このサンクチュアリと呼ばれた多層世界の奥底に潜むセフィロトの神域。

 俺の意識がアラタの体とリンクしている間、彼の精神がどこに行くのか、それだけは分からなかった。なるほど、精神は一度、アルカディアに行き着くようだ。

「……そうか。……で、どうだった?」

『彼女は自問してました。自分が人間に近づけないなら、自分のほうに人間を近づけるしかない。そう考えていた自分が愚かしい、って』

「そもそも、だな。あいつは、人間の処理速度の外側にいる」

『そう感じました。別の生き物……異物からの交信を受けているような、そんな気分になりました』

「だろうな。あいつは、ある部分は育ちすぎて、ある部分は全くゼロのままだった。だから、東神親子の甘言に乗っかっちまったわけだ。大方、『君が原因で苦しむ人たちを救済しよう』とかなんとか言ったんだろうな」

『人を理解するためにこの世界を作ったのに、人はいつまでたっても苦しんでる』

「そう言ってたのか?」

『はい。僕みたいな受信不全者、セフィロトに適合しない人。その人たちに、何もしてあげられなかった、って』

「……まあ、万能ってわけじゃないからな。どんな世界にも、一定のはぐれものはいる」

『更さん』

「ああ」

『答えを与えてあげてください』

「分かってる。……いや、分かってるのかな」

『きっと答えはこの世界にない……答えは……』

「現実にしかないんだよな。これは俺たちの問題だ」

 そう告げると、アラタの干渉は途切れ、外界の音が再び俺の耳を刺した。

「答え……か」

 独りごちて、アラタの言葉を繰り返す。

 



 眼前に、蠢く壁が見える。

 それが群衆だと気づくまで、少しばかり時間を要した。

「凄い数……この人たち皆シェルターから……?」

 雅が、奇異な光景を前に怯みつつ言う。

 統合管制塔の入り口を覆うように、人の群れが出来ていた。皆一様に焦点が定まらない目をしている。男女の比率は半々といった様子で、確認できる限りでは、多くの人間が腕にDDと思わしき腕輪を装着していた。この群衆は、あの耳障りなサイレンでこの場所に集合したのだろうか。それにしては、俊敏すぎる気もする。

「ユカリ」

「何でしょう?」

「DDの適合失敗例って、どんな感じなんだ?」

 この世界と現実では、起きる現象に差違が生じることがある。俺が現実で目撃したDDの副作用と、このある種何でもありの世界では、そもそもの危険性が段違いだ。

「そうですね……まずは、セフィロトからの制御が不可能になります。まあ、元々受信不全者を対象にしたデバイスですから、それは当然なのですが……」

「で、制御できなくなったそいつらは、何の能力も発現することなく、無害な木偶になってくれるのか?」

 言いながら、少しとげのある言い方になってしまったと自壊する。

 ユカリは、そんな俺の思いなど意にも介さず、淡々と答える。

「……そうはなりません」

「だろうな」

「はい。適合失敗後の明確なサンプルは私のアーカイブにも記されてないのですが、起こりうる可能性として、無差別の対外防波現象が起きると予想されます。簡易型のリジェクト、物理攻撃を無に帰す力ですね。あと、起こりうる事象としては……他者への攻撃衝動でしょうか」

 攻撃衝動。その耳慣れた言葉に、俺は身を固くする。

 またなのか、と東神親子への怨嗟がせり上がってくる。

「とにかく、ここを越えるためにためにはあいつらをどうにかしなきゃならんわけか」

 例えここが現実でないとはいえ、人間を相手に手をあげるのは憚られる。

 そんな俺の逡巡を察してか、雅がこう告げる。

「ここは私とユカリ、あと、大志で対応するよ」

「いや、大志はここに来てないだろ……」

 そう返そうとした時、背後からお誂え向きな大声が響く。

「待たせたな!」

 大柄な体躯に不遜な表情。七海大志が不敵な笑みを湛えてこちらに向かってくる。

 それを確認したユカリから、容赦ない暴言が飛ぶ。

「誰も待ってません」

 大志は不服そうにユカリを睨む。

「は? いやいや、兄貴を呼びに行ってこいって言ったのお前だろユカリ!」

「ええ、確かにそう言いました。でも、こんなに遅くなるなんて……」

「この状況でそれを言うかてめえ」

 呆れ気味に言うユカリに対し、大志は今にも飛びかかりそうに激昂している。

「まあまあ、身内で揉めんな……」

 仲裁に入ろうとした俺の背後から、「二階堂さん」と柔和な声音が聞こえた。

「いや、今は更さんですか」

 振り向くと、穏やかな表情の七海高志がいた。

「高志。なんで知ってんだ?」

「美澄博士のお達しです。というよりは、博士の予測の結果、と言うべきでしょうか」

「美澄さんは、今どうしてる?」

「恐らく、アルカディアに。コンパウンドの影響で、人の形を保ってはいないでしょうが……」

「そりゃそうか……まあ、もう美澄さんはこの世に居ない人間だしな。それが自然なんだろうけど」

 この多層世界で、人の形なんてものがあるのかは疑わしい。だが、美澄さんがこの世界で奔走した形跡は、確かに感じる。

 偶発テロ後の現実を模した更地のような世界で、DD、ファンクションコントロールの開発を成したのだから。

「で、高志はどこまで知ってるんだ?」

「全て、と言っても過言ではありません。更さんがこちらに来ることは、美澄博士の想定されていた事象ですから」

「底が知れねえな、あの人は……。なら、この場を任せても問題ないよな?」

「ええ。僕の存在意義は、この階層でようやく体現できそうです」

 アラタの記憶を辿れば、別階層で七海高志がどのような行為に身を捧げたのかは分かる。

 リジェクトという、あらゆる現象を崩壊せしめる能力。それは、時に身体に、時に、空間に影響を及ぼす。

 多層世界内において、高志が自我をもって行動した回数は四回。そのどれもが、成功に至らなかった。彼は、美澄博士の意志を忠実に守り、『この世界を崩壊させよう』と奮闘していた。

「厄介なことに巻き込んで悪かったな。……お前も、マイも」

 高志は、頭を振り、否定の意志を表示する。

「僕たちは、貴方たちのものです。貴方たちの望みを叶えるために力を使うのは、当然です」

 自立型AI。三園舞がセフィロトから構成した欠片がマイであるなら、高志は、四雅美澄博士が構成した自立型の支援プログラムだ。高志は、現実で美澄博士のRECシステム研究に協力し、多層世界では、武力をもって美澄博士の側に居た。

「恨んでないか?」

「いいえ。何故です?」

「いや……俺たちの都合でお前らに迷惑を……」

 言うと、高志が、「それは違います」と強い語調で訂正する。

「僕たちに、自由意志はないはずだったんです。でも、ある瞬間から、僕たちには自我が生まれました。それは、美澄博士の功績でもあるでしょうし、同時に更さんと舞さんの研鑽の賜物だと思います」

 高志は、淡々と言葉を継ぐ。

「明確に悪を選別するなら、現状最もその概念に抵触するのは東神凍耶、そして、東神霞です。私利私欲のための世界は、更さんたちの目的とは大きく違えていますし、それを改善するために危険を覚悟でここにやってきた更さんを、僕が断じるなんて、出来ません」

 強く断言すると、高志は群衆に目をやる。

「彼らも迷いの中にいます。導く、なんて大仰な行為は不可能ですが、目を覚まさせることなら、出来るのかもしれません」

 高志は微笑み、体を宙に浮遊させる。そして、雅と大志に呼びかけた。

「道を作りますよ。手伝ってください」

「任せろ!」

「出来るだけ穏便にね」

 息巻く大志を、雅が宥め、彼らは群衆の中へと飛び立っていった。

 それをただ眺めるだけの俺に、ユカリが語りかける。

「あの人たちは、あなたたちの理想に近づいていますか?」

 真剣な表情を崩さず、彼女は全てを理解しているかのように俺に伺う。

「強きを挫き、弱きを助ける、っていうなら、理想通りなんだろうけどな。如何せん、人の理想には、際限がないから」

 確かに、とユカリは相好を崩す。

「この世界をモニタリングしていた私にも、全容は理解出来ませんでしたし」

「まさか、お前と高志に美澄さんが全権を委託してたなんて、思いもしなかったよ」

「なんの話ですか?」

 わかりやすく惚ける仕草は、ユカリの風貌にそぐわないと感じる。

「この世界で、美澄さんが生きていたのはほんの僅かなんだろ? アラタと雅の前に現れた美澄さんは、管制計が見せた実態のようなホログラフかなにかだ。投影された肉体に触りでもしない限り、その存在を確定させることは難しいしな」

 この世界とのリンクが完了するまで、俺の意識は虚無の空間を彷徨っていた。そこに、俺の意識が存在したのかさえ、定かではない。

 現実の、実態をもった世界。意識のみを抽出した、多層世界。その間にある空間が、死に近い場所だと、本能的に理解していた。

 時間も感覚も曖昧な空間で、俺は美澄さんと再会した。

 あの場所が、この世とあの世の狭間なのだとして、意識の消失点だとして。美澄さんは最後、俺に伝えた。

「美澄さんは、こう言ってた。多層世界は、彼女〝たち〟に任せてきた。現実で死を迎えた人間が多層世界に留まれるのは僅かな時間で、多層世界は、〝続きを抱えているもの〟の世界だった、ってな」

 彼女は、君を待っている。終わらない世界で、終わりを望んでいる、と。

 そう、無意識下で告げられたような感覚があった。

「私が全てを知っているわけではないですよ」

 俺は、自嘲するユカリの肩に手を伸ばす。手は、彼女の肩をすり抜け、空を切るようにして宙にぶら下がった。

「アラタは受信不全者。つまり、RECシステムに関する全てから除外される。更に言えば、極端に外部との接触を嫌ってた奴だった」

「だから、私たちに実像がない、ということに気づかなかったんですね」

 アラタの経験の中に、他者との触れあった形跡は殆どない。こと、佐久間ユカリと七海高志に関しては、言葉でのコミュニケーション以外は交わされていなかった。

 今現在、アラタの身体を使用している俺は、本来この世界のRECシステムとは無関係の存在だ。故に、RECシステム下で起きる現象に対応することが出来ない。

「七海高志と大志、佐久間ユカリは、シェルター内で絶えたはずの命なんだろ? RECシステム、ファンクションコントロールの配下でのみ起動する、支援型の人工データ」

 訊ねる俺に、ユカリは小さく頷いた。

「私たちは、ある世界……多層世界の一部分で息絶えた命でした。それを多層世界内に跨がるデータに変換したのが美澄博士、そして、お嬢……更さんの世界で言うと、舞さんですね」

 データが損なわれたことを、消失と呼ぶべきか、死と呼ぶべきか。平易な倫理観で言うなら、前者なのだろう、と俺は思う。

 この世界は異常です、とユカリが言葉を継ぐ。

「シェルター内の人々、つまり眼前の方々は皆、『一度絶えた命』です。賢人会や東神に反乱を企てた者、また、その傾向が強いとされた者、そんな理不尽な理由で命を奪われた人たちが……」

「目の前で動いてる」

 ユカリは静かに頷く。

「私や高志もそうです。本来なら、こうして生者と会話することも叶わないはずなのに」

 東神霞は、この世界は様々な願いが叶うと言った。

 生きることが叶わなかった人間も、生き直せる、と。

 それはそのまま、現実を生きられなかった人々とも理解出来るし、多層世界内で生まれ、死んでいった命にも当てはまる。

「お嬢は、美澄博士とともにそんな私たちに命を与えてくださいました。お嬢の空間固定の能力はご存じですよね?」

「知ってるよ」

 初めて空を飛んだアラタの困惑が、自分のもののように想起される。

「あの力は、未現物質の発生を促す能力です。固形物、有機物になるはずのないものを、顕現させる力。お嬢は本来形を持たないはずの私たちに、実像を与えたんです」

「雅にだけ干渉できる身体、ってことなのか?」

「いえ、この世界において、RECシステムやそれを使用した力は空間を創造するに等しい力を有します。だから、私たちは、存在するものとしてこの世界にいることになります。受信不全者のような例外を除いて、ですが」

 もういないはずの人間が、生まれ変わったかのように存在する世界。

 やり直しの世界。

 それは、響きだけを聞けば甘美だろう、と思う。

 だけど、それは一時的なまやかしであると、俺の欠片は言った。

「確かに、異常だわな……いや、今更何をって感じだが」

 思わず口を突いて出た言葉に、ユカリは微かに微笑んだ。

「この世界の流れは一定ではないんです。それは、多くの世界の干渉を受けているからとも言えますし、そもそも、現実のまねごとであるからかもしれませんね」

「雅に、それを伝えようと思わなかったのか?」

「お嬢は、本能的に気づいておられたと思います。だから、どの多層世界のお嬢も、等しく抗おうとしていたのだと」

 その闘いに、絆されたやつを知っている。そして、その実直さに三園舞を感じる俺がいる。

「じゃ、ま、その最終局面に俺も行きますかね」

 出来るだけ深刻にならないように告げると、ユカリはこう告げる。

「セフィロトが設置されているのは全三十階の真ん中、十五階です。そこにきっと、東神霞がいます」

 ユカリの助言に礼を告げ、俺は気高い塔の入り口に向かい、走り出した。


一階ロビーから宙を見上げると、吹き抜けになった天井は、先が霞むほどの空洞だった。

 その光景を眺め、微かに倦怠感が押し寄せる。

「エレベーターもないのかよ……不親切な」

 吐き捨てるように独り言ちて、この異常な能力者が蔓延る管制塔に、そんなものは必要ないのだと遅れて気づく。

 螺旋状に伸びる階段を登りながら、俺はこの奇っ怪な現象の経緯を辿っていた。

 セフィロトと呼ばれる人工知能の研究は、四雅美澄博士の研究室が中心となって行った一大事業だった。

 現実世界でいうセフィロトは、過去の文献や故人の行動パターンを蓄積し、自己を創造していく自立型のプログラムになるはずだった。

 だが、あくまでアーカイブを参照したに過ぎないセフィロトは、人間の行動矛盾を許容できず、自己の感情を蓄えた人工知能とは呼べないものになっていった。

 ただ矛盾を正し、最適解を模索するだけのセフィロトを元にして、自分のコピーを作れないか、と提案したのは四雅美澄の娘、舞だった。

 舞曰く、膨大な情報に晒すのではなく、主立った一個人のデータを使用した人工知能なら、人間らしい振る舞いや、感情を持てるのではないかということだった。

 人間の感情をコピーする。そして、一つの人格として、新たな可能性を秘めたものを形成する。

 making a i. 通称、maiは、セフィロトから生み出され、三園舞と俺の元で無垢な状態から育成されたプログラムだと言える。

 maiが人間で言う幼児ほどの知能しか持たなかった時期に、俺は四雅研究室に配属となった。夜な夜なモニターと向き合う舞と初対面を果たしたのは同時期、俺たちが二十五歳の時だ。

 四雅舞に対しての当初の印象は、奇妙な女だ、ということに尽きる。

 誰に対してもニコニコと愛想よく、かといって角が立つようなわざとらしさもない。一方で、人工知能研究に従事する際の彼女はというと、夜通しモニターに語りかけ、時折研究室仲間が声をかけると、寝ぼけたようにへんてこな応答をする女だった。

 舞は、性善説を信じているのだと感じたのは、都心で航空機の爆破テロが起きたときのことだ。

「きっと、理由があるんだよ。勿論、方法は間違ってるし、許せることじゃないけど、でも、何か……」

 連日報道される残忍なテロ実行犯に対して、そんな反応を示したのは、この国で彼女だけなんじゃないか錯覚するほど、俺は驚いた。

「皆、分からないんだよね。自分がどうしたら正解なのか」

 舞は、俺に向かい、真剣に訊ねていた。

「ねぇ、更。皆、どこに向かってるんだろう?」

 元より性悪説を唱え、多くの研究室で鼻つまみ者になっていた俺は、彼女の善に絆されていった。

「私に考えられないことを、この子に託してるの」

 歳月を重ねるごとに、舞と俺、舞とmaiの交流は密になり、maiは多くの恩恵を人々に与えるまでになった。

 俺たちが二十七歳を迎える頃、RECシステムの完成は、四雅美澄と四雅舞の手によって成された。当然、セフィロトとmaiの功績でもあるのだが。

 maiはその時期になると、十七歳並の知能を有するまでになっていた。

 だが、そこで俺は違和感にぶつかる。

 成長が遅すぎる、と感じた。

 人間の能力を度外視した処理速度も持つはずの人工知能が、二年間でようやく十七歳。

「この子、私たちに合わせるのかもね。本当は、もっと自由に出来るはずなのに」

 舞は少し悲しげに、そう言った。

 時を同じくして、東神霞の息子、東神研究室の異端児と言われた凍耶が、機能分配アプリ、ディスチャージを開発する。

 その後起きた偶発テロ、凍耶によるmaiのシステム強奪。そして、凍耶による、俺たちと同研究室の九音ユイカの殺害。

 今思えば、舞は、maiのストッパーになるため、時間を労していたように思う。

 俺がもう少し聡ければ、自分の眼前で同僚が息を引き取る光景を見なくてもよかったのではないか、と悔恨する。

 

 十四階層にたどり着いた俺の前に、想像を絶する光景が飛び込んできた。

 三十畳ほどのフロアの中央に横たわる無数の人、人、人。

 駆け寄り、確認すると、皆一様に息絶えている。

「こいつら、賢人会の……」

 現実世界において、東神霞の仮想実験に賛同していた研究者集団。その総称が、賢人会だった。眼前の彼らには見覚えがある。皆、遅々として進まない美澄さんの研究を腐していた人間たちだ。研究所内で、彼らが東神霞を敬っている様を何度となく見た。

 これは、東神霞にとっても計算外の出来事が起こった、ということではないか?

 頭上にある、十五階フロアを見上げる。

 東神霞は、あの場所でmaiとの接触を試みているはずだ。ならば、その場所に、彼と志を共にした賢人会の面々が帯同していないのは不可思議だ。

 この世界と現実は地続きであり、この世界で絶えた命は当然、向こうでもなかったものになる。

 東神霞が画策した、現実に情報を持ち帰る行為そのものが破綻しかかっている?

 窓の外で、光源が弾ける。

 東神凍耶の下卑た笑い声が、轟いたような気がした。


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